2.沼男
『沼男。沼のそばで、一人の男が雷に打たれて死んだ。その直後、同じ場所に落ちた別の雷の衝撃で、沼の泥から、死んだ男とまったく同じ記憶を持ち、同じように考える、うり二つの体の男が発生する。この沼男は、自分が沼男だとは思いもせず、死んだ男の家に帰り、男の友人たちと過ごし、男とまったく変わらぬ生活を送るようになる――』
俺は、思考実験を題材にした本をぱたんと閉じる。
家から持ってきた漫画は、さすがに読み飽きてしまったので、この家の書斎に置かれていた本を適当に持ってきたのだが、俺には難しいようだった。
「本人でないんだったら、結局別モンでしかないじゃんか」
他にも子供向けの古い絵本や昔の漫画、民俗学や精神医学の本やらもあったけれど、どれもあまり興味をそそられなかった。
だが、ゲームソフトは手詰まりになってしまったし、親の方針でスマホはまだ与えられていない。宿題もさすがにこれ以上進める気にはなれなかった。
完全に暇を持て余した俺は、常の居場所となった和室でごろりと仰向けに転がる。
ふと見上げた柱には、背丈を測った傷が幾筋も刻まれている。俺の背丈と同じくらいの高さまで刻まれた『けーちゃん』や、胸くらいの高さまでの『れーじ』やら、かつてここで過ごしていた子供の痕跡が感じられた。
オバアサンは家にいるはずだし、農協に出かけたオバサンもそろそろ帰って来る頃だろう。
だが、その時ばかりは屋内はシンと静まり返っており、家の外から僅かに蝉の声が聞こえてくるだけだった。
このまま昼寝でもしてしまうか。
汗で湿った腕の皮膚が畳の表面が張り付くかすかな痛みを感じつつ、目を閉じたその時だ。
カリッ
俺は飛び起き、振り返る。
爪で襖の表面をひっかくような音。
それは襖の向こう側から聞こえた。
俺は、おずおずと襖に近付き、襖の表面に耳を押し当てた。
何も聞こえない。
しばらく待ってみたが、やはり何の音も聞こえてこない。俺は諦めて襖の前を離れる。なんとなく部屋にいる気にはなれず、台所で水でも貰ってこようと思ったのだ。だが、
カタンッ
再び襖の向こうから、音がした。
何かが、いる。
ごくりと唾を飲み込んだ俺は、意を決して襖の前に立つと、引手に指を掛けた。
その時の俺は、まだのんきなものだった。
この家は田舎なだけあって、虫が多い。巨大な蜘蛛やムカデなどを屋内で見つけて悲鳴を上げたこともあった。
今回も、襖の向こうで鼠か何かの小動物が巣を作っているかもしれないと、そういう覚悟を持って襖を開けようとしたのだ。
入ることはしないけど、中を覗くだけなら許されるだろう。そう思っていた。
だが、襖は何かがつっかえたように、動かない。襖の縁と表面に手を空いて揺すってみるが、木と紙でできているとは思えないくらい、襖はびくともしなかった。
引手の付いていない壁側の襖も試してみるが、やはり動かない。
おかしい。
普通に考えれば、何か重たい物が引っ掛かって、つっかえ棒になってしまっているぐらいしか、原因はない。しかし、四枚ある襖のすべてが、のりで固められてでもいるように僅かも動かないということに、俺は違和感を覚えていた。
襖の向こうは静まり返っている。
一方で、俺の心臓はバクバクと高鳴っている。
俺はごくりと唾を飲み、からからに乾いた喉を潤す。そして、拳をそっと持ち上げると、襖の表面を軽くノックした。一回、二回。俺はしばらく待つ。緊張感がほどける僅か手前。
コン、コン。
俺は目を見開く。ノックが、返ってきた。
息をのんで、再びざらついた襖の表面を叩く。数秒後、同じように襖の向こうからも襖が叩かれた。
「なあ、誰か……いるのか?」
そんな筈はない。締め切られた和室に、この家の住人以外の何者かが存在する訳がないのだ。
だから当然、返事はない。返事はないはずなのに、コン、と襖が鳴る。
俺は一目散にその部屋を飛び出した。




