第42話「穢れの気配」
妖精王を先頭に、一行は、森のさらに奥へと足を進めていった。進むにつれ、周囲の空気は、次第に重く、そして、どこか、粘りつくような感覚を帯びていった。
「この辺りから、穢れの気配が、色濃くなってまいります。皆様、どうか、お気をつけて」
妖精王の言葉に、一同は、より一層、警戒を強めた。
「アシュル、この感じ……」
ルートが、小声で尋ねると、アシュルは、眉をひそめながら答えた。
「ああ。忘却の迷宮で感じた、あの『影の主』の気配と、どこか似ている。だが、質が違う。もっと、根源的で、深いところから、滲み出るような、嫌な感覚だ」
その説明に、ルートは、緊張を新たにした。
木々の様子も、少しずつ、変化を見せ始めていた。これまで、淡い光を放っていた植物たちが、進むにつれて、その輝きを失い、代わりに、黒ずんだ、不気味な色合いへと変わっていく。
「木々が、枯れ始めているんですね……」
シィナが、痛ましそうに、その光景を見つめた。
「ええ。穢れは、少しずつ、この森全体を、蝕み始めています」
妖精王の声に、深い悲しみが滲んでいた。
「フィーさん、他の妖精たちは、大丈夫なんですか?」
ルートの問いに、フィーは、少し表情を曇らせた。
「多くの者は、森の外縁部へと、避難させています。ですが、中には、この森を離れられない、年老いた妖精たちや、まだ幼い子どもたちもいて……」
その言葉に、ルートは、拳を握りしめた。
「なおさら、早く、原因を突き止めないとね」
一行は、さらに、森の奥へと進んでいった。やがて、木々の密度が薄まり、開けた場所へと出た。そこには、これまで見てきたどの場所よりも、深い、黒ずんだ空気が漂っていた。
「ここが……」
「始まりの泉、です」
妖精王の言葉に、一同は、目の前の光景に、息を呑んだ。
本来であれば、透き通るような、美しい泉であったはずのその場所は、今や、その水面が、まるで墨を流し込んだかのように、黒く濁っていた。泉の周囲に生えていたはずの草花も、既に、枯れ果てている。
「これは、酷いな……」
ゼクスが、思わず、そう漏らした。
「泉の中心部、あそこに、何かがあるようですね」
カインが、静かに、泉の中央を指し示した。目を凝らすと、黒く濁った水面の下、うっすらと、何か、異質な物体の輪郭が見て取れた。
「あれが、穢れの原因、ということでしょうか」
シィナの問いに、妖精王は、頷いた。
「恐らくは。ですが、あの泉の中心部に近づくことすら、私たち妖精族の力では、困難を極めます。穢れの気配に、当てられてしまうのです」
その説明に、リュゼリアが、真剣な表情で、泉を見つめた。
「私に、何か、できることは、ありませんか」
その問いに、妖精王は、優しく、しかし、真剣な眼差しで、リュゼリアを見つめた。
「あなたの力――妖精王の加護を受けた、その特別な力があれば、あるいは、この穢れに、対抗できるかもしれません。ですが、それは、大きな負担を、あなたに強いることになるでしょう」
「構いません。私にできることがあるなら、やらせてください」
リュゼリアの、迷いのない言葉に、ゼクスが、慌てて口を挟んだ。
「リサ、無茶はするなよ」
「大丈夫よ、ゼクス。それに――」
リュゼリアは、優しく微笑んだ。
「あなたたちが、傍にいてくれるなら、私は、何も怖くないもの」
その言葉に、ゼクスは、何かを言いかけたが、結局、静かに頷いた。
「分かった。俺たちも、全力で、リサを守る」
その決意に、一同も、力強く頷いた。
妖精王は、静かに、一同を見渡した。
「では、まず、泉に近づく前に、皆様の身を守るための、加護を施しましょう」
妖精王が、静かに手をかざすと、一同の体を、淡い光の膜が、優しく包み込んでいった。
「これで、多少は、穢れの影響を、和らげることができるはずです。ですが、油断は禁物ですよ」
「ありがとうございます、妖精王様」
ルートの言葉に、妖精王は、静かに頷いた。
一行は、慎重に、泉の縁へと近づいていった。近づくにつれ、空気は、さらに重く、まるで、粘着質な何かが、肌にまとわりつくような、不快な感覚が強まっていく。
「うっ……」
シィナが、思わず、顔をしかめた。
「大丈夫か、シィナ」
「はい……なんとか」
ゼクスの気遣いに、シィナは、気丈に頷いた。
泉の縁に立ったルートは、改めて、その黒く濁った水面を、じっと見つめた。中央に見える、異質な物体の輪郭が、水面の揺らぎと共に、わずかに動いているように見えた。
「アシュル、あれ、動いてる……?」
その問いに、アシュルは、鋭い眼差しで、水面を見つめた。
「――ああ、間違いない。あれは、単なる『穢れの塊』ではない。何か、意志を持った存在だ」
その言葉に、一同の緊張が、一気に高まった。
「カイン、詳しく、感じ取れる?」
ルートの問いに、カインは、静かに目を閉じ、意識を集中させた。
「――強い、負の感情を感じます。憎しみ、悲しみ、そして、深い、絶望……。これほどまでに、濃密な負の感情の塊、私も、初めて感じるものです」
その分析に、妖精王が、はっとしたように、息を呑んだ。
「まさか……」
「妖精王様、何か、心当たりが?」
リュゼリアの問いに、妖精王は、深刻な表情で、口を開いた。
「遥か昔、この森で、一つの悲劇がありました。もし、あの穢れが、その悲劇に関わるものだとすれば……」
妖精王が、その先を続けようとした、その時。
黒く濁った泉の水面が、大きく波打ち、中央から、巨大な、黒い影が、ゆっくりと、その姿を現し始めた。
「来るぞ!」
アシュルの鋭い声と共に、一同は、それぞれ、戦闘態勢を取った。
水面から姿を現したのは、人型に近い輪郭を持つ、しかし、明らかに、この世のものではない、禍々しい気配を纏った、巨大な影だった。その体表からは、絶えず、黒い靄のようなものが、立ち上っている。
「あれが、穢れの正体……!」
ルートは、片手剣を構えながら、その禍々しい姿を、真っ直ぐに見据えた。
「みんな、油断しないで! これから、始めよう!」
その号令と共に、始まりの泉を巡る、激しい戦いの幕が、静かに、しかし確かに、切って落とされたのだった。




