第76話「兄弟の果て」
レオンの纏う瘴気が、大広間の空気を重く歪ませていた。
先ほどまでの物腰柔らかな第二王子の姿はどこにもない。整った顔立ちは青黒い血管のようなものが浮き上がり、瞳は闇の組織の紋章と同じ紫色に濁っている。背後には禍々しい影が翼のように広がり、床にはひび割れた黒い魔法陣が音もなく脈打っていた。
「――どうして、そんな顔をするんだ」
レオンは笑っていた。だがその声には、これまでの穏やかさの欠片もない。
「僕はただ、公平に扱われたかっただけだ。父上は、リュゼリア、お前ばかりを見ていた。母の身分が低いというだけで、僕とザイードは端に追いやられた。お前が笑えば城中が祝福し、僕が何を成しても『次男らしい謙虚さだ』としか言われない。……そんな人生を、お前に分かるものか」
「レオン」
リュゼリアの声は静かだった。怒りよりも、深い悲しみが滲んでいる。
「わたくしは、あなたに嫉妬されるようなことをした覚えはありません。でも……あなたがそう感じてきたのなら、それはわたくしが、あなたの心に気づいてあげられなかったということ。それは、謝ります」
「――謝るな!!」
レオンの咆哮と共に、黒い瘴気の刃が幾筋も放たれた。空気を裂く音と共に、それは石柱を粉々に打ち砕く。
「同情なんて要らない! 僕が欲しかったのは、お前と同じだけの――いや、お前以上の光だ! それを、闇の組織が与えてくれると言った。力さえあれば、誰も僕を無視できなくなると!」
「――それで、父上を手にかけようとしたのか」
冷たく低い声で問うたのは、カインだった。執事然とした佇まいのまま、その瞳だけが刃のように鋭くレオンを射抜いている。
「父親を、実の娘への嫉妬のために毒に沈めようとした。それを『力が欲しかったから』の一言で片付けるつもりか。反吐が出るな」
「黙れ、しもべ風情が」
「しもべ、で結構。だが私の主はルート様お一人だ。その私の目から見ても――アナタは、話にならないほど醜い」
カインの声には、珍しく明確な怒気があった。ルートは自分の召喚獣がここまで感情を露わにするのを、あまり見たことがなかった。
「レオン、もう終わりにしよう」
ルートは剣を構えながら、一歩前に出た。心臓が早鐘を打っている。だが、足は震えていない。
「あんたの気持ちが分からないとは言わない。愛されなかったって思う気持ちは……俺にも、分かる部分がある。でも、それでも人を傷つけていい理由にはならない」
「……お前に、何が分かる」
「分からないさ、全部は。でも――俺は、愛されなかった過去のせいで、大事な人を傷つけないって決めたんだ。あんたにも、まだそっちを選べる道はあったはずだろ」
レオンの表情が、一瞬だけ揺れた。だがすぐに、それを塗りつぶすように哄笑した。
「今さら綺麗事を言うな! 僕はもう後戻りできない。闇の組織との契約は、僕の魂そのものに刻まれている。……ならばせめて、道連れにしてやる!」
レオンの体から、瘴気が奔流のように噴き上がった。魔法陣が真紅に輝き、大広間の天井にまで届くほどの黒い柱が立ち上る。
「アシュル!」
「ああ、承知している」
アシュルが前に出た。普段の柔らかな雰囲気は消え、絆を司る柱としての威厳が、その小さな体から立ち上る。
「レオン殿。その瘴気は、闇の組織があなたに植え付けた『偽りの絆』の残滓です。本物の絆ではない。本物の絆は、人を壊すためではなく、支えるために在るもの」
「講釈は要らない!!」
レオンが瘴気の刃を放つ。同時にザイードの手下と思われる黒装束の暗殺者たちが、物陰から一斉に飛び出してきた。数は五人。いずれも訓練された動き。
「シィナ!」
「任せて!」
ゼクスの声に応じ、シィナが素早く前に出た。魔導士としての彼女の詠唱は、この世界に来て磨き上げられた実力そのものだ。
「――氷結の陣!」
展開された魔法陣から鋭い氷柱が放たれ、暗殺者の足元を凍りつかせる。動きを封じられたところへ、ゼクスの魔族の力を宿した拳が叩き込まれた。
「リサさんの――いや、リュゼリアさんの家族のことに手を出すやつは、俺が許さない」
ゼクスの瞳には、これまで見せたことのないほどの怒りが宿っていた。彼にとってリュゼリアは、幼い頃、人間の街で誰にも顧みられなかった自分を救ってくれた、姉のような存在だ。その恩人を陥れようとした者たちを、許せるはずがない。
「くっ……!」
暗殺者の一人がゼクスに斬りかかろうとした瞬間、リュゼリアが作った特製の武具――炎の魔力を纏う短剣――がその刃を弾き飛ばした。
「暁」
ルートが呟いた。リュゼリアが打ってくれた、あの短剣だ。今は予備武器として腰に差しているが、いざという時にはこうして自分と仲間を守ってくれる。
