第8話「忘却の迷宮」
北の山道は、街の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
木々の間を縫うように続く獣道を、ルート、アシュル、そしてシィナの三人が進んでいく。シィナは杖を片手に、時折周囲を警戒するように視線を巡らせていた。
「もうすぐです。あの岩壁の先に、迷宮の入り口があるはずです」
「ありがとう、シィナさん。よく調べてくれたね」
「姉のことがかかっていますから……」
シィナの声には、緊張と決意が入り混じっていた。ルートは小さく頷き、彼女の隣を歩き続けた。
やがて、切り立った岩壁の隙間に、ぽっかりと黒い穴が口を開けているのが見えてきた。近づくにつれ、冷たく湿った空気が肌を撫でる。入り口の周辺には、朽ちかけた木札がいくつも打ち込まれていた。
「立ち入り禁止……危険……色々書いてありますね」
「割と最近、警告が増設されたみたいだな」
アシュルが木札の一つに視線を落としながら言う。文字はかすれているものの、明らかに複数回、上書きされるように追加された跡があった。
「行方不明者が増えてから、慌てて対策された、ってところかな」
「だろうな。だが遅すぎる。……行くぞ」
アシュルはそう言うと、猫の姿からふわりと変身し、羽の生えたメイド姿へと変わった。装備に身を包んだルートとシィナに並び立ち、迷宮の入り口を見据える。
「私が先行する。お前たちは私の後ろを離れるな」
「うん」
「はい」
三人は迷宮の中へと足を踏み入れた。
入り口を抜けると、天然の洞窟をそのまま利用したかのような通路が続いていた。壁面にはうっすらと発光する苔が生え、足元をぼんやりと照らしている。空気は冷たく、時折、奥の方から低い唸り声のようなものが聞こえてきた。
「思ったより広いですね……」
「ダンジョンの中は、外から見た大きさと内部の広さが一致しないことも多い。油断するな」
アシュルの忠告に、ルートとシィナは頷きながら、慎重に足を進めた。
しばらく歩くと、開けた広間に出た。天井が高く、いくつもの通路が枝分かれしている。その中央に、朽ちた鎧や折れた武器が散乱しているのが目に入った。
「これ、って……」
「先行した冒険者たちの、成れの果てだろうな」
アシュルが淡々と告げる。ルートは息を呑んだ。装備だけが残され、持ち主の姿はどこにもない。まるで、装備だけを残して、人間だけが消え去ったかのような光景だった。
「シィナさん、大丈夫?」
「……はい。覚悟はしてきましたから」
シィナは震える声で答えながらも、しっかりと前を見据えていた。ルートは、彼女の強さに、あらためて胸を打たれる思いだった。
広間を抜けようとしたその時、奥の通路から、複数の気配が近づいてくるのを感じた。
「来るぞ」
アシュルの声と同時に、闇の中から黒い影の群れが姿を現した。人型に近いが、輪郭が不安定で、まるで影そのものが実体を持ったかのような不気味な存在だった。
「あれは……」
「『陰喰らい』か。厄介な相手だな。実体を持たない分、生半可な攻撃は通らない」
シィナが杖を構え、詠唱を始める。
「風よ、切り裂け――『ウィンドカッター』!」
放たれた風の刃が影の群れに直撃するが、まるで霧を切るように、何の手応えもなくすり抜けていく。
「効いてない……!」
「慌てるな。物理も魔法も、単純な攻撃は効かん相手だ」
アシュルはそう言うと、自身の周囲に白銀の光を纏わせた。
「聖なる力なら話は別だがな」
メイド服の裾を翻し、アシュルが一気に間合いを詰める。手にした光の刃が、影の一体を正確に切り裂いた。影は悲鳴のような音を立てながら霧散していく。
「ルート、お前も動け。この程度、いつまでも私任せにするな」
「わかった!」
