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あるいは、裏切りの妹

「水」の危機を脱し、図書館の火が鎮火した数日後の深夜。 宮殿は、焦げた臭いと、燻るような沈黙に包まれていた。 だが、その静寂は、血相を変えた百人隊長の報告によって破られた。


「報告します! ……王女アルシノエ様が、消えました!」


「何だと!?」


 カエサルが寝台から跳ね起きる。


  「軟禁していた部屋の衛兵が殺害され、教育係のガニュメデスと共に、敵陣へ逃亡した模様です!」


 その報告を聞いたカエサルの顔から、血の気が引いた。 彼は即座に立ち上がり、クレオパトラの手を引いて城壁のタレットへと駆け上がった。 二人の眼下には、信じがたい光景が広がっていた。

 敵陣の中央、無数の松明に照らされたやぐらの上に、小さな影が立っている。 まだ15歳の少女、アルシノエだ。 彼女は、姉が着るはずだった黄金の鎧を身につけ、エジプト兵たちの歓声を浴びていた。


「……マズいな。これは、最悪の手だ」


  カエサルが、手すりを叩きながら呻く。

 クレオパトラは、冷たい夜風に髪を煽られながら問うた。


「カエサル? たかが子供一人が逃げただけでしょう。弟の軍勢に、お人形が一つ増えただけで……」


「違う! あれは『ただの子供』ではない!」


 カエサルは、珍しく声を荒らげて否定した。


「いいか、クレオパトラ。今まで敵は『将軍たちの私兵』に過ぎなかった。だが、王女である彼女が自らの意志で合流したことで、奴らは『ローマからの解放軍』という大義名分を得てしまったんだ!」


 カエサルは指差す。アルシノエの横に立つ、陰気な男――ガニュメデスを。


「それに、あの教育係のガニュメデス……奴はアキラスよりも遥かに頭が切れる。今までのらりくらりと包囲していた敵が、明日からは本気で我々の首を獲りに来るぞ。……君という『売国奴』を処刑するためにな!」


 その予言を証明するかのように、櫓の上のアルシノエが叫んだ。


「――聞け、エジプトの民よ! 姉クレオパトラは、ローマの男にからだを売り、あろうことか我らの誇りである図書館を焼いた! 彼女はもはや姉ではない! エジプトの敵だ!」


『殺せ! 裏切り者を殺せ!』


  群衆の大合唱が、地鳴りのように響く。


「真の女王は、この私、アルシノエだ! 我が軍師ガニュメデスと共に、ローマの侵略者どもを海へ叩き落としてやる! ……姉上の首を、私の前に捧げよッ!」


 実の妹からの、処刑宣告。 幼い頃は共に庭で遊び、同じ血を分けたはずの少女が、今や数万の軍勢を率いて、姉の死を熱望している。


 塔の上で、クレオパトラは立ち尽くしていた。


 弟には追放され、妹には殺意を向けられ、民衆からは石を投げられる。 彼女の周りには、もう味方は一人もいない。 隣に立つ、このローマ人の男を除いては。

 カエサルは、彼女の青ざめた横顔を覗き込んだ。


「……クレオパトラ。あれが現実だ。君の家族は、君を殺す気だ」


「……姉上の首を、私の前に捧げよッ!」


 妹アルシノエの絶叫が、再び夜の闇を切り裂いた。 民衆が呼応し、殺気立った波が宮殿へと押し寄せる。 塔の上、カエサルは舌打ちをした。


「……まずいな。群衆心理モブに火がついた。このままでは、兵士たちまで動揺する」


 彼はクレオパトラを下がらせようと手を伸ばした。


「下がっていろ、クレオパトラ。矢が飛んでくるぞ」


 だが、彼女はその手を、パシリと払いのけた。


「……見くびらないで、カエサル」


 その声の冷たさに、カエサルが目を見開く。 彼女は、恐怖に震えているのではなかった。 彼女の唇は、獲物を見つけた猛獣のように、獰猛な笑みの形に歪んでいたのだ。


「あの子は今、私を『売国奴』と呼んだのかしら? ……いい度胸だこと」


 クレオパトラは、身に纏っていた簡素な外套を、無造作に脱ぎ捨てた。 現れたのは、あの大王の墓所で祈りを捧げた時の、薄絹のチュニック一枚の姿。 夜風が吹き付け、彼女の豊満で完璧な肢体のラインを露わにする。それは、鎧で身を固めた少女には決して真似できない、完成された「女」の武器だった。


