巡る香
――蓬霧さま。
普段の姦しさのない、抑えた声音の狐が蓬霧に話しかけた。
「うん?」
ひらり、一匹早くに目を覚ましていた蝶がその指先から飛び立つ。もう挨拶は済ませていたらしい。まろい風がその小さな体をすくい上げ、遠い空へと連れてった。
「どうかしたのかい、狐」
その姿を見送り、蓬霧が視線を向けた狐の隣。春の微睡みに似合わない空気をまとった狸が、俯いてめそめそと涙で地面を濡らしていた。
「あぁ狸も来ていたのか。いらっしゃい」
穏やかな声音はその涙の理由を尋ねはしなかった。ただ歓迎し、視線を向け、狸からの言葉を待った。
しかしそれで話が進むことはない。狸はただ身を縮めしく、しくと泣き続ける。それでも蓬霧は待つだけだ。
「蓬霧さま……」
そんな主の性質をよく知る狐は、狸を待っても仕方がないと口を開ける。
「ひとつ前の春に訪ねた、古い梅の木を覚えておいででしょうか。人里に咲いていた紅白の梅にございます」
「確か、人の子と共に逝った子だね。うん、覚えているよ」
「この狸は、毎年その梅の花を楽しみに花見へ行っていたらしいのです。今年もまた意気揚々と訪れてみたものの、あったのは枯れ木のみ。老梅からは話を聞いていたそうですが、信じることが出来なかったそうでして。まだ寒い中人里まで降りて会いに向かったと」
狐の語りに記憶が蘇ったのだろう。狸は一層哀れに肩を震わせた。
「けれど、幾日待てど蕾も付かない姿に本当に枯れてしまったのだとようやく納得したらしく。それから毎日こうして泣き暮らしているのだそうです」
「確かに、あれは見事な梅だったからねぇ」
蓬霧は狸の哀しみを目にしつつ、なれど感情を寄せることなく穏やかな声音で相槌を打った。狐も蓬霧に狸を慰めて欲しいわけではないので淡々と話を進める。
「これが住処にしている側の木立がそんなに毎日泣かれてはこっちの気が滅入ると申しますので、一先ずここへ連れてきたのです。蓬霧さま、どなたか良い梅の木をご存じではありませんか?」
静かに交わされる彼らの会話に、嗚咽をおさめすんと鼻を鳴らした狸は、まだ涙に濡れた声でようやく口を開いた。
「あんな立派な梅の木が他にあるもんか。美しくて綺麗で、端麗で優美で麗しくて……いい匂いの梅の木が、あの老梅以外にあるもんか」
「ほとんど同じ美辞麗句じゃないか」
「こら、狐」
ぱたりと苛立たしげに尻尾を動かした狐を蓬霧は嗜める。
「秀麗で壮麗で美麗で……すっごくいい匂いで……」
その間にも狸は古梅へ想いを馳せ続け再度涙に声を詰まらせた。ほろりとため息をもらす狐は、そんな狸の気持ちを理解しつつも、やはり慰めるような言葉をかけはしなかった。
蓬霧は記憶を辿るようにうろりと視線を巡らせる。それから、柔らかな音で一首歌を風に溶け込ませた。
「散りぬとも 香をだにのこせ 梅の花 恋しきときの 思ひいでにせむ……かな。うん? あぁそうなの。へぇ。それは、おもしろい」
「蓬霧さま?」
木々のざわめきや精霊らの囁きに耳を傾けていた蓬霧はそれから、ひとり納得したように頷いて狸へと視線を戻す。
「おいで狸。お前の愛する梅の木の元へ連れて行こう」
「え?」
目元をぐっしょりと濡らした狸と狐、双方が蓬霧の言葉に首を傾げた。しかしそれ以上の言葉はなく。ゆったりと歩き始めた蓬霧に慌ててその後ろを追いかけた。
冬枯れの草叢を踏みしめる。時おり折れ落ちていた枝がパキリと音を響かせた。
「おまえ、いくらか前にあの古梅から落ちた枝をもらいはしなかったかい?」
「枝?」
不思議そうに目を瞬かせ、大きく首を捻った狸に蓬霧は声を抑えて笑声をたてる。狐は何か言いたげに口を開くが、諦めたように首を振って終わらせた。
「そう、梅の実の付いた枝だ。その分では覚えていなさそうだね」
「風で折れた枝は時々貰っていたよ」
「じゃあそれの内のどれかだね。それを、その時気に入った場所に飾っていただろう」
「うん」
頷いてはいるものの、そのお気に入りの場所も覚えてはいないだろう。まだ首を傾げ続ける狸に蓬霧は、少し登った先を指差した。
「それのひとつが、ほら、あそこだ」
そう言って蓬霧が示した先には、まだ若い梅の木がちらほらと花を咲かせて立っていた。紅と白二色の花弁からは甘い香りが漂っている。
わっと、両の目を煌めかせた狸が歓喜の声をあげる。
「あの梅の匂いにそっくりな梅だ!」
それから喜び弾んでその木へと近づき、綻んだ花弁へとその鼻先を近づけた。突然現れた狸の姿に、若木は戸惑うようにその身を捩らせている。
「それはそうでしょう。あの古梅の実から成った梅の木なんだから。まったくのんきな狸ですよ」
「それがあれのいいところだろう」
「えぇ、困ったやつですよ」
蓬霧の説明を聞いていたところで、狸はきっとあの梅を、老梅とよく似た梅だとしか思わないだろう。若木とて、あの場所へ運んだのが狸だとは知りもしない。知ったところで、そこらの木だって同じような成り立ちだ。特別なことなどひとつもない。
芽吹き、綻び、実り、枯れる。
大きな円環の中で。
春がまた巡り来る。
散りぬとも 香をだにのこせ 梅の花 恋しきときの 思ひいでにせむ
――読人知らず∶古今和歌集