「これで、五対五――いや」
リュゼリアが鍛冶師としての目で戦況を見渡し、静かに言った。
「暗殺者たちは、わたくしたちが抑えます。ルート様、アシュル様、カイン様――レオンは、お願いします」
「リュゼリア……」
「大丈夫です。わたくしも、剣は使えますから」
リュゼリアの手には、いつの間にか自らが打った細身の剣が握られていた。彼女もまた、ただ守られるだけの姫ではない。
「――ルート、いくぞ」
カインが低く囁いた。ルートは頷き、剣を構え直す。
「ああ。アシュル、カイン――力を貸してくれ」
「もちろんです、ルート様」
「言われるまでもない」
三人の呼吸が、ひとつに重なった。
「はああああっ!」
ルートが地を蹴った。剣先に纏うのは、氷雪の遺跡、妖精の森、海底遺跡、浮遊島――四つの核を解放したことで取り戻した、召喚術本来の力。まだ全ての核を解き放ったわけではない。それでも、かつて最強と謳われた召喚士の技の片鱗が、今、彼の中で目覚めている。
レオンの瘴気の刃と、ルートの剣がぶつかり合う。衝撃で床石が割れ、破片が宙を舞った。
「くっ……この力……お前、まさか」
「核はもう四つ、解放した。……あんたが望んでいた『誰にも無視されない力』ってのは、こういうものじゃない。奪って得る力じゃなくて、積み上げていく力だ」
「知った風な口を!」
レオンの背後の影が、無数の刃となって襲いかかる。それを、アシュルが翼を広げて防いだ。メイド姿の彼女の周囲に、絆の力による淡い光の障壁が展開される。
「ルート様、今です」
「――行くぞ、俺は」
気づけば、ルートの一人称が変わっていた。がむしゃらに前へ踏み込むその瞬間だけ、彼の中の何かが、弱かった頃の『僕』を置き去りにする。
「うおおおおおっ!」
剣が閃く。アシュルの絆の力と、カインの闇を裂く力が同時に剣身に纏わりつき、ルートの一撃はレオンの纏う瘴気の鎧を、まるで薄氷のように打ち砕いた。
「――ぐああああっ!」
レオンの体が吹き飛び、大広間の壁に叩きつけられる。瘴気が渦を巻きながら霧散していき、その下から、憔悴しきった一人の青年の顔が現れた。
荒い息をつきながら、レオンは膝をつく。もう、立ち上がる力は残っていないようだった。
「……終わり、か」
「レオン」
リュゼリアが暗殺者たちを打ち倒し終え、駆け寄ってくる。その表情は、憎しみではなく、深い哀しみに満ちていた。
「なぜ、僕を庇うような目で見る……お前を殺そうとしたんだぞ、僕は」
「あなたは、わたくしの兄です。血の繋がりのない、義理の兄だとしても……子供の頃、一度だけ、庭でわたくしに花の名前を教えてくれたこと、覚えていますか」
レオンの瞳が、大きく揺れた。
「……あんな昔のこと、覚えているのか」
「覚えています。あの時のあなたは、優しい兄でした。……今からでも、遅くないはずです。裁きは受けなければなりません。でも、その先で、もう一度やり直すことはできる」
「……っ」
レオンは何かを言いかけて、しかし言葉にならず、ただ拳を握りしめて俯いた。その肩が、小さく震えている。
その時、大広間の入り口から兵士たちが駆け込んできた。先頭にいたのはガイウスだ。
「リュゼリア様! 国王陛下がお目覚めになりました! 治療が――効いております!」
「――父上が!」
リュゼリアの表情に、光が差した。アシュルとリュゼリアによる長期の浄化治療が、ついに実を結んだのだ。国王の意識が戻ったということは、この一連の事件についても、正式な裁きが下せるということを意味する。
「レオン殿下は、わたくしが確保いたします」
ガイウスが冷静に告げ、部下たちがレオンを拘束していく。抵抗する様子はなかった。
「……リュゼリア」
連れて行かれる直前、レオンが小さく呼びかけた。
「なんでしょう」
「……ザイードには、気をつけろ。あいつは僕よりも、ずっと……闇の組織に深く入り込んでいる。僕はまだ、迷いがあった。だがあいつには、迷いがない」
その言葉を最後に、レオンは兵士たちに連れられて大広間を後にした。静寂が戻った空間に、皆の荒い息だけが響く。
「――終わった、のか」
ルートは剣を下ろしながら、ぽつりと呟いた。
「一つの戦いは、な」
カインが応じる。その視線は、レオンが連れ去られた扉の先――その向こうにいるであろう、もう一人の異母兄弟に向けられているようだった。
「ザイード、か……」
ルートも同じ方向を見つめた。レオンの最後の言葉が、重く胸に残っている。
「まあ、今この瞬間は、勝利を喜びましょう。ルート様、お怪我は」
「大丈夫、アシュルこそ」
「私は主のために傷つくことなど、傷のうちに入らん」
アシュルが微笑む。その隣で、カインが小さく舌打ちした。