「見ていて頂戴。……『格の違い』というものを、あの小娘の骨の髄まで教えてあげましょう」


 彼女は、カエサルの制止も聞かず、松明が焚かれた城壁の最前列へと、踊り出るように進み出た。


「――お黙りなさいッ!! アルシノエ!!」


 その一喝は、雷鳴のように轟いた。 妹の金切り声とは違う。腹の底から響く、よく通る、そして聴く者の鼓膜を甘く痺れさせる「女王のロイヤル・ヴォイス」だった。


 一瞬にして、数万の群衆が静まり返る。 全ての視線が、塔の上に立つ一人の女に釘付けになった。

 松明の逆光を背負い、夜風に黒髪を乱舞させるクレオパトラ。 その姿は、神々しいまでに美しく、そして残酷なまでに妖艶だった。


「姉上……っ!?」


 櫓の上のアルシノエが、その圧倒的な存在感に気圧され、たじろぐ。

 クレオパトラは、眼下の妹を見下ろし、艶然と微笑んだ。 それは、慈愛の笑みではない。絶対強者が、吠える仔犬に向ける憐れみの笑みだ。


「まあ、可愛らしいこと。私の真似をして、黄金の鎧なんて着込んで。……でも残念ね、アルシノエ。貴女にはまだ早いわ」


 彼女は、自らの豊かな胸元と、くびれた腰を、あえて群衆に見せつけるように優雅にポーズを取った。


「鎧など、自信のない者が身につけるただの『殻』。……真の女王とは、この『身一つ』で世界をひれ伏させる者のことを言うの!!」


 彼女の声が、夜の空気に朗々と響き渡る。


「民衆よ、よく見なさい! そこで鎧に着られている小娘と、この私……どちらが『エジプトの宝石』に相応しいかを!」


 彼女は、隣に立つカエサルの腕を強引に引き寄せ、その肩に自分の顎を乗せた。


「ローマの英雄に躰を売ったですって? ……笑わせないで。この男は私が『買った』のよ! 私の美貌と、私の知性で、世界最強の男を跪かせた!」


 どよめきが走る。 「売国奴」という汚名を、彼女は「勝利の証」へと塗り替えたのだ。


「アルシノエ、貴女にできる? 剣も使わず、ただその瞳だけで、歴史を動かすことが? ……無理よ。貴女はまだ、男の腕の中で溶ける悦びすら知らない『子供』なのだから!」


