第9話「岩盤を、知恵で割る」
三日が過ぎても岩はほとんど削れていなかった。
俺が炭で印した節理――岩の割れ目の癖。そこをドルグと屈強な男たちが鑿と槌で朝から晩まで叩き続けた。確かに闇雲に叩くよりは砕けた。節理に沿って岩が素直に割れてくれる場所もあった。だが、それでも遅すぎた。
「ちくしょう……」ドルグが汗だくで槌を投げ出した。岩肌に火花の焦げ跡が散っている。「節理に沿わせても、この硬さだ。一日で、人ひとり分も進まねえ。これじゃ、十年が、八年になっただけだ」
そのとき、岩を叩いていた若者が短く悲鳴を上げた。砕けた岩の破片が勢いよく弾けて、彼の頬を裂いていた。血が滴る。
「もう、やめて!」シエラが駆け寄り傷を水で洗いながら叫んだ。「これ以上は、誰か死ぬ。レヴィン、別の手はないの?あんたの目で、もっと――」
俺は答えなかった。ずっと岩を視ていた。節理の走り方を。岩のひとつひとつの粒の詰まり方を。
そして、思い出していた。宮廷の書庫で誰も借りない古い文献の隅に書かれていたひとつの技を。
「……火だ」俺は呟いた。
「あ?」
「岩は、力では、なかなか割れない。だが――熱には、弱い」
◇
俺は三人にその工法を説明した。
「岩を、焼く。節理に沿って、魔石の火で、真っ赤になるまで熱する。岩は、熱で膨らむ。芯まで、たっぷりとな」俺は岩肌の節理を指でなぞった。「そこへ――冷たい水を、一気にかける」
シエラがはっと息を呑んだ。
「熱で膨らんだ岩に、急に冷たい水。膨らんだものが、急に縮む。岩は、その急な変化に耐えられない。自分の弱い線――節理に沿って、内側から、勝手に裂ける」
「焼いて、冷やす……」ドルグが目を見開いた。「鍛冶と、逆だな。鋼を鍛えるんじゃなく、岩を、自分から音を上げさせるのか」
「ああ。だが、水は、ただかければいいんじゃない」俺はシエラを見た。「真っ赤に焼けた、その一点。節理の、いちばん深い亀裂。そこへ、的確に、突き刺すように水を送り込む。少しでも狙いが外れれば、岩は割れない。それができるのは――」
「……あたしの指、だね」シエラが自分の手を見た。さっきまでのおびえがすっと消えていた。「こぼさず、狙った一点に、水を届ける。あたしの魔法、そのものじゃない」
◇
翌朝から、岩盤との新しい戦いが始まった。
ドルグの男たちが節理に沿って魔石の火を焚く。橙色の炎が岩を舐め、灰色の壁がじりじりと赤黒く焼けていく。岩の芯まで熱が通るのを俺は地脈視で見張った。熱は土や水とは違う色で、岩の内側へゆっくりと染みていった。
「……まだだ。もう少し、芯まで」俺は熱の広がりを読みながら、合図を待った。岩の芯の色が十分に変わる。その一瞬を。
「――今だ!シエラ!」
シエラが両手を振り上げた。
用意していた水桶の水が彼女の指に導かれて、宙へ跳ね上がる。それはただの水しぶきじゃなかった。何本もの細く鋭い水の槍。それぞれが真っ赤に焼けた節理のいちばん深い亀裂めがけて寸分の狂いもなく突き刺さった。
じゅう、と凄まじい音と白い蒸気が岩肌から噴き上がる。
そして――ぱき、ん。
澄んだ硬い音がした。
灰色の壁に稲妻のような亀裂が走った。俺が印した節理の線をなぞるように。岩が自分の弱さに沿って内側から音を立てて裂けていく。ひと抱えもある岩塊が、ごとり、と剥がれ落ちた。
「割れた……割れたぞ!」ドルグが剥がれた岩を蹴って吠えた。「三日叩いて拳一つだった岩が、一回で、ひと抱えだ!」
「岩を、片付けろ!次の節理を焼くぞ!」
焼いて、冷やし、割る。剥がれた岩をシエラの水流で運河の水に乗せて流し去る。そしてまた次の節理を焼く。三日でびくともしなかった壁が目に見える速さで削れていった。
◇
そうして十日後の夕暮れ。
最後のひと焼きの最後の水が節理に突き刺さった。
ぱき、ん――とこれまででいちばん大きな音が響いて。
岩盤の最後のひと塊が向こう側へと崩れ落ちた。
壁に穴が開いた。人がふたり並んで通れるほどの岩のトンネル。その向こうから――風が吹き込んできた。
これまでのよどんだ内陸の風じゃない。湿ったどこか懐かしい塩の匂い。
そして、トンネルの向こうに夕陽が見えた。岩の裂け目から差し込む茜色の光。その光の先にきらきらと、何かが無限に広がっている。
「……海だ」
メイが震える声で呟いた。岩のトンネルを彼女がふらふらと潜り抜けていく。俺たちも続いた。
壁の向こう側。そこには――どこまでも続く、夕陽に染まった海が広がっていた。
生まれて一度も村を出たことのなかったメイがその場にへなへなと座り込んだ。海を見たまま声を上げて泣いていた。
「……海。これが、海……あたしたちが、掘った道の、先に……」
ドルグが岩みたいな肩を震わせていた。シエラが自分の手のひらをそっと胸に当てていた。
俺は割り砕いた岩のトンネルとその先の海を見渡した。攻撃魔法は一発も使っていない。撃ったのは地図と火と水と知恵だけだ。
「土は、嘘をつかない」俺は潮風の中で静かに言った。「そして、岩も、海も、嘘をつかない。――あとは、この穴を、舟が通れる運河に広げるだけだ」
海へ続く道の最後の壁がついに、抜けた。オルテガが「村」でいられる時間はもう、残りわずかだった。