ルートは腰の短剣を抜き、震える手で構えた。目の前に迫る影に、恐怖よりも先に、これまでの訓練の感覚が体を突き動かす。
「――ッ!」
振るった刃は、影の端をわずかに掠める程度だった。だが、確かに手応えがあった。アシュルの言う通り、普通の攻撃でも、多少の効果はあるらしい。
「そうだ。その調子だ」
背後から届くアシュルの声に、ルートは奇妙な高揚感を覚えた。誰かに認められること、共に戦うことの実感。それは、これまでの人生で感じたことのない種類の充足感だった。
三人がかりで、なんとか影の群れを退けたころには、全員が息を切らしていた。
「ふぅ……なんとか、なりましたね」
「シィナさん、怪我はない?」
「大丈夫です。ルートさんも、すごい成長速度ですね。数日でここまで動けるようになるなんて」
「アシュルのおかげだよ」
ルートがそう言うと、少し離れた場所で羽を畳んでいたアシュルが、ふいと視線を逸らした。
「私は、当然のことをしたまでだ」
そっけない返答だったが、その頬がわずかに赤らんでいるのを、ルートは見逃さなかった。
その後も三人は迷宮の奥へと進んだ。いくつもの罠をかいくぐり、影の群れと幾度か交戦しながら、少しずつ深部へと近づいていく。
やがて、一際大きな扉の前に辿り着いた。扉には、見たこともない紋様が刻まれている。
「この先が、恐らく最深部だな」
「姉が、ここに……」
シィナの声が震える。ルートは彼女の肩にそっと手を置いた。
「行こう。きっと、何か手がかりがあるはずだから」
シィナは小さく頷き、覚悟を決めたように扉に手をかけた。
重い音を立てて扉が開くと、そこに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
広大な空間の中心に、無数の光の繭のようなものが浮かんでいる。その一つ一つの中に、人の姿が――まるで眠っているかのように、静かに漂っていた。
「これ、って……」
「まさか……」
シィナが震える声で、繭の一つを指差した。その中に浮かぶ人物の顔には、確かに見覚えがあった。
「お姉ちゃん……!」
悲鳴のような声が、広間に響き渡った。
その瞬間、繭の群れの奥、影に沈んだ空間の中から、低く笑うような声が聞こえてきた。
「――ようやく、新しい獲物が来たか」
闇の中から、ゆっくりと何かが姿を現し始める。人の形をしているが、輪郭が絶えず揺らめき、まるで影そのものが意志を持って蠢いているかのようだった。両目の部分だけが、爛々と赤く光っている。
「アシュル、あれは……」
「厄介だな。ここの主のようなものか」
アシュルが警戒しながら、ルートたちの前に立ちはだかる。影の主は、ゆらりと嗤いながら、繭の一つに触れた。
「この者たちは、良い『糧』になってくれている。お前たちも、仲間に加わるといい」
影の主が手をかざすと、床から新たな影の群れが次々と湧き出してきた。数は先ほどの比ではない。
「シィナ、下がって!」
ルートが叫ぶが、影の群れはあっという間に三人を取り囲んでいく。アシュルが光の刃を振るい応戦するものの、数の暴力の前に、確実にその動きが鈍り始めていた。
「くっ……このままじゃ……」
ルートが焦りを覚えたその時、頭上から何かが降ってきた。
黒い外套を纏った人影が、影の群れの中心に着地すると同時に、周囲に漆黒の炎を巻き起こした。炎に触れた影たちが、悲鳴を上げながら次々と消滅していく。
「……派手にやられてるな、お前ら」
声変わりしたばかりのような、若い男の声だった。振り返ったその顔には、ルートと同じくらいの年齢を思わせる、鋭くも整った顔立ちがあった。額から伸びる二本の小さな角と、燃えるように赤い瞳――紛れもなく、魔族の少年だった。
「な、誰……!?」
「説明は後だ。今はあいつを片付けるのが先だろう」
