第5話「宿の噂話」
街外れの宿は、「月見亭」という古びた看板を掲げていた。木造の建物は年季が入っているものの、灯りの温かさが、どこか安心感を誘う。
カウンターにいた宿の主人―恰幅のいい初老の男は、ルートの姿を一目見て、少し驚いたように眉を上げた。
「一人部屋でいいか???そこの肩の子は召喚獣かい???召還士だなんて珍しいもんだ…」
「あ、はい。契約獣です」
「猫の姿の召喚獣とはね、こりゃまた珍しい…まあいい、一部屋、銀貨三枚だ」
所持金はギリギリ足りた。初めてこの世界に来た時に配られた初期資金から宿代を払うと、財布はほとんど空になった。
「明日からは、稼ぐ算段も考えないとな……」
ルートが小さく呟くと、主人が愉快そうに笑った。
「殊勝な心がけだ。冒険者ギルドで簡単な依頼をこなせば、駆け出しでもそこそこ稼げるさ。もっとも―」
主人はカウンターの向こうから、値踏みするようにアシュルを見やった。
「その召喚獣を連れてるなら、話は別かもな」
「え?」
「なんでもない。ま、部屋でゆっくりしな」
言葉を濁した主人に、ルートは少し引っかかりを覚えたが、それ以上は追及せず、鍵を受け取って階段を上がった。
二階の廊下は薄暗く、床板が軋む音が響く。突き当たりの部屋の扉を開けると、簡素だが清潔なベッドと、小さな机、窓辺には壺に生けられた花が一輪。それだけの部屋だったが、今のルートには十分すぎるほどだった。
荷物と呼べるほどのものもないまま、ルートは椅子に腰を下ろす。肩に乗っていたアシュルが、机の上にひらりと飛び移った。
「アシュル。さっきの主人の言葉、気になる?」
「多少はな。あの手の反応をする人間は、大体二種類だ。召喚獣を利用しようとする者か、恐れて距離を取ろうとする者か」
「どっちだったんだろう」
「さあな。今の段階で気にしすぎても仕方あるまい」
そう言いながらも、アシュルの尻尾がわずかに揺れていた。ルートには、それが警戒のサインなのだと、何となくわかるようになってきていた。
その時、階下から食堂の喧騒が漏れ聞こえてきた。
夕食時なのだろう、複数の声が入り混じっている。ルートは少し迷ってから、部屋を出て階下に向かった。
お腹もすいたし…何より、この世界の情報を少しでも集めておきたかった。
食堂の隅の席に座り、運ばれてきた簡単なシチューを口に運びながら、周囲の会話に耳を澄ませる。
「―だからさ、最近ログアウトできない奴が増えてるって話、聞いたか?」
隣のテーブルから聞こえてきた声に、ルートは思わず箸を止めた。声の主は、防具に身を包んだ二人組の男性プレイヤーだった。
「ああ、聞いた聞いた。運営は『通信エラー』とか言ってるけど、絶対それだけじゃないよな」
「知り合いの知り合いが、もう三日もログアウトできてないらしいぜ。家族が心配して、リアルで捜索願を出したって噂もある」
「三日って……こっちの時間感覚だと、もっと長く感じるんじゃないか?」
「怖いこと言うなよ……」
二人の会話に、ルートの心臓が嫌な音を立てた。宿の主人が言っていた噂は、想像していたよりも深刻な話らしい。自分と同じように、あるいは自分よりも過酷な状況に置かれている人が、他にもいる。
肩の上のアシュルも、耳をぴくりと動かして聞き耳を立てているようだった。
「……アシュル。やっぱり、これって」
「静かに聞け。今、騒ぎ立てても仕方あるまい」
小声でそう窘められ、ルートは口をつぐんだ。二人組のプレイヤーは、しばらく噂話を続けたあと、話題を他愛のない世間話に移していった。
食事を終え、部屋に戻ったルートは、ベッドに腰掛けながら深く息を吐いた。
「アシュル……今の話」
「聞いていた。お前と同じような目に遭った人間が、他にもいるということだろうな」
「僕たちだけじゃない、ってこと……?」
「おそらくな。この世界の異常は、私達の契約だけが原因ではない可能性がある」
ベッドの隣に、アシュルがふわりと降り立つ。猫の姿のまま、丸くなって膝の上に収まった。