「なっ……! 無礼な! 射て! あの売女……姉上を射殺せ!」


  アルシノエが顔を真っ赤にして叫ぶ。

 だが、弓兵たちは動けなかった。 塔の上に立つクレオパトラの姿が、あまりにも美しく、あまりにも堂々としていたからだ。


 月光と松明に照らされたその肌は、白磁のように輝き、見る者の理性を蒸発させる。 彼女を射ることは、女神イシスに矢を向けるに等しい。


 本能的な畏怖と魅了が、兵士たちの指を麻痺させていた。


「ふふ……。どうしたの? 矢も放てないの?」


 クレオパトラは、つまらなそうに鼻を鳴らすと、妹に向かってとどめの一撃を放った。


「帰りなさい、お人形さん。ここは『大人』の戦場よ。あなたの出る幕などない」


 完勝だった。 武力ではなく、圧倒的な「美の暴力」。

 群衆たちの目は、もはや櫓の上の少女ではなく、塔の上の女王に釘付けになっていた。


「……く、くそぉぉぉッ!!」


 アルシノエは、悔し涙を浮かべて地団駄を踏んだ。 どんなに正論を叫んでも、どんなに立派な鎧を着ても、彼女が放つ「本物の輝き」の前では、すべてが霞んでしまう。


 その一部始終を特等席で見ていたカエサルは、呆気に取られ、やがて腹を抱えて笑い出した。


「はっ……ははははは! 凄い、凄すぎるぞ!」

 彼は、勝ち誇るクレオパトラの腰を抱き寄せ、その頬に熱い口付けを落とした。


「矢の雨よりも恐ろしい演説だ。……さすが、私の女王はモノが違う」


 カエサルの目は、歓喜と独占欲でギラギラと輝いている。 彼は戦場のど真ん中で、彼女の耳元に囁いた。


「見たか、あの妹の悔しそうな顔を。……いい気味だ。君は、世界で一番美しく、そして性格の悪い女だ。……たまらなく興奮する」


 クレオパトラは、乱れた髪をかき上げ、カエサルを見上げた。 その瞳は、勝利の熱でとろりと潤んでいる。


「……お褒めに預かり光栄よ、閣下。でも、これで完全に火をつけてしまったわ」


 彼女は、悔し紛れに撤退を始める妹の軍勢を見下ろし、冷酷に、しかし艶やかに微笑んだ。


「さあ、始めましょうカエサル。……私に喧嘩を売ったことを、あの世で後悔させてあげなくては」


 妹アルシノエの軍勢が、悔し紛れの罵声を残して撤退していく。 塔の上には、圧倒的な勝利の余韻と、静寂が戻ってきた。


 カエサルは、勝ち誇った顔で息を整えているクレオパトラを見つめ、ふと、意地悪く目を細めた。 彼は、彼女の腰に回していた手を解き、わざとらしく呆れたように肩をすくめてみせた。


「……見事な演説だったよ、女王陛下。だが、一つだけ言わせてもらおうか」


「なにかしら? 感謝の言葉なら、後でゆっくり」


 クレオパトラは、まだ興奮で紅潮した頬を指で仰ぎながら、悪戯っぽく微笑んだ。 だが、カエサルは彼女の鼻先を、人差し指でピン、と弾いた。


「痛っ……! 何を!」


「お仕置きだ。……忘れたか? お嬢さん」


 カエサルは、彼女を壁際に追い詰め、逃げ場を塞ぐように両手をついた。


「あの日、私に何と誓った? 『誇りを捨て、貴方の影に隠れ、ただの愛人として生きる』……そう言った舌の根も乾かぬうちに、全世界に向けて『私が女王よ!』と宣言するとはな」


 彼は、彼女の乱れた髪を直しながら、苦笑した。


「あれのどこが惨めな『愛人』だ? 完全に、私を尻に敷く気満々の『女帝』の顔だったぞ」


 クレオパトラは、一瞬きょとんとして、それからバツが悪そうに視線を逸らした。

 確かに、妹の挑発に乗って、完全に「地」が出てしまっていた。 「しおらしい愛人」の設定など、アルシノエの前では木っ端微塵だった。


「……あ、あれは……その……」


 彼女は言い訳を探して目を泳がせ、やがて、コホンと咳払いをした。 そして、上目遣いにカエサルを見上げ、とろりと甘い、あざとい猫のような声を出した。


「……申し訳ありません、ご主人様ドミヌス。つい、血が騒いでしまって……」


 彼女は、カエサルの胸板に指で「ごめんなさい」の文字を書くように這わせた。


「でも、仕方なかったの。……貴方が素敵すぎて、つい『この男は私のものよ!』と、世界中に自慢したくなってしまったんだもの。……愚かな女の独占欲を、お許しになって?」


 カエサルは、呆気に取られた。


(……こいつ、また設定を盛りやがった)


  「愛人の演技」が破綻したことを指摘したら、今度は「愛しすぎて暴走した嫉妬深い女」という新しい役を即興で被せてきたのだ。 あまりの図太さ、あまりの可愛げのなさに、カエサルは堪えきれず吹き出した。


「はっ……ははは! 独占欲、か! よく言う!」


 彼は彼女を強く抱きしめ、その首筋に顔を埋めた。


「いいだろう、その嘘に免じて許してやる。……だが、罰として今夜は、その『女王の仮面』が外れるまで、たっぷりと可愛がってやるから覚悟しろ」


 クレオパトラは、彼の背中に爪を立て、耳元で熱く囁き返した。


「お望みどおりに。……私の、恐ろしい征服者コンクイスタトーレ


 二人は、月光の下で口付けを交わした。 愛人の誓いは破られた。だが、その代わりに二人が手に入れたのは、世界中を敵に回してもなお、互いの傲慢さを愛し合う、血よりも濃い「同類」としての絆だった。


アルシノエについてももう少し掘り下げたかったのですが…でもやっぱり世界三大美女であり女王であるクレオパトラは、美の暴力で周囲をなぎ倒さないとね!

そんなクレオパトラを応援してくれる方は、この下の☆やブックマークで応援をお願いします★

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