春雷
カッと空が白く光り、ど、どうと大気が震えた。とつとつと降る雨粒は大きく、強く山を叩く。
そわそわと落ち着かない素振りの狐は今にも外へと飛び出して行きそうだ。今出たところでびしょ濡れになるだけだというのに。
「狐、」
かけた声と重なるようにして、空を切り裂く音がした。ここまでとは違う、バリバリと雷が大地へと届いた音である。
さすがの狐もこれには毛を逆立て飛び上がった。なかなか見事な驚きっぷりである。
「ひゃっ蓬霧さま。今のは、落ちましたでしょう。それも近くですよきっと、この山のどこかに違いありません」
飛び上がってそのまま、己の尾を追いかけるように回る狐に人差し指を立てて細く息を吐き出した。
「うん、分かっているよ。少し、静かにしておくれ」
「はい! 申し訳ございません」
ピタリと体の動きまで止めて、素直に口を噤ませる様子には笑って頷いてやる。
外ではざわり、ざわりと木々の騒ぐ音と、精霊たちの声が交じりあっていた。驚きや焦燥の声もあるが、多くは歓喜の声だ。その中からさらに声を選り分け拾ってゆく。
――あぁ、彼処か。
囁き声の独り言に狐の耳がピクリと揺れた。ついてくる気なのだろう、ゆったりと揺れる尾に、蓬霧は微笑みかけて静止を促す。
「狐、濡れるから、お前はここで待っていなさい」
「そんな、蓬霧さま。濡れるくらいどうということはございませんよ。どうか一緒に連れて行ってください」
案の定狐は直ぐに頷きはしないが、いつものことだ。のらりくらり、蓬霧が丸め込んでゆく。
「けれどほら、兄弟や狸が雨宿りに来るかもしれないだろう」
「兄弟ならば勝手は分かっております」
「うん、だけれど私の代わりに迎える役が出来るのはお前だけだろう」
「それは……」
言い淀み、狐が耳を伏せたところで決着はついた。しぶしぶと分かりましたと俯く姿はまだ不満げだ。しかし頷いたなら良しと、その姿に大して取り合わないのが蓬霧である。
「じゃあ、任せたよ」
いってらっしゃいませと、見送る狐に背を向けて山の中腹へと足を向けた。
どしゃ降りの中でも実体を持たない蓬霧は濡れることも、足元が泥に塗れることもなくゆったりとした歩調で山の中を歩いてゆく。やはり今日は何処もかしこも賑やかしい。其処此処に冬の色を残した山間が、この雨に喜び騒がしさを増していた。
そうして歩いていった先。喜びよりも驚愕にざわめくその場所では、長らく山にあった大きな杉が雷に撃たれて割れていた。太い幹のちょうど真ん中を、雷が通った痕がくっきりと残されている。
「おやおや、今年はなんとも手荒い呼び覚ましだね。近くに蟄雷でも微睡んでいたのかい?」
蓬霧の呼び掛けに、杉はたおやかに笑った。
「えぇ見事にやられてしまいました。雨のおかげで火が大きくならなかったのが幸いでしょう」
「お前は、大丈夫なのかい?」
「さぁどうでしょうなぁ」
そう言って首を傾げた大木は強く吹いた風に幹を軋ませた。そこに悲嘆の色はわずかも無く、ただ在るが儘に己の生を見つめていた。
「私も随分と古くなりましたからね。枯れるなら、そこまでだったということでしょう」
そうか。応える蓬霧もただそれを見届けるのみ。触れた幹の湿気た樹皮に笑みを浮かべた。
「また顔を出すよ」
「えぇ、またいずれ」
再会の約束は戯れの呪いのようなものである。効けば良し、力が足りずともそれもまた在るが儘の結果と言えよう。杉と別れて、またゆったりと社へ帰る。
その途中のこと。真っ白な肉厚の花弁を付けた木に、蓬霧は足を止めた。白木蓮の木である。まだ咲き始めたばかりの空を向く、大きな花の内側には雨が溜まり、いくつかは既に形を崩してしまっていた。
「あぁ、木蓮。来るのが遅かったかな。今年もまた見事だね」
ゆったりとした白い衣を纏い、ぼんやりと空を見上げていた白木蓮は、蓬霧の呼び掛けにようやくその存在へ気付いたらしい。瞬きをひとつ。薄い色の唇に柔らかな笑みを浮かべさせた。
「あら蓬霧さま。こちらこそ、ごあいさつ遅れまして申し訳ございません。一昨日には咲いていたんですけれどね。のんびりしている間に、この雨でして。きっとほとんどの花は傷んでしまうでしょうね」
こちらも杉と同じく、言葉ほど沈痛な面持ちはなくころころと笑声を上げる。朗らかな様子に、蓬霧はそれでも言祝を紡いだ。
「それも全て、お前だろう。まだ蕾もある。好きに春を楽しんでおくれ」
「えぇ、もちろん。まだ始まったばかりですもの」
そう言って、空を見上げた双眸はやはり嬉しそうに笑みを滲ませる。やはり在るが儘。芽吹き、咲き、散ってゆく。命の有り様に蓬霧は目を細めた。
空から落ちてくるは季節を移ろわせる雨。
草木が全身でその恵みを享受する。強く大きな雨粒が、とつとつと山に染み込んでいた。
白く光り、轟く稲妻は春雷だ。
眠気眼の春を呼び起こすその音に、ざわり、山が騒いでいた。




