第69話「遠き国からの使者」
卵が生まれてから数日、屋敷には新しい家族を迎えた穏やかな喜びが静かに満ちていた。
朝、リビングでは皆が揺りかごの中の卵を代わる代わる覗き込んでいた。
「今日も変わりなさそうですね」
シィナの言葉に、アシュルは静かに頷いた。
「ああ。だが、この優しい光を見ているだけで、なんだか安心する」
「私も同じ気持ちです」
カインの言葉に、その場に温かい空気が流れていた。ルートもそっと卵に手をかざしながら小さく微笑んだ。
「早く会いたいな」
その素直な言葉に、一同は静かに頷いた。
その日の午後、リュゼリアが工房でいつも通り作業をしていると、玄関の方からシィナの少し戸惑ったような声が聞こえてきた。
「あの……どちら様、でしょうか」
その声に、リュゼリアが工房から顔を出すと、玄関先には見慣れない黒い甲冑を身に纏った魔族の男が立っていた。年齢は四十代半ばほどだろうか。厳格な、しかしどこか懐かしさを感じさせる顔立ちをしている。
「――失礼いたします。私は魔族の国、ヴァルドレイクより参りました、近衛兵ガイウスと申します」
その名乗りに、リュゼリアは大きく目を見開いた。
「ガイウス……その名前、まさか」
「お久しぶりです、リュゼリア殿下」
その呼びかけに、玄関先の空気が一瞬、凍りついた。ちょうど、その場に居合わせたルートとゼクスも、思わず顔を見合わせた。
「殿下、って……」
ゼクスの呟きに、ガイウスは静かに頷いた。
「はい。リュゼリア様はヴァルドレイク王家の正統な王女殿下でいらっしゃいます」
その公然たる告白に、リュゼリアの表情が複雑に揺れ動いた。
「ガイウス……なぜ今更、ここに」
その問いに、ガイウスは深く頭を下げた。
「突然の訪問、大変失礼いたしました。殿下を探し出すのに、随分と時間がかかってしまいまして」
「私は王家を出た身よ。もう殿下などと呼ばれる立場ではないわ」
リュゼリアの毅然とした言葉に、ガイウスは、しかし静かに首を振った。
「殿下。誠に申し上げにくいのですが、王家に大きな動きがございます」
その深刻な口調に、リュゼリアの表情が緊張に引き締まった。
「動き、とは」
「現国王陛下、殿下のお父上がご病床に伏せておられます。そして後継者を巡る争いが水面下で激化しつつあるのです」
その報告に、リュゼリアは思わず息を呑んだ。
「父上が……」
「殿下には二人の異母兄弟がいらっしゃいます。お二方とも王位を狙って、それぞれの派閥を率いておられます。このままでは国が二つに割れかねません」
その深刻な状況に、リュゼリアはしばらくの間、言葉を失っていた。
「なぜ、そんな大切なことを、今まで私に……」
「殿下が王家を去られた際、決して追わないようにと殿下ご自身が強く望まれたと伺っております。ですが――」
ガイウスは真剣な眼差しで続けた。
「今の、この危機的な状況を鑑みるに、殿下のお力が必要だと、私たち旧臣の一部は考えております」
その切実な訴えに、リュゼリアは深く動揺していた。
その様子を見ていたルートが、そっとリュゼリアの隣に寄り添った。
「リュゼリアさん、大丈夫ですか」
その優しい気遣いに、リュゼリアは少し震える声で答えた。
「――ごめんなさい、少し混乱しているの。急に、こんな話をされて」
「無理もないよ。でも――」
ルートは真剣な表情で続けた。
「今すぐ答えを出す必要はないと思う。まずは落ち着いて話を聞こう」
その言葉に、リュゼリアは静かに頷いた。
「――そうね。ありがとう、ルート君」
リビングに場所を移した一同は、改めてガイウスから詳しい事情を聞くことにした。
「二人の異母兄弟について、詳しく教えてもらえますか」
ルートの問いに、ガイウスは頷いた。
「はい。第一王子、ザイード様は武力による統治を掲げる強硬派です。国境の拡大や他種族への強硬な姿勢を支持する貴族たちに支持されています」
「もう一人は?」
「第二王子、レオン様は逆に、他種族との融和を掲げる穏健派です。ですが、その理想主義的な姿勢ゆえに実務的な支持基盤は弱く、このままではザイード様が王位を継がれる可能性が高いと見られています」
