第30話「人は、水のようには配れない」
三月が過ぎた。
オルダ川はまだ細い。だが、流れている。王国南部では、川筋に沿った田から順に塩を洗い流す作業が始まっていた。水を張って、抜いて、また張る。それを何度も繰り返すと、土にたまった塩が水に溶けて流れていく。手間はかかるが、それしかない。今年の作付けには間に合った、と使者が伝えてきた。
飢饉は、引き始めていた。
だが、オルテガの中には別のものがたまり始めていた。土の中なら、水がどこにたまるかは視える。これは、視えなかった。
水門の前の列が以前より静かになっていた。誰も口をきかない。順番を待つ足の位置が、日に日に詰まっていた。
「そのうち、誰かが誰かを押すわよ」メイは前から言っていた。
俺は、押されるほうの田の水位を計っていた。押すほうの腹は、計れなかった。
◇
その朝、第九の水門の前で人が集まっていた。
ロブが立っていた。二年前に足場から落ちて足を悪くした男だ。田を三枚持っている。そのうちの一枚が、下の三枚に入っていた。
向かいに、去年来た一家がいた。東の段々に入った難民の家族だ。父親が両手を上げて、何か言っていた。
「割り込んだわけじゃない」
「順番の話をしてるんじゃない」ロブが言った。「あんたらの田は満ちてる。うちの田は乾いてる。俺の水を、あんたらの国に返したんだ」
「俺たちは、決めていない」
「決めたやつは、ここにいない」
俺は、その場に出ていった。
「ロブ」俺は言った。「東の段々と下の三枚は、湧き口が別だ。あんたの田が乾いたのは、東の段々に水を回したからじゃない。北の鞍部を抜いたからだ。あの一家のせいじゃない」
「知ってる」
「なら」
「知ってるのと、腹が収まるのとは、別だ」
ロブは俺を見なかった。
「あんたの言うことは、いつも合ってる。三年、ずっと合ってた。だから従ってきた」ロブは言った。「今日は、合ってるかどうかを聞いてるんじゃない」
俺は、言葉を継げなかった。
「レヴィン」
メイが後ろに立っていた。
「下がって」
「まだ話が」
「あんたが出ると、話が『正しさ』になる」メイは俺の前に出た。「今、必要なのは正しさじゃないの」
俺は下がった。
メイはロブの前に立ち、それから、一家の父親の前に立った。どちらにも何も言わなかった。しばらく、二人を交互に見ていた。
「ロブ。今年の秋、麦は」
「……足りる。うちは、蔵がある」
「そう。あんたは」メイは父親に向き直った。「蔵は」
「……ありません」
「じゃあ、あんたが今日ここで水を譲ったら、冬に死ぬ」メイは言った。「ロブ、あんたは死なない。腹が立つけど、死なない。今年だけよ」
ロブは長いこと黙っていた。それから、杖を持ち直して、田のほうへ歩いていった。
殴り合いには、ならなかった。
◇
その日の夕方、俺は下の三枚を見に行った。
乾いている。割れてはいないが、土の色が薄い。しゃがんで指で掘ると、二寸下でようやく湿った。
俺にできるのは、こっちだ。
鏡池の余りを、夜のあいだだけ下の三枚へ落とす。昼は運河が要る。夜なら、誰の分も減らさずに回せる。シエラに言うと、板を二枚足せばできます、と即答が返ってきた。
ロブの腹は、それでは収まらない。だが、田は濡れる。
◇
その日の午後、王国の使者が来た。
条約の話ではなかった。
「民を、返していただきたい」使者は言った。「アルデリア国民が、およそ四千人。この都市に留まっております。南部の田は水を得ました。だが、耕す者がおりません」
「返す、とは」俺は言った。
「引き渡していただければ、王国が受け入れます」
「引き渡す」
俺はその言葉をもう一度言った。
「水なら、水門を開けて流します。量も計れる。分けられる」俺は言った。「人は、水のようには配れない。俺は、あの四千人がどこにいたいかを知らない」
「では、どうしろと」
「本人に聞いてください」俺は言った。「俺が返すのでも、あなたが連れて帰るのでもない。帰りたい者が帰る。それだけです」
「四千のうち、どれだけが帰りますか」
「分かりません」
「……見当も、つきませんか」
「つきません」俺は言った。「見当がつくなら、それは自由に選ばせていない」
メイが、門の脇に台を据えた。
三年前、難民を一人ずつ振り分けたのと同じ台だった。名簿も同じものだ。ただし今度は、名前の横に二つの欄を作った。
残る。帰る。
「説得はしないの」俺は聞いた。
「しない」メイは羽根ペンを削りながら言った。「あたしが『残れ』って言ったら、残るやつが出る。あたしが『帰れ』って言っても、同じ。どっちも、その人が決めたことにならない」
「王国は、数を欲しがっている」
「知ったことじゃないわよ」
メイは筆先を吹いて、屑を払った。
「あたしの村は、王都に見捨てられた。あの人たちの村も、同じよ。見捨てた側が、いまさら数で呼び戻すの」メイは言った。「呼び戻していいのは、その人自身の足だけ」
◇
列は、七日続いた。
三日目に、一人の女がメイに聞いた。「あんたなら、どうする」
「あたしは、ここで生まれた」メイは答えた。「だから、答えられない」
女は長いこと台の前に立っていた。それから、残る、の欄を指した。
五日目、老人が一人で来て、帰る、を選んだ。向こうに墓がある、とだけ言った。孫が後ろで泣いていた。その孫は、残るを選んだ。
残るを選んだ者。帰るを選んだ者。同じ家の中で割れた家もあった。老いた親が帰り、子が残った家もあった。逆の家もあった。メイは、そのどれにも意見を言わなかった。ただ、名前を書き取り、二つのうち一つに印をつけた。
東の段々の一家は、帰るを選んだ。
父親が最後に俺のところへ来て、頭を下げた。
「田を、返します。あそこは、よく実りました」
「持っていけるものは、持っていってください」俺は言った。「種と道具と、覚えたやり方は、あんたのものだ」
「……焼き割りの石の積み方は、覚えました」
「なら、向こうで積めます」
◇
七日目の夜、メイが名簿を卓に置いた。
帰る、二千三百四十一。残る、千六百八十二。
「思ったより、残ったな」俺は言った。
「思ったより、帰ったわよ」メイは椅子の背にもたれた。「あたしはね、もっと残ると思ってた。ここのほうが、水があって、飯があって、身分がないもの」
「それでも帰る理由が、あった」
「あるのよ」メイは言った。「あの人たち、あそこで生まれたんだから」
◇
出立は、十日後だった。
二千三百四十一人が、北へ向かって歩いていった。三年前、同じ道を、痩せて、子供を背負って、逆向きに歩いてきた人たちだ。
今度は、荷を背負っていた。種と、鍬と、干した麦。メイが数えて、一人分ずつ配った。重い荷だった。
列の最後が丘を越えるまで、半日かかった。
門のところに、残った者たちが立って見送っていた。手を振る者もいれば、振らない者もいた。誰も、引き止めはしなかった。
俺は名簿を見ていた。
水なら計れる。三丈の幅、一丈の深さ、三割の減少。数字にすれば、迷いようがない。
俺は、土しか読めない。
「メイ」
「なに」
「よくやった」
メイは、しばらく俺を見ていた。それから、名簿で俺の頭を軽く叩いた。
「三年経って、やっと言ったわね」