少年はそう言うと、両手に漆黒の炎を纏わせ、影の主へと躊躇なく踏み込んでいった。
「小僧、魔族風情が邪魔をするか」
「邪魔じゃない、掃除だ。ここに囚われてる連中を勝手に『糧』とか呼んでんじゃねえ」
少年の炎が影の主に直撃し、輪郭が大きく揺らぐ。アシュルも即座に加勢し、光と闇、二つの力が絡み合いながら影の主を追い詰めていく。
「アシュル、僕も!」
「来い、ルート! お前の力を、少しは見せてみろ!」
ルートは短剣を握りしめ、少年とアシュルの合間を縫うように影の主へと斬りかかった。三者の連携――と呼ぶにはまだ拙いものだったが、確かに噛み合った攻撃が、影の主の輪郭を大きく崩していく。
「馬鹿、な……こんな、若造どもに……」
断末魔のような声を残し、影の主は闇の中に溶けるように消滅した。同時に、広間に浮かんでいた光の繭が、一つ、また一つと淡く輝きながら消えていく。
「お姉ちゃん……!」
シィナが駆け寄ると、姉が眠っていた場所に、ゆっくりと人の姿が横たわっているのが見えた。息はある。ただ眠っているだけのようだった。
「良かった……本当に、良かった……」
シィナが涙を流しながら姉を抱きしめる姿を見つめながら、ルートは詰めていた息を吐いた。そして、隣に立つ少年へと視線を向ける。
「あの、助けてくれて、ありがとう。えっと……」
「ゼクス。それが俺の名だ」
少年――ゼクスは、外套の埃を払いながら、ルートをじっと見つめた。
「お前が、例の規格外の召喚士か。噂は聞いてたが、思ったより頼りない面してるな」
「う……面目ない」
「まあいい。俺もこの迷宮を調べてたところだ。同族の知り合いが、ここで消えたって噂があってな」
ゼクスの表情に、一瞬だけ影が差した。ルートには、その表情に覚えがあった。誰かを失うかもしれない不安と、それでも前を向こうとする強さ。かつて、自分にはなかったものだ。
肩の上のアシュルが、値踏みするようにゼクスを見つめていた。
「お前、なかなかの腕だな。魔族にしては、というのは失礼か」
「そっちこそ、規格外個体だって話は本当らしいな。あんな数の陰喰らいを、涼しい顔で捌いてた」
二人のやり取りに、ルートは思わず苦笑した。気を抜けば喧嘩になりそうな空気だったが、どこか、悪くない緊張感だった。
「ゼクス、これからも、この街にいるの?」
「さあな。だが……」
ゼクスは、消えていく光の繭を見つめながら、静かに続けた。
「お前らと同じで、俺にも探さなきゃいけないものがある。しばらくは、この辺りをうろつくことになりそうだ」
「なら、また会えるかもね」
「ふん。せいぜい、俺の足を引っ張るなよ、規格外」
そう言い捨てながらも、ゼクスの口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。ルートも、自然と笑みを返す。
まだ言葉にできないけれど、確かに何かが始まった予感があった。誰かに認められ、誰かと肩を並べて戦うこと。それは、かつて自分には縁のなかった、けれど今、確かに手にしつつあるものだった。
広間に静けさが戻る中、目を覚ましたシィナの姉が、ゆっくりと瞼を開いた。
「……ここ、は……?」
「お姉ちゃん! 気がついたのね!」
シィナの声に、姉は困惑した表情を浮かべながらも、妹の姿を認めて涙ぐんだ。ルートたちは、ひとまずの安堵に包まれながら、迷宮からの帰路につく準備を始めた。
だが、この事件はまだ、始まりに過ぎなかった。行方不明者を生み出していたのが、この迷宮の「影の主」だけだとは限らない。
そして、身体ごとこの世界に転移しているという真実には、まだ誰も辿り着いていなかった。
ゼクス!!!とうとう出てきましたよ!!!我が推しゼクス!!!