その説明に、一同は深刻な表情を浮かべた。
「もし、そのザイードって人が王様になったら……」
シィナの問いに、ガイウスは重々しく頷いた。
「恐らく他種族との対立が再び激化するでしょう。かつて、この大陸を揺るがした、あの戦乱の時代のように」
その言葉に、アシュルの表情が鋭くなった。
「――かつての悲劇を繰り返すことになりかねない、ということか」
その指摘に、ガイウスは静かに頷いた。
「はい。だからこそ旧臣の一部は、リュゼリア殿下のお力を必要としているのです。殿下は幼い頃から、種族を超えた融和の精神を体現されてきたお方ですから」
その期待の込もった言葉に、リュゼリアは複雑な表情を浮かべた。
「でも、私はもう長い間、王家を離れていたわ。今更戻ったところで、何ができるか……」
「殿下。どうか今すぐの決断を求めているわけではございません。ただ――」
ガイウスは深く頭を下げた。
「この事実を知っておいていただきたかったのです。そして、いつか殿下ご自身が必要だと感じられた時に、力を貸していただければと」
その真摯な願いに、リュゼリアは静かに頷いた。
「――分かったわ。少し時間を頂戴。ちゃんと考えたいの」
「もちろんです。殿下のご判断をお待ちしております」
ガイウスはそう言うと、深々と一礼し、この日は一旦、辞去することとなった。
彼が去った後、リビングには重い沈黙が流れていた。
「リュゼリアさん……」
シィナの心配そうな呼びかけに、リュゼリアは静かに微笑んだ。
「大丈夫よ、シィナちゃん。ただ少し、色々と考えることが増えただけ」
その気丈な様子に、ゼクスが真剣な表情で口を開いた。
「リサ、無理はするなよ。俺たちは、いつでもお前の味方だからな」
「ありがとう、ゼクス」
その温かい言葉に、リュゼリアは少し涙ぐみながら頷いた。
その夜、自室に戻ったリュゼリアは、一人静かにこれまでの自分の人生を振り返っていた。
(王女として生まれた私。争いを避けるために身分を捨てた私。……そして今、この世界で、大切な人たちと出会えた私)
その複雑な想いを抱えながら、リュゼリアは静かに窓の外に浮かぶ、二つの月を見上げていた。
――その様子を、そっと見守っていたのはルートだった。
「リュゼリアさん」
その静かな呼びかけに、リュゼリアは少し驚いたように振り返った。
「ルート君……」
「一人で抱え込まないで。僕たちは、いつでも傍にいるから」
その優しい言葉に、リュゼリアは静かに微笑んだ。
「ありがとう。……本当に心強いわ」
窓の外、二つの月の光が二人の姿を静かに照らしていた。
しばらくの沈黙のあと、リュゼリアはふと小さく笑った。
「ねえルート君。おかしな話だけれど、こうしてあなたに話を聞いてもらえるだけで心がずいぶん軽くなった気がするの」
「そう、なら良かった」
「王女だった頃の私は、誰かに弱音を見せることを許されなかったから。……こうして素直な気持ちを話せる相手がいるって、本当に幸せなことなのね」
その静かな告白に、ルートは優しく頷いた。
「これからも、いつでも話してね。僕、いつでも聞くから」
「ふふ、ありがとう」
リュゼリアは少し気持ちが軽くなったように穏やかな表情を浮かべた。
「ガイウスの話、もう少し時間をかけて、ちゃんと考えてみるわ。……焦らずに」
「うん、それでいいと思う。急ぐ必要はないから」
その優しい言葉に、リュゼリアは深く頷いた。
少し離れた場所から、その様子を見ていたアシュルとカインも静かに言葉を交わしていた。
「リュゼリア、大変なことになったな」
アシュルの呟きに、カインは静かに頷いた。
「ええ。ですが、ルート様がそばにいる限り、彼女はきっと一人では悩まないでしょう」
「――そうだな。あの二人なら、きっと大丈夫だろう」
二体は静かに、これから始まるであろう新しい物語の予感を胸に抱いていた。
これから訪れるであろう大きな選択の時。その予感を胸に、リュゼリアは静かに自分自身の心と向き合っていくのだった。




