第10話「村が港になった日」
岩のトンネルを舟が通れる幅に広げるのに、ひと月かかった。
焼き割りで開けた穴をシエラの水とドルグの石組みで少しずつ拡げていく。天井を支える石を組み、両岸を護岸で固める。そうして運河は内陸のオルテガから岩盤を貫き、海へと――一本の水の道としてついに端から端まで繋がった。
あとは水を満たすだけだった。
その朝オルテガの全員が運河の起点――鏡池の大堰の前に集まっていた。老人も、子供も、流民だった者たちも。半年以上土を掘り、石を運び、水門の番をしてきた全員が。今日自分たちの掘った道に初めて水が満ちる。その瞬間を見届けるために。
「水位、全区画、確認」俺は地図を片手に運河沿いを見渡した。「ドルグ、護岸は」
「どこも、びくともしねえ。俺の石は、裏切らねえよ」岩みたいな男が胸を張った。
「シエラ、水門は」
「全部の門の前に、人を配置した。あたしが合図を送る。一の門から、順番に。水を、暴れさせない」シエラが指を鳴らした。
「メイ、村のほうは」
「みんな、高い所に避難済み。万が一にも、誰も流されない」メイが力強くうなずいた。「いつでも、いける」
四つの歯車が揃った。
俺は大堰に手を添えた。地脈視で運河の全体が視える。鏡池から田を抜け、岩のトンネルをくぐり、海へと下る一本の青い線。あとはここに水を解き放つだけだ。
「――開けろ」
ドルグが大堰の留め具を打ち抜いた。
◇
せき止められていた鏡池の水がごう、と運河へ流れ込んだ。澄んだ水がまだ乾いていた運河の底を勢いよく駆けていく。
「一の門、開け!」シエラの声が飛ぶ。
第一の水門が上がり、水が次の区画へ。だが、その勢いをシエラの指がすっとなでて鎮める。暴れかけた水は従順な流れに変わり、土手を一粒も削らずに静かに水位を上げていった。
「二の門!……三の門!」
水はシエラの指揮のまま段々の運河をひとつ、またひとつと降りていく。村人が水の進む先を追って運河沿いを走った。歓声が水の流れと一緒に海の方へと伝わっていく。
田の脇を水が満ちていく。岩のトンネルへ水が吸い込まれていく。そして――。
「水位、安定!」俺は地脈視で全体を読み、声を張った。「運河、全区画、満水!――通った!端から、端まで、水が通ったぞ!」
わあっ、とオルテガ中が沸き返った。
鏡池から海まで。内陸の最果てから外の世界まで。一本の澄んだ水の道がいま、確かに繋がっていた。
◇
最初の舟が運河に浮かべられた。
ドルグたちが組んだ小さな木の舟。その荷台には村の倉で眠っていたあの余剰の穀物――麻袋が山と積まれている。閉じ込められて腐るはずだった富。それが今外の世界へ運ばれようとしていた。
「メイ」俺は舟の艫を押さえて彼女を呼んだ。「乗れ。あんたが掘った運河で、あんたが運ぶ、最初の荷だ」
メイが目を見開いた。「……いいの?あたしが?」
「約束しただろう。あんたが掘った運河で、舟に乗ると」
メイは唇を噛んでこくりとうなずいた。そして、穀物の山の上にそっと乗り込んだ。
シエラが水門を舟一艘分だけ開く。舟がゆっくりと滑り出した。
澄んだ水の上を穀物を積んだ舟が進んでいく。田を抜け、岩のトンネルをくぐり、護岸の間をまっすぐに。メイが舟の上で流れていく景色を見つめていた。
そして、舟は――岩のトンネルを抜け、その先の海へと。運河の終点。内陸の水と海の水が出会う場所。メイを乗せた舟がきらめく海原へとすうっと滑り出していった。
「……出た」誰かが呟いた。「海へ……オルテガの舟が、海へ、出たぞ……!」
海の上でメイが立ち上がった。穀物の山の上で両手を高く突き上げてありったけの声で叫んだ。
「やったあ――――っ!」
その声が潮風に乗って運河を遡り、オルテガ中に響き渡った。
もう誰もここを「最果ての毒沼」とは呼ばないだろう。内陸と海をつなぐ水の十字路。オルテガはこの日、「村」であることをやめた。
◇
その夜は村始まって以来の祭りになった。
篝火が焚かれ、初めての交易への期待に誰もが酔っていた。ドルグは樽を抱えて笑い、シエラは子供たちに水の芸を見せ、ヤゴ爺さんは涙を拭いながら踊っていた。
俺はその輪から少し離れて運河の水面に映る篝火の揺らぎを見ていた。
「ひとりで、何見てるの」
海から戻ったメイが隣に来た。頬がまだ興奮で紅潮している。
「この水が、どこまで広がるかを」俺は海の方角を見た。「穀物が、銀に変わる。銀で、鉄を買う。鉄で、もっと運河を広げる。人が集まる。町になる。そうして、この水の道は――王国中の、物の流れを、変えていく」
「……あんたの頭の中、いつも、ずっと先を見てるのね」メイが呆れたように、けれど誇らしげに笑った。
「ああ。だが――」
俺はふと海の水平線に目を留めた。夜の海の遠く。そこにひとつ白いものが浮かんでいた。
帆だ。こちらへ向かってゆっくりと近づいてくる。オルテガの噂を聞きつけた最初の――外の世界からの交易船。
「来たか」俺は静かに呟いた。「土は、嘘をつかない。水を通せば、人と、銀が、流れてくる。――いよいよ、ここからだ」
港になったばかりのオルテガに外の世界が初めて舳先を向けていた。