「なら、余計にはっきりさせないと。僕たちだけの問題じゃないなら……」
「気持ちはわかるが、今のお前では何もできん。まずは力をつけることだ。感情だけで飛び出せば、待っているのは無駄死にだけだぞ」
容赦のない言葉だったが、その通りだとルートも思った。今の自分では、さっき街で見た魔物一体、まともに相手にすることもできない。全てアシュルの力に頼りきりだった。
「アシュル、僕を鍛えてくれる?」
ルートの問いに、アシュルは少し驚いたように目を見開いた。それから、どこか満足そうに目を細める。
「望むところだ。腐っても私が育てると決めた器だ。せいぜい、私の手間を減らせるくらいには成長してもらうぞ」
「うん。よろしくお願いします」
素直に頭を下げるルートに、アシュルはふん、と鼻を鳴らしながらも、その尻尾はどこか楽しげに揺れていた。
「今日はもう休め。考えるべきことは山ほどあるが、疲弊した頭で考えても、ろくな答えは出ない」
「うん……そうする」
ルートは横になりながら、天井を見つめた。現実に戻れないという事実、規格外の力、監視してくる運営、忠告してきた謎の人物、そして行方不明になるプレイヤーの噂。次々と積み重なる情報に、頭が痛い。
それでも――と、ルートは思う。膝の上で丸くなっている小さな温もりに、そっと手を伸ばす。
「アシュル」
「なんだ」
「一人じゃなくて、良かった」
その言葉に、アシュルは一瞬だけ体をこわばらせた。それから、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、ぽつりと返す。
「……勝手に言っていろ」
拒絶にしては、あまりにも柔らかい響きだった。ルートは小さく笑うと、瞼を閉じた。
その夜、ルートは夢を見た。
真っ暗な空間に、無数の光の粒が漂っている。その中心に、何かとても大きな「気配」があった。姿は見えない。ただ、途方もなく古く、途方もなく強い何かが、静かにこちらを見ている――そんな感覚。
声にならない声が、耳の奥に響いた気がした。
――ようやく、目覚めたか。
――長い、長い眠りだった。お前という器を通して、また少しずつ、思い出していく。
問いかけたくても、声が出なかった。夢の中の自分には、体という実感すらない。ただ、その気配の大きさと、底知れない何かに、畏怖にも似た感情だけが募っていく。
――案ずるな。私はまだ、全てを取り戻したわけではない。今のお前に、多くを求めるつもりはない。
――ただ、覚えておけ。お前が選んだ契約は、この世界の均衡そのものを揺らす選択だったということを。
光の粒が渦を巻き、視界が白く染まっていく。
目を覚ましたとき、窓の外はすでに白み始めていた。隣で丸くなっていたアシュルが、ルートの気配に気づいて薄目を開ける。
「……どうした。うなされていたようだが」
「ううん……ちょっと、変な夢を見ただけ」
言いながらも、ルートの胸の奥には、あの気配の余韻がまだ残っていた。
「お前が選んだ契約は、この世界の均衡そのものを揺らす選択だった」
――その言葉の意味を、今の彼にはまだ知る由もない。
「変な夢…ね。……どんな夢だったか、話してみろ」
アシュルの声には、いつもの尊大さの中に、わずかな真剣さが滲んでいた。ルートは戸惑いながらも、覚えている限りの夢の内容を語る。
話を聞き終えたアシュルは、しばらく黙り込んだあと、小さく息を吐いた。
「……予想はしていたが、思ったより早いな」
「アシュル、何か知ってるの?」
「今はまだ、憶測でしかない。確証を持って話せることがあれば、その時話す。今は、詮索するな」
珍しくはぐらかすような物言いに、ルートは何か重大なことを隠されているような気がしたが、それ以上追及することはできなかった。アシュルの横顔に、これまで見たことのない、どこか懐かしむような影が差していたからだ。
窓の外には二つの月が沈み、新しい朝の光がこの世界を照らし始めていた。
5話目終わりました〜♪アシュルさんは最初はドラゴンにしようと思ってたんです。




