第8話「海へ続く一本の線を、地に引く」
運河は日に日に、海へと近づいていた。
シエラの水門が暴れる水を従わせるようになってから、工事は別物のように進んだ。掘った先から水を通し、土手を固め、また掘る。ドルグが百人の人手を差配し、メイが食事と寝床を回し、俺が地脈視で一歩先の地盤を読む。四つの歯車は止まることを知らなかった。
流民として流れ着いた者たちももう「よそ者」ではなかった。鍬を握り、石を運び、水門の番をする。誰もが自分の手で「海へ続く道」を掘っている。その実感が痩せこけていた彼らの背をまっすぐに伸ばしていた。
「あと、どれくらいで海なの?」
ある夕暮れ、運河の縁に並んで腰を下ろしたメイが茜色の南の空を見ながら尋ねた。
「順調にいけば、ふた月」俺は答えた。「この勾配なら、あとは下るだけだ。土は、海まで、ちゃんと道を用意してくれている」
「ふた月……」メイが夢を見るように呟いた。「海。あたし、見たことないんだ。村から出たこと、一度もないから」
「すぐ見られる。あんたが掘った運河で、舟に乗ってな」
メイが嬉しそうに笑った。
――その笑顔を俺は翌朝、裏切ることになる。
◇
翌朝、俺は運河の予定線のまだ掘っていない先を測りに一人で南へ歩いた。
いつもの作業だ。掘る前に地脈視で一歩先の地盤を読み、危険を潰しておく。だが、その朝に視たものはこれまでとはまるで違っていた。
運河の予定線が海まであと少しというその手前。地面に手をついた瞬間、視界が――硬い灰色に塗りつぶされた。
岩盤だ。
それも生半可な岩じゃない。地の底深くから分厚い岩の壁が南北にまっすぐ立ちはだかっている。ちょうど海へ下る谷筋を断ち切るように。長さは見渡すかぎり。深さも底が視えないほど。
俺は何度も土に触れ、岩盤の範囲を測った。何度測っても答えは同じだった。運河の道を巨大な岩の壁が完全に塞いでいた。
◇
「迂回は、できないのか」
現場に呼んだドルグとシエラに地図を見せると、ドルグは苦い顔で唸った。
「無理だ」俺は地図の上に岩盤の輪郭を描き込んだ。「迂回すれば、勾配が狂う。水は、低い所へしか流れない。岩を避けて遠回りすれば、この先で水が逆流する。運河として、死ぬ」
「じゃあ、岩を、ぶち抜くしかねえってことか」ドルグがごつい手で岩肌を叩いた。鈍い詰まった音がした。「……地図屋。正直に言うぞ。この硬さだ。人の手で、鑿と槌で削るとなりゃ……十年は、かかる」
十年。その言葉が現場に重くのしかかった。
ふた月で海へ届くはずだった。それが目の前のこの壁ひとつで十年に化ける。倉の穀物はその間に腐る。集まった流民は希望を失って去っていく。バルツァー辺境伯はその隙を見逃さないだろう。
「……そんな」追いついてきたメイが岩の壁を見上げて絶句した。「あと、ふた月だって。海、見られるって……」
「あたしの水門が、いくらあっても」シエラも青ざめていた。「岩は、流せない」
沈黙が落ちた。誰もが海への道がこの灰色の壁で終わったのだと思った。
――俺以外は。
◇
俺は岩盤にもう一度手のひらを押し当てた。
こめかみがぎりぎりと痛む。硬いものを視るのは土を視るよりずっと目に負担がかかる。それでも俺は視ることをやめなかった。
岩は確かに硬い。だが――土は、嘘をつかない。岩も、また、嘘をつかない。
視界の中で灰色の壁に細い線が走っているのが視えた。一本。二本。何本も。岩の中を髪の毛のように細く、けれど規則正しく走る亀裂の筋。
節理。どんなに硬い岩にも生まれたときからの「割れ目の癖」がある。力任せに叩けば十年かかる岩でも、この癖に沿って正しい場所に正しい力をかければ――。
俺は鼻血を拭いながら、立ち上がった。痛む頭の奥でもう計算が始まっていた。
「ドルグ」俺は岩を見据えたまま言った。「十年は、かからない」
「……あ?」
「この岩を、力で割ろうとするな。岩の“割れたがっている線”に、沿って割る」俺は視えたばかりの節理の位置を岩肌に炭で印していった。「ここと、ここ。岩が、自分から弱いと言っている場所だ。ここを攻めれば、最小の力で、最大に砕ける」
メイが信じられないという顔で俺を見た。「……岩の、割れたがってる線が、見えるの?」
「土と、同じだ」俺は印をつけた岩肌に手を添えた。「硬い顔をしているだけで、こいつにも、弱い場所はある。視ようとしない奴には、永遠に、ただの壁だ。だが――」
俺は海の方角を見据えた。岩の壁のすぐ向こう。あと少しで届くはずの海を。
「俺には、視える。この壁の、向こう側まで」
ドルグの岩みたいな顔にまた、あの火が灯った。
「……はっ。聞いたか、お前ら」彼は槌を担ぎ直した。「うちの地図屋は、岩まで口を割らせるとよ」
絶望の壁はまだそこにあった。だが、俺たちの誰ももうそれを「終わり」だとは思っていなかった。
「明日から、この壁を、割る」俺は宣言した。「海は――すぐ、そこだ」




