散る花は
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
「知ってるか、蓬霧」
「いいや、知らないね」
深く、掠れた男の声音に蓬霧はいつも通り穏やかな声音で返した。膝の上に丸まった狐は大きなあくびをひとつ。退屈そうにその会話を聞いている。
「凍鱗といい、お前といい、歌に興味はないのか?」
どうやら冬の神とも顔見知りらしい。男の質問に蓬霧は首を横に振った。
「いいや。さしてヒトに興味が無い」
にべもないもの言いだ。淡々と事実だけを述べる口調は冷たくも聞こえるだろう。しかし男は、その答えに朗らかに笑声を上げる。身じろぎに刀が揺れた。可哀想に矢立の方がよっぽど手入れをされていそうな刀である。
「じゃあ俺にも興味は無いか?」
「無いね。無いけどうるさくて、お前は面白い」
ははっ。青空に晴れやかな声がよく響く。
「そりゃあいい。俺もお前らが興味無さそうに俺の話を聞いているのが面白いよ。里の奴らはそのうち嫌そうな顔をし始めるからな。なんだ、また歌の話かって」
それは、そうだ。無口な狐はチラリと男を見上げ鼻先を尾に埋めた。宥めるように蓬霧がその毛並みを梳いてやる。
「まぁそれは思っているよ。よくも話が尽きないものだと」
「尽きるものか。この世には美しい歌がごまんとあるんだぞ。それに、明日になれば同じ歌でも意味が違って見えることもある」
蓬霧、ほぉ、と息を吐き出す。そこにやはり興味の色はなく。
「それで、何だったか……」
さりとて構わず、男は滑らかに語りを続けた。
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし、だ。在原業平の歌だな。似たものだと、吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき。これは西行法師で、桜の歌なら紀貫之の、桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける。なんてのも美しいな」
つらつらと、歌を並べ立てる男は何とも楽しそうである。薄目を開けその顔を眺めた狐はため息を吐き出し、猫ならばとっくに他所へと移っているだろうと胸中でひとりごちた。
多くの言葉で讃えられた桜は誇らしげに、満開に咲き誇ったその身を揺らしている。はらはらと舞う花弁がまた男を喜ばせ、歌を口にさせていた。
「しかし覚えたとて、お前を喜ばすだけだろう」
穏やかに蓬霧は男の思惑を辞んだ。
「それの何が悪い」
それに男は平然と言い返す。その片頬を歪めて笑んだ顔に蓬霧は鼻白んだ。
なんとも豪気なヒトである。神を畏れてはいようが、怖れてはいない。喉を鳴らすような笑い声さえ晴れやかな人となりが、尊大なもの言いさえ好感を与えた。
それ故だろうか。
「それに、知っておいて損はないだろ」
「得にもならないよ」
蓬霧もまた、何を気にするでもなく男と会話を楽しんでいるようだった。
「あー言えばこう言うな」
「なら、何が得られる?」
「例えば……そうだな」
男が桜を指差す。
「お前があの桜に咲けと言えば、蕾はほころぶのだろう」
「そうだろうね」
見上げ蓬霧が首肯した。
「散れと言えば、散る」
「全てではないけれど、そうなるだろう」
「けれど、ひとめ見し君もや来ると桜花今日は待ち見て散らば散らなむ、と言ったならば散り方も変わるだろう」
うん……と数瞬、思案に視線を彷徨わせ蓬霧は再び首肯する。
「そうかもしれないね」
「つまり言葉には力が宿るんだ。使いようによっては祝ぎにも呪いにもなる。なら、なるだけ多くその使い方を知っていた方がいいんじゃないか?」
「詭弁だ。それは、和歌でなくてもいい」
「そこは俺の好みだから甘受してもらおう」
なんとも、傲慢だ。呆れた狐がじとりと男を睨めつける。対して蓬霧は珍しく声をたてて笑っていた。
「なんとも、ヒトらしいもの言いだ。お前の為に和歌で祝ぎ、呪えと言うのか。傲慢な話だ」
あっはっは。よほど、気に入ったらしい。蓬霧の笑声に山がさざめく。
風が、男の頬をなぶった。
「なら傲慢ついでに和歌でお前を呪ってみせようか?」
「ほう。私を? 人が、どう呪うと言うのだ」
「そうだな……」
と男、熟慮を始め。うん、とひとり首肯した後、深く掠れた声で一首、歌を舌に乗せた。
――散る花はまた来ん春も咲きぬべし別れはいつか巡りあふべき
「それが、呪いか?」
穏やかに蓬霧は尋ねる。
「あぁ」
頷いた男はにやりと頬に笑みを浮かべ、やはり傲慢に言ってのけるのだった。
「いつか、分かる日が来るよ」
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
古今和歌集/在原業平
吉野山梢の花を見し日より心は身にも添はずなりにき
山家集/西行法師
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける
古今和歌集/紀貫之
ひとめ見し君もや来ると桜花今日は待ち見て散らば散らなむ
古今和歌集/紀貫之
散る花はまた来ん春も咲きぬべし別れはいつか巡りあふべき
山家集/藤原脩憲




