「泉に眠りし悲しみ」
黒い影が、泉の中央から、ゆっくりと、しかし確実に、その巨躯を持ち上げていく。人型に近いその輪郭は、まるで、粘土をぐちゃぐちゃに捏ねたかのように、絶えず、形を変え続けていた。纏う黒い靄が、周囲の空気を、さらに重く、澱ませていく。
「――来る!」
アシュルの鋭い声と共に、影が、咆哮とも呻き声ともつかない、耳障りな声を上げ、一同へと襲いかかってきた。
「シィナ、後方から援護を! ゼクス、右から攻めて!」
ルートの指示に、二人は、即座に応じた。
「了解です!」
「任せろ!」
シィナが、詠唱を紡ぎながら、援護の風の膜を、一同の周囲に展開する。ゼクスは、漆黒の炎を纏わせながら、影の右側面へと、鋭く踏み込んでいった。
「食らえ!」
放たれた炎が、影の体表を焼くが、その傷口から、瞬く間に、新たな黒い靄が噴き出し、傷を覆い隠すように、再生していく。
「くっ、こいつも、再生するタイプかよ……!」
ゼクスが、忌々しげに舌打ちした。
「アシュル、あの氷の守護者と、同じ理屈が通用するかな」
ルートの問いに、アシュルは、油断なく影を見据えながら答えた。
「恐らくは、違う。あの守護者は、外部からの魔力供給によって再生していたが、この影は、恐らく、それ自身の内側に渦巻く、負の感情そのものを、エネルギー源にしている」
「つまり……?」
「単純に、傷を負わせるだけでは、決定打にならないということだ。あの負の感情そのものに、向き合う必要があるのかもしれない」
その分析に、ルートは、拳を握りしめた。
「カイン、何か、手はある?」
ルートの問いに、カインは、静かに、影の様子を観察しながら答えた。
「――恐らく、力任せの攻撃を続けても、埒が明かないでしょう。あの影の中に眠る『記憶』を、読み解く必要があるかもしれません」
「記憶……?」
その時、少し離れた場所で、状況を見守っていた妖精王が、意を決したように、一歩、前に出た。
「――私に、心当たりがあります」
「妖精王様!」
リュゼリアが、驚いたように、その姿を振り返った。
「危険です、下がっていてください!」
「いいえ、リュゼリア。今は、私の記憶が、この事態を収める鍵になるかもしれません」
妖精王は、静かに、しかし確かな決意を込めて、影を見据えた。
「遥か昔――この森が、まだ、今よりもずっと、荒々しかった時代の話です」
妖精王が語り始めると、その声に呼応するように、周囲の空気が、わずかに、揺らめき始めた。
「当時、この森には、一人の妖精の娘と、彼女が愛した、一人の人間の青年がいました」
その言葉に、アシュルが、はっと、息を呑んだ。
「まさか……」
「娘の名は、ミィナ。青年の名は、確か――ダリオンと、言いました」
妖精王が、その名を口にした瞬間、黒い影が、一際大きく、咆哮を上げた。まるで、その名前に、激しく反応するかのように。
「ダリオン……!」
アシュルが、思わず、その名を繰り返した。
「アシュル、知ってるの、その名前?」
ルートの問いに、アシュルは、震える声で答えた。
「――知っている。ダリオンは、かつて、私が、絆の力を司る柱として、見守っていた者の一人だ」
その告白に、一同は、驚きの表情を浮かべた。
「ダリオンは、人間でありながら、妖精族の娘、ミィナと、深く愛し合っていた。種族を超えた、その絆は、当時、多くの者から、祝福されると同時に――一部の者からは、激しい憎しみと、恐れの対象にもなっていた」
妖精王が、悲しげに、その先を続けた。
「種族間の対立が、激化していたあの時代、二人の絆は、『禁忌』とさえ、呼ばれるようになりました。そして、ある日――」
妖精王の声が、悲痛に震えた。
「対立する勢力によって、ダリオンは、無残にも、命を奪われてしまったのです。ミィナの、目の前で」
その悲劇に、シィナが、思わず、口元を手で覆った。
「そんな……」
「ミィナは、深い絶望の中、この始まりの泉に、身を投げました。彼女の、行き場のない悲しみと、憎しみが、この泉に、深く、深く、染み込んでいったのです」
妖精王は、静かに、黒い影を見つめた。
「恐らく、あの影は――長い年月をかけて、この泉に蓄積された、ミィナの想いが、形を成したものなのでしょう」
その真相に、ルートは、胸が締め付けられる思いだった。
「ミィナさん……ずっと、一人で、苦しんでたんだ」
その呟きに、アシュルが、静かに頷いた。
「私は、あの時代、この二人を、守りきれなかった。絆を司る柱でありながら、二人の想いが、周囲の憎しみに、押し潰されるのを、ただ、見ていることしかできなかった」
アシュルの声には、深い後悔が滲んでいた。
「だが――今度は、違う」
アシュルは、真っ直ぐに、黒い影を見据えた。
「ミィナ。お前の悲しみを、これ以上、この森に、留めさせはしない」
その宣言と共に、アシュルの体から、白銀の光が、これまで以上に強く、溢れ出した。
「ルート、力を貸してくれ。この子の魂を、鎮めるために」
「うん、もちろん」
ルートは、片手剣を構え、アシュルと共に、影――否、ミィナの魂の残滓へと、静かに歩み寄った。
「ミィナさん」
ルートは、優しく、しかし、確かな想いを込めて、その名を呼んだ。