「その台詞、私の方が先に言いたかったのですが…」
「貴様は黙っていろ」
いつもの調子が戻ってきたやり取りに、緊張していた空気が少しだけ緩む。
「ゼクス、シィナ、無事か?」
「ばっちりだよ! ちょっと魔力使いすぎたけど」
シィナが息を切らしながらも笑顔で答える。ゼクスは無言のまま、暗殺者たちが縛られている様子を確認し、それから小さく息を吐いた。
「終わったな。……リュゼリアさんの家族のことなのに、俺の方が熱くなっちまった」
「ありがとう、ゼクス。あなたがいてくれて、本当に心強かった」
リュゼリアがゼクスの肩に手を置く。姉弟のような二人の絆は、今回の戦いを経て、さらに深まったように見えた。
「――皆様、国王陛下がお呼びです。目覚められて早々、皆様に会いたいとのことで」
ガイウスの案内で、一行は国王の寝室へと向かった。
寝台に横たわりながらも、しっかりとした眼差しでこちらを見つめる国王の姿があった。血色は完全には戻っていないが、確かに命の炎は取り戻されている。
「……リュゼリア」
「父上……!」
リュゼリアが駆け寄り、その手を握った。国王は娘の顔を見つめ、目に涙を浮かべる。
「すまなかった。私が病に伏している間、お前一人にすべての重荷を背負わせてしまった。……そして、レオンのことも」
「父上のせいではありません。すべては、闇の組織に付け込まれた結果です」
「それでも、な。私が、もっと早くお前たちの心の内に気づいていれば……」
国王は言葉を詰まらせ、それから、ルートたちの方へと視線を移した。
「そなたたちが、娘とこの国を救ってくれた。……名を聞かせてもらえるかな」
「結城陽翔――こちらの世界ではルートと呼ばれています。リュゼリアさんとは、共に旅をする仲間です」
「ルート殿、か。……娘から、そなたのことは聞いている。命の恩人であり――娘の、大切な人だと」
国王の言葉に、ルートとリュゼリアは同時に顔を赤らめた。
「父上っ……!」
「隠さずともよい。私はもう、あの子を政略の道具にするつもりはない。……ただ、これだけは伝えておかねばならないな」
国王は表情を引き締めた。
「ザイードのことだ。レオンの一件で、闇の組織が本気でこの国――いや、この大陸そのものに介入しようとしていることが分かった。ザイードは元より力を重んじる質。組織にとっては、レオンより御しやすい駒かもしれん」
「陛下も、それを警戒されていたのですね」
カインが静かに問う。
「ああ。……そして、もう一つ。この国には、代々伝わる古い記録がある。召喚術の『核』と、かつて封じられた柱のことが記された、王家の秘宝だ。まだ解き放たれていない核の在り処についても、手がかりがあるという。そなたたちの話を聞く限り、今のそなたたちにこそ、それを託すべきだろう」
「――それは」
アシュルが息を呑んだ。
「柱であるあなた自身が、一番よくご存知でしょう。ヴェルダ殿が、なぜ召喚術を封じたのか。……この国の記録には、その真の理由の一端が記されているという伝承がある」
大広間での激闘の余韻がまだ体に残る中で、新たな手がかりが差し出された。ルートは、仲間たちと顔を見合わせる。
「見せていただけますか、その記録」
「もちろんだ。……だが今は、まず休むといい。そなたたちは、十分すぎるほどに戦った」
国王は穏やかにそう告げ、目を閉じた。長い治療と今日の激闘で、まだ本調子には程遠いのだろう。
一行は寝室を後にし、窓の外に広がるヴァルドレイクの夜空を見上げた。戦いは一つの決着を見た。だが、ザイードという新たな影、そして王家に眠るまだ見ぬ核の手がかり――物語は、まだ終わらない。
「……卵は、元気にしてるかな」
ふと、ルートが呟いた。オーウェンに預けてきた、あの卵のことを思い出したのだ。孵化はまだ先――名前をつける日も、きっともう少し先になる。
「オーウェン殿のことです。きっと、目に入れても痛くないほど大事にしてくれていますよ」
アシュルが微笑む。カインもまた、珍しく柔らかな表情を浮かべていた。
「早く帰りたいものだな、あの子のところに」
「そうだね」
ルートは頷き、それから隣に立つリュゼリアを見た。彼女もまた、複雑な表情をしながらも、確かな光をその瞳に宿している。
「リュゼリア。国のこと、これから大変だと思うけど……俺たちも、一緒にいるから」
「……ありがとうございます、ルート様」
二人は、そっと手を重ねた。戦いの後の静かな夜、ヴァルドレイクの星空の下で、新たな絆と――そして、まだ見ぬ核と謎が、静かに次の物語を待っていた。
やっと、引っ越しが一段落しました!!!長くお休みしてしまいすみません。これからもよろしくお願いします




