第4話「諦めの村が、初めて未来を数えた日」
「来年は、東の畑も使えるかしら」
ある朝、井戸端でそう話している女たちの声を聞いて俺は手を止めた。
来年。この村でその言葉を聞いたのは初めてだった。
俺がオルテガに来てひと月半。鏡池から引いた水路はいまや東の痩せ地を細く潤している。最初に植えた苗は頼りないながらも青い丈を伸ばし、枯れずに立っていた。それだけのことで村の景色が変わっていた。
人が先のことを話すようになったのだ。
飢えた村は明日のことしか考えない。今日をどう生き延びるか、それで頭がいっぱいになる。「来年」を口にできるのは、今日の余裕がほんの少しでも生まれた証だった。
「聞いた?」水桶を提げたメイが隣に立った。声が弾んでいる。「みんな、来年の作付けの相談を始めてる。誰も、あんたの測量を笑わなくなった」
「土が、答えを返しただけだ。俺は、聞き方を知っていたにすぎない」
「……あんた、たまには素直に喜んだら?」メイは呆れ顔で笑った。
◇
その日の夜、俺は村の集会場に三人を呼んだ。メイとドルグとヤゴ爺さんだ。
床に一枚の大きな羊皮紙を広げる。この一月半、足で歩き、視て、描き続けた――オルテガ一帯の完全な地図だった。等高線。地下水脈の青。毒沼の毒の濃淡。地盤の硬軟。そして、いまはまだ何もない場所に薄く引かれた無数の線。
「これは……?」メイがのぞき込む。
「俺が視た、オルテガの“これから”だ」
俺は地図の中央――いまの鏡池を指した。
「鏡池を広げる。毒沼の毒を、少しずつ低地に落とし続ければ、澄んだ水面はどんどん広がる。三年で、沼の半分は用水池に変わる」
指を東へ滑らせる。「ここ一帯が、田になる。二千人を養う穀倉だ」
さらに南へ。「そして、ここ」
俺の指が地図の南の端――低地がゆるやかに海へと下っていく谷筋をなぞった。
「この谷に、運河を一本通す。内陸と海をつなぐ、水の道だ。穀物を、塩を、人を運べる。オルテガは、ただの村じゃなくなる。――交易の、十字路になる」
集会場が静まり返った。
ヤゴ爺さんが震える声で言った。「……運河だと?この、誰も寄りつかなかった毒沼が……海と、つながる?」
「土が、そう言っている。俺が決めたんじゃない。地形が、もともとそう出来ている。誰も、視ようとしなかっただけだ」
ドルグがぐっと身を乗り出した。岩みたいな顔に火がついている。
「運河。工兵時代も、ついぞ任されなかった大仕事だ」彼は太い指で谷筋をなぞった。「地図屋。俺はな、死ぬまでに一度、自分の積んだ石で、船を海まで通してみたかった。――やるぞ。やってやる」
メイが地図と俺と男たちの顔を順に見た。
「あたしには、まだ全部は分からない。運河なんて、見たこともない」彼女はそれでもまっすぐ俺を見た。「でも、井戸のときも、鏡池のときも、あんたの地図はぜんぶ本当になった。だから――今度も、信じる。村は、あたしがまとめる」
設計図を引く俺。それを実物に変えるドルグ。人をまとめるメイ。三人の役割がこの夜、はっきりと形になった。
◇
だが、変わり始めたのは村の中だけではなかった。
翌日の昼下がり、畑を見回っていた子供が息を切らして駆け込んできた。
「レヴィンさん!丘の上に、知らない馬が……!」
俺は丘へ向かった。
遠く村を見下ろす尾根の上に騎乗の人影が二つ。鎧ではない。だが、農民でも行商人でもなかった。仕立ての良い外套。腰には剣。そして、こちらをじっと観察する目――村の畑と水路と鏡池の輝きを検分するように見下ろしている。
俺が気づくと、人影は馬首を返し、尾根の向こうへ消えた。
「……何だ、今のは」追いついたドルグが低く唸った。
「物見だ」俺は消えた方角を見据えた。「西の領――バルツァー辺境伯の紋章を、外套に縫っていた」
「辺境伯?なんで、こんな何もない村に」
「何もない村なら、来ない」
俺は足元に広がる景色を見渡した。青い苗の列。きらめく鏡池。水を引く水路。ひと月半前まで誰も欲しがらなかった死の沼。それが今確かに富み始めている。
「“何かある”から、来たんだ」
富は、生まれた瞬間から狙われる。それが世の理屈だった。
「あの物見が見たものは、近いうちに王都へも届くだろうな」俺は呟いた。俺を切った宮廷が、切ったはずの男の地図が国を富ませていると知る日もそう遠くない。
メイが不安げに俺の横顔を見上げた。「ねえ。あたしたち……大丈夫、なの?」
俺はすぐには答えなかった。代わりに丘の上から変わりゆくオルテガの全景をもう一度、目に焼きつけた。
死の沼が国に変わろうとしている。
「土は、嘘をつかない」俺は静かに言った。「水を制する者は、剣を持つ者より強い。――それを、いずれあの辺境伯にも、王宮にも、思い知らせてやる」
尾根の向こうに消えた影を見据えたまま、俺は胸の内でひとつの線を引いた。
ここに、国を造る。誰にも、奪わせはしない。




