春のものとてながめくらしつ
雨に湿った土が匂い立つ。そこに、朝露に濡れた若い葉の青い匂いが混じっていた。甘く香るのは何の花だったろうか。
日の当たる社の縁側で蓬霧は、眠る猫を膝に乗せ、ぼんやりと霞んだ青空を見上げていた。
風に揺れる菜の花は、時おりやって来るヒトが社に植えた里の花のひとつである。愛らしい黄色い花は目にも鮮やかだ。蜜を求めやって来た蜂たちの羽音が微かに届いている。
のどかな日和だ。
慌ただしい春の中にありながら、穏やかな時の流れに身を浸してしまう。暖かな陽射しに、瞼は重さを増していた。
うつら、頭が垂れる。それも束の間。
「蓬霧さま、そのような場所でお眠りにならないでください」
社の内側からの、口うるさい狐の声に薄目を開けた。
――あぁ、見つかったか。
内心で呟く。
「あぁ、うるさいのがきた」
声にして出したのは茶トラの方だ。耳を震わせ、目を眇め、呟かれた言葉に狐は猫を睨めつけた。
「それじゃ、また」
しかしそんな視線もどこ吹く風。ひとつ大きく伸びをしてさっさと膝から降りた茶トラは、挨拶もそこそこに次の陽だまりを探しに行った。
喧嘩をするつもりは無いが、気持ちが収まらない狐は大きく尻尾を揺らしている。冬毛の姿は、見るからに温かそうだった。
「おいで、狐。共に微睡もう」
ぱたり、尾が揺れる。
「なりません、蓬霧さま。眠るのなら、中でおやすみになって下さいませ」
「うん、そうだねぇ」
手招いたところで、否が返ってくることは知っていた。世話役としてよく働いてくれる狐だ。その言い分も、よく分かっている。けれど。
肌を撫でる、まろい風にはあらがい難いのだ。
――やむを得まい。そんな言い訳を声に紡ぐ気力も無く。
柱に身を預け、思考をとろけさせてゆく。
「蓬霧さま、」
聞こえた小言に、また閉じていた瞼を開けた。
「いいから、おいで、きつね」
再度手招けば、聞こえてくるのはため息だ。
「私は懐炉ではありませんよ」
「うん、分かっているよ」
それから、しぶしぶと腕の中に収まった温もりを抱き寄せた。
微睡みの縁。
どこかで、花が散った。
梅は実を膨らませ始め。
木々が忙しなく新芽の準備をしている。
野草は、花を綻ばせ。
春の便りは、尽きることなく。
騒がしいまま。
春のものとてながめくらしつ
『起きもせず 寝もせで夜を 明かしては 春のものとて ながめくらしつ』在原業平/古今和歌集




