第10話「消えない傷」
これは、忘却の迷宮を後にした夜、シィナたちと合流する前に起きた出来事。
治療院にシィナと姉を預けたあと、ルートは一人、宿への帰り道を歩いていた。アシュルは人型のまま、静かに隣を歩いている。ゼクスとは、ひとまずここで別れていた。
「疲れたか?」
「うん、正直、へとへと。でも……なんだろう、悪い疲れじゃない気がする」
ルートがそう答えると、アシュルは小さく頷いた。それ以上は何も言わず、二人はしばらく無言のまま夜の街を歩いた。
人通りのない裏路地に差し掛かったとき、前方にふと人影が立った。
「待っていた…」
聞き覚えのある声。フードを目深に被った、あの人物だった。
「あなたは……」
「先日ぶりだな、規格外の召喚士」
アシュルが即座に警戒の姿勢を取るが、フードの人物は両手を軽く上げ、敵意がないことを示した。
「今日は、伝えなければならないことがあって来た。お前にとっては、些細ではない話だ」
その声の重さに、ルートは思わず息を呑んだ。
「行方不明者のこと、ですか」
「ああ。……単刀直入に言おう。お前たちが『ログアウトできない』と思っている現象。あれは、正確な表現ではない」
「え……?」
「お前たちは、意識だけがこちらに留まっているわけではない。肉体ごと、この世界に転移している」
その言葉が、ルートの頭の中でうまく処理出来なかった。
「肉体、ごと……? でも、僕は確かにダイブギアを使って……」
「本来のログイン方式なら、そうだ。だが、お前が契約した個体――アシュルは、規定のシステムに存在しない異物だった。契約の瞬間、システムはお前という存在ごと、こちらの世界に『転写』してしまった。……いや、より正確に言えば、こちらに『引きずり込んだ』というべきか」
アシュルの表情が、わずかに強張るのが見えた。
「つまり……現実の僕の身体は、もう」
「現実には、存在しない。正確には、こちらの世界に存在している。お前の家族が心配している『行方不明の息子』は、比喩でもなんでもなく、文字通りこの世界のどこかを歩いているということだ」
膝から力が抜けそうになった。ルートは思わず、近くの壁に手をついた。
「じゃあ……戻るっていうのは……」
「意識だけを戻す方法では、意味をなさない。肉体そのものを、元の世界へ帰す方法を見つけなければならない」
「それなら、まだ……」
「言っておくが」
フードの人物は、ルートの言葉を遮るように、静かに、しかしはっきりと告げた。
「肉体ごとこちらにある、ということの意味を、正しく理解しろ。もし、この世界でお前が死ねば、それで終わりだ。魂だけが現実に戻る、などという都合のいい話はない。お前という存在そのものが、そこで消える」
その一言に、ルートは全身の血の気が引くのを感じた。
「そんな……」
「現実の科学にも、魔法にも、これほどの現象を成し遂げる技術は存在しない。だからこそ、運営もどう対処すればいいか、答えを持っていない。……いや、正確には、対処する術そのものが存在しない可能性が高い」
「運営が作ったシステムなのに、運営にも分からないってことですか?」
「このシステムを作ったのは運営だ。だが、お前という『異物』とアシュルという『異物』が組み合わさったことで生まれた現象は、運営の設計思想を超えている。誰も、経験したことのない事態なんだ」
その言葉の重さに、ルートは言葉を失った。単に「ログアウトできない」という話ではない。自分の存在そのものが、まるごとこの世界に組み込まれ、そしてこの世界で命を落とせば、それきり全てが終わる。
「他の行方不明者たちも……?」
「恐らくは、同様だろう。程度の差はあるだろうがな。今日、迷宮で見た繭の中の者たちも、恐らく同じ現象に巻き込まれていたはずだ」
フードの人物は、静かに続けた。
「運営の一部は、この事実を知っている。だが、公表すれば大きな混乱を招くとして、隠蔽の方針が固まりつつある。私のように、この状況を看過できないと考える者は少数派だ」
「なんで、そんな大事なこと、隠すんですか……!」
思わず声を荒げたルートに、フードの人物は静かに首を振った。
「責任の所在、技術的な過失、様々な理由がある。だが、それを議論している時間はお前にはないだろう。……知っておけ。真実を知ったところで、お前が今すぐできることは少ない。だが、知らないまま進むよりは、ずっといい」
言葉を切り、人物はゆっくりと消え始める。
「次に話せることがあれば、また接触する。それまで、無事でいろ」
そう言い残し、人物は路地の闇に姿を消していった。
静寂が戻った路地に、ルートとアシュルだけが残される。ルートは、しばらく動くことができなかった。
「アシュル……僕、死んだら……本当に、全部終わるんだよね」
「そうなるだろうな」
「怖いよ。今までは、最悪でも『元の世界に戻れないだけ』だと思ってた。でも、本当は……僕がここで消えたら、それで、僕という存在ごと、なくなるんだ」
声が震えていた。今まで感じていた恐怖とは、質の違う恐怖だった。抽象的な「戻れない」ではなく、「命そのものが、後戻りのきかない一本道の上にある」という事実の重さが、ルートの心を押し潰しそうになる。
アシュルは、そんなルートの前に、静かに歩み寄った。
「ルート」
名を呼ばれ、ルートは顔を上げる。アシュルの紫の瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。
「お前を、絶対に死なせはしない。何があろうと、私が守り抜く。約束する」
その言葉には、これまでのどんな言葉よりも、確かな決意が込められていた。打算でも、契約上の義務でもない、ただ純粋な意志の強さが。
「アシュル……」
「私はまだ、全ての力を取り戻したわけではない。だが、少しずつでも、思い出していく。お前を助けるための力を」
その言葉に、ルートの震えが、少しずつ収まっていった。恐怖が消えたわけではない。それでも、隣に誰かがいてくれることが、これほど心強いとは思わなかった。
「ありがとう、アシュル」
「礼はいらないと、何度言えばわかる」
いつもの素っ気ない返し。だが、その声には、隠しきれない優しさが滲んでいた。
その夜、ルートは宿の部屋で、なかなか寝付くことができなかった。天井を見つめながら、自分の肉体ごとこの世界に存在しているという事実を、何度も頭の中で反芻する。
それでも――と、ルートは思う。膝の上で丸くなっているアシュルの温もりに、そっと触れる。
一人じゃない。この事実を知った今も、隣には確かに、誰かがいてくれる。
その安堵だけを支えに、ルートはようやく、浅い眠りへと落ちていった。
まぁ…そもそも…ゲームなのに、匂いまで感じている時点でおかしいって事なんですよね