「あなたの悲しみも、憎しみも、痛いほど、分かる気がします。誰かを、心から愛したこと。その愛が、誰かに、否定されたこと」
その言葉に、黒い影の動きが、わずかに、緩やかになった。
「でも、ダリオンさんは、きっと、あなたが、いつまでも、悲しみに囚われ続けることを、望んでいないと思います」
ルートの言葉に、影が、苦しげに、身を捩った。まるで、内に秘めた感情が、溢れ出そうとするかのように。
「アシュル、今だ!」
「ああ!」
アシュルが、白銀の光を纏わせた剣を、優しく、しかし、確かな力を込めて、影の中心へと、突き入れた。それは、攻撃というよりも、まるで、慈しみに満ちた、抱擁のような動作だった。
「ミィナ。もう、苦しまなくていい。ダリオンの元へ、還りなさい」
アシュルの言葉と共に、影の体が、淡い光に包まれ始めた。黒い靄が、少しずつ、浄化されるように、白く、透き通っていく。
影の中から、ゆっくりと、一人の妖精の娘の姿が、浮かび上がってきた。その表情は、これまでの禍々しさが嘘のように、穏やかで、どこか、安堵に満ちていた。
「――ありがとう」
その声は、風に溶けるように、静かに、消えていった。娘の姿もまた、光の粒子となって、空へと、昇っていく。
黒く濁っていた泉の水面が、少しずつ、透明さを取り戻していった。周囲の枯れていた草花も、淡く、再び、光を灯し始める。
「終わった……のか」
ゼクスが、安堵の息を吐きながら、呟いた。
「ええ。穢れは、浄化されました」
妖精王が、静かに、しかし、深い感慨を込めて言った。その目には、うっすらと、涙が浮かんでいた。
「ミィナ……長い間、苦しませて、ごめんなさい」
その呟きに、リュゼリアが、そっと、妖精王の肩に、手を添えた。
「妖精王様のせいでは、ありません。あなたも、あの時代、精一杯、二人を守ろうとされていたはずです」
「ええ……そうですね。ありがとう、リュゼリア」
妖精王は、静かに、涙を拭った。
浄化された泉を見つめながら、アシュルは、静かに、拳を握りしめていた。
「アシュル、大丈夫?」
ルートの問いに、アシュルは、少し、複雑な表情で頷いた。
「ああ。……ようやく、一つ、過去の後悔と、向き合えた気がする」
その言葉に、ルートは、優しく微笑んだ。
「アシュルは、今度こそ、ちゃんと、大切な人を守れたよ」
その言葉に、アシュルは、驚いたように、ルートを見つめた。それから、静かに、しかし、確かな温かさを込めて、頷いた。
「――そうだな。今度こそ、な」
浄化された始まりの泉は、これまで以上に、澄み渡った輝きを、取り戻していた。その水面には、優しい光が、静かに、揺らめいている。
妖精王は、改めて、一同に向き直った。
「本当に、ありがとうございました。あなた方のおかげで、この森は、救われました」
「僕たちにできることがあって、良かったです」
ルートの言葉に、妖精王は、優しく微笑んだ。
「これから、この森は、少しずつ、元の姿を取り戻していくでしょう。……そして」
妖精王は、ふと、思い出したように、続けた。
「実は、この始まりの泉にも、召喚術の『核』としての性質が、僅かながら、宿っているのです」
「え、ここにも!?」
ルートが、驚いたように、目を見開いた。
「ええ。穢れが浄化された今、その力の一端が、再び、この世界に、解き放たれることでしょう」
その言葉と共に、泉の中心から、淡い光の柱が、静かに立ち上り始めた。
「これは……!」
その光が、ルート、アシュル、カインの体を、優しく包み込んでいく。同時に、彼らの内に宿る力が、これまでよりも、さらに一段、深く、強く、研ぎ澄まされていくのを感じた。
「また、力が……!」
ルートは、自らの内に宿る、新たな感覚を、静かに、噛み締めた。
「これで、二つ目の核を、解放することができたわけだ」
アシュルの言葉に、一同は、力強く頷いた。
光が収まると、妖精王は、改めて、リュゼリアへと向き直った。
「リュゼリア。あなたには、これからも、大切な仲間たちと共に、幸せな道を歩んでほしいと、心から願っています」
「はい、妖精王様。ありがとうございます」
リュゼリアは、深く、頭を下げた。
森を後にする道すがら、フィーが、名残惜しそうに、一行を見送った。
「規格外の召喚士様、そして、皆様。この森を救っていただき、本当に、ありがとうございました。またいつか、お会いできる日を、楽しみにしております」
「うん、また会おうね、フィーさん」
ルートの言葉に、フィーは、嬉しそうに、その場で、くるりと一回転した。
妖精の森を後にした一行は、それぞれの内に、新たな力と、そして、確かな絆の重みを抱きながら、街への帰路についた。
夕暮れの空の下、アシュルは、静かに、ルートの隣を歩きながら、呟いた。
「ルート。今日という日、私にとって、大きな意味を持つ一日になった」
「うん、僕にとっても」
「お前と出会えたこと、そして、こうして、共に、過去の後悔と向き合えたこと。……感謝している」
その素直な言葉に、ルートは、温かい気持ちで微笑んだ。
「これからも、一緒に頑張ろうね、アシュル」
「ああ。どこまでも、共に」
二人の間に流れる、静かな、しかし確かな絆を感じながら、一行は、夕日に染まる道を、共に歩んでいったのだった。




