第7話「落ちこぼれ水術士は、運河の鍵だった」
運河の掘削が一つ目の壁にぶつかっていた。水門だ。
運河はただ溝を掘って水を流せばいいわけじゃない。土地には高低差がある。高い所から低い所へ水は勢いよく流れ落ちる。その勢いを御せなければ、舟は転覆し、掘ったばかりの土手は削られて崩れる。だから、水門で水位を区切り、段々にして水の勢いを殺しながら舟を上げ下げする。
理屈は地図の上で完成していた。問題はその水門の「閉じ加減」だった。
「駄目だ。また土手が削れてる」
試しに造った最初の水門の前で俺は唸った。門をわずかに開けただけで水は牙を剥く。閉じすぎれば舟が進めない。開けすぎれば土手が崩れる。その間のほんのわずかな“ちょうどいい”を人の手で板を上げ下げするだけでは、どうしても捉えきれなかった。
「人の力じゃ、水門の微調整は限界がある」ドルグも腕を組んだ。「水ってのは、こっちの都合なんざ聞いちゃくれねえ」
水は、正直すぎた。土と同じだ。少しのズレも容赦なく結果に返してくる。水の流れそのものを指先でなでるように御せる手段が要る。そう考えていたまさにそのときだった。
◇
「……ねえ。ここ、水はあるけど、仕事はある?」
力のない声に振り返ると、一人の少女が立っていた。
十九ほどか。旅装はほこりまみれで頬はこけている。長く歩いてきた者の疲れ切った目をしていた。だが、その腰には――魔法院の見習いが提げる水術士の証の青い房飾りがあった。
「魔法院の、水術士か」俺は尋ねた。
「……元、ね」少女は自嘲した。「シエラ・ヴェント。落ちこぼれて、放り出された。攻撃魔法も使えない、なんの役にも立たない水術士もどき。あんたたちの噂を聞いて、ここなら水仕事の下働きくらいあるかと思って、来た。それだけ」
投げやりな言葉だった。期待をとっくに捨てた人間の声だ。俺にはそれがよく分かった。
「水術士。何ができる」
「何も」シエラは肩をすくめた。「魔法院じゃ、攻撃魔法が全て。火球を撃てれば英雄。水で人を凍らせられれば一流。……あたしの魔法はね、そのどっちでもない。せいぜい」
彼女は傍らの水たまりに気だるげに指を向けた。
すると――水面に細い筋が走った。水たまりの水が指の動きに合わせて糸のように細く、まっすぐ持ち上がる。蛇口を捻るよりなお繊細に。彼女が指を傾けると、水の糸は流れる速さを変え、向きを変え、また静かに水面へ戻った。
「……このくらい。コップの水を、こぼさずに動かすのが関の山。戦いじゃ、なんの役にも立たない。だから――」
シエラの声が途中で止まった。俺が彼女の手をまじまじと見ていたからだ。
◇
「もう一度」俺は言った。「いまの、もう一度やってくれ。水の、速さを変えるところを」
「……は?馬鹿にしてるの?」
「いいから」
シエラは訝しげにもう一度水を操った。細い水の筋がゆっくりと、また速く、彼女の指先のままに流れる。
俺は確信した。
「シエラ。あんた、この水門の板を、どのくらいの速さで上げればいいか――水の勢いを見て、指先で“合わせる”ことが、できるか。攻撃魔法じゃない。土手が崩れる寸前で、水を抑える。舟が進める分だけ、水を通す。その“ちょうどいい”を、あんたの指で、捉えられるか」
シエラがぽかんと水門を見た。牙を剥く水。崩れた土手。人の手では捉えきれなかったわずかな“ちょうどいい”。彼女の目がゆっくりと見開かれていった。
「……あたしの魔法で、その、水門を?」
「あんたの魔法でしか、できない」俺ははっきりと言った。「攻撃魔法を百発撃てる魔導士を百人連れてきても、この水門ひとつ、御せやしない。だが、あんたの“こぼさない指”なら――この運河を、生かせる」
◇
シエラはしばらく動かなかった。それからおそるおそる水門の脇に立った。
ドルグが板をほんの少し持ち上げる。水がごう、と牙を剥きかけた――その瞬間。
シエラの指が空をなでた。
牙を剥きかけた水流がふっと勢いを落とした。彼女の指先に導かれて、水は暴れるのをやめ、ちょうど舟一艘が通れるだけの穏やかな段差になって、静かに次の区画へ流れ落ちていった。
土手は一粒も削れなかった。
「……できた」シエラが震える声で呟いた。「あたしの、魔法で……」
「ああ」俺はうなずいた。「これが、運河の心臓だ。水門を御せなければ、運河は、ただの溝でしかない。あんたが来なければ、この運河は、永遠に未完成だった」
シエラの目から涙がこぼれた。慌てて拭っても止まらなかった。
「ずっと、役立たずだって言われてきた。攻撃魔法が使えない水術士なんて、ゴミだって。あたし自身も、そう思ってた。なのに……」
「魔法院は、攻撃の物差しでしか、あんたを測らなかった」
俺は自分のことのように言った。地面を眺めるしか能のない男と笑われたあの日の自分を思い出していた。
「物差しが間違っているなら、測られる側の価値は、変わらない。攻撃に向かない力が、無能なんじゃない。攻撃にしか興味のない奴らが、あんたの価値を、視られなかっただけだ」
シエラが顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔でそれでも、笑っていた。
「……あんたも、そうなの?あんたのその目も、笑われた?」
「ああ」俺は運河を見渡した。「俺の地図も、あんたの水も、同じだ。使う場所さえ間違えなければ――国を、造れる」
シエラは濡れた頬をごしごしと拭った。それから水門の脇にしっかりと立ち直した。さっきまでの投げやりな影はもうどこにもなかった。
「決めた。あたし、ここに残る。この運河の水門、ぜんぶ、あたしが御す」
そして、自分の指先を信じられないものを見るように見つめた。
「……あたしの魔法に、初めて、意味がついた」
設計を引く俺。石を積むドルグ。人をまとめるメイ。そして、水を御すシエラ。海へ続く運河を造るための最後の歯車がいま、噛み合った。




