第29話「五十年前、王国は自分の川を殺していた」
街道の泥が乾いた頃、俺は集会場に人を集めた。
メイ、ドルグ、シエラ、ヨナス。それから、ヤゴ爺さん。杖をついて、いちばん前に座った。
卓の上に大きな地図を広げた。三年かけて描いたこの一帯の水と土の図に、今朝、北へ向かって一本の線を足してある。
「オルダ川を、返します」
俺は言った。
◇
「返す、って」メイが眉を寄せた。「あの川は枯れたんでしょう。雨が降らないんだから、どうしようもないじゃない」
「雨のせいじゃない」
俺は地図の北の端を指した。王国南部の穀倉地帯。白い塩を吹いた田。二年前まで王国一の麦が実っていた土地だ。
「オルダ川には、二つの水源があった。ひとつは雨。もうひとつは、山系の伏流水が北の谷で湧いていた泉だ。川の背骨は、その泉のほうだった。雨は、上に乗っていただけだ」
「その泉が、枯れたってこと」
「枯れていない」俺は指を南へ滑らせた。地図の上を、線がオルテガまで下りてくる。「場所が変わった。北の谷で湧いていた水は、いま、ここへ流れ込んでいる」
卓の上に沈黙が落ちた。
「……ここへ?」シエラが顔を上げた。「うちの、運河に?」
「そうだ」
◇
「五十年前」俺はヤゴ爺さんを見た。「あんたが言ったな。腕利きの魔導士が大魔法で毒沼を焼こうとして、地面が荒れて、沼が倍に広がったと」
ヤゴの手が、杖の頭を強く握った。
「あのとき、地盤が傾いた。井戸の水脈が西へ半丈、下へ二尺動いた。あんたの村の井戸が枯れた理由だ」俺は言った。「動いたのは、村の井戸だけじゃない。この一帯の地の下を通る大きな流れの、行き先が変わった。北の谷へ抜けていた水が、こっちの盆地へ落ちるようになった」
「……盆地には、出口がない」ドルグが低く言った。
「ない。だからたまった。たまって、澄まないまま五十年」俺は言った。「毒の沼になった。あんたたちが三代かけて手を焼いた沼は、王国から逸れた川の水そのものだ」
誰も口を開かなかった。
「なぜ、川が死んだのが二年前なのか」俺は続けた。「泉を失っても、川は雨だけで五十年生きられた。細くはなったが、流れてはいた。誰も気づかなかった。二年、雨が降らなくて、初めて底が見えた。骨がとうに折れていたことに、今ごろ気づいたんだ」
◇
ヤゴ爺さんは、長いこと何も言わなかった。それから、しゃがれた声で言った。
「……儂らは、五十年、あの沼を呪って生きた」
「はい」
「あの沼は、王国が自分で自分の川を、こっちへ落とした跡だったのか」
「そうです」
老人は、それきり黙った。
「三年前、俺が書いた報告書は、これでした」俺は地図を指で叩いた。「オルダ川は枯れるのではない。すでに水は動いている。行き先が変わっただけだ、と。だから、返せる。……あの紙は、書庫で腐りました」
ヨナスが、初めて口を開いた。
「腐らせたのは、わしらだ」老人は言った。「あの紙を読める人間は、王都に何人もいた。誰も、読まなかった」
「一人、読みました」俺は言った。「だから、俺はここにいます」
◇
「返す方法は」ドルグが聞いた。
「北の尾根を、切る」俺は言った。「傾いたのは半丈だ。尾根の鞍部を三丈幅で、深さ一丈掘れば、鞍部のほうが低くなる。水は、低い所へ流れたがる。それだけだ」俺は言った。「土を動かす必要はない。道を作るだけでいい」
「うちの水は」シエラが聞いた。声が硬かった。
「減る」
俺は正直に言った。
「どれくらい」
「三割」
メイが立ち上がった。
「三割も?」
◇
「三割って、どこの田を乾かすの」メイが卓を叩いた。「東の段々は、去年やっと実ったばかりよ。あそこに入ってるの、去年来た難民でしょう。王国から逃げてきて、やっと自分の田を持った人たちよ。その田を乾かして、逃げてきた元の国に水を返すっていうの」
「東の段々は乾きません」シエラが小さく言った。「高い所の三枚は、湧き口が別です。減るのは、下の三枚と、北に新しく開いた区画です。北はまだ、作付けしていません」
「じゃあ、下の三枚は」
「……乾きます」
メイが俺を見た。俺は、その三枚が誰の田かを知っている。二年前に足を悪くした男と、その男の兄と、去年ここで子供が生まれた家だ。
「聞け」俺は言った。「三割減っても、オルテガは死なない。三年前とは違う。沈殿池がある。運河がある。田は乾いた土の上にある。……三割は、痛い。だが、痛いだけだ」
「痛いだけって、あんた」
「あの水は、もともとここのものじゃない」
メイが黙った。
「五十年、預かっていただけだ」俺は言った。「返す。それだけだ」
「下の三枚は」
「北の区画を先に開く。今年の分は、俺の取り分から回す」俺は言った。「乾かしっぱなしにはしない。そこは、勘定してある」
「……返したら」シエラが小さく言った。「うちの水門の値打ちが、下がります。条約の第四条。水門を閉じれば水は止まる。あれが、この都市の一番の武器なのに」
「そうだ」俺は言った。「返せば、五年後には、王国は自分の川で立てる。俺たちの鍵は、要らなくなる」
俺は、そのつもりで条約を五年で切った。
「喉に手をかけたまま隣り合うのは、俺たちのほうが先に疲れる」俺は言った。「握った鍵は、いつか使いたくなる。使わずに済むように、鍵のほうを要らなくする。それが、いちばん長く保つ」
◇
工事は、翌週から始まった。
鞍部に間縄を張り、杭を打ちに行った日、尾根の向こうから人の列が来た。
鎧はなかった。剣も提げていなかった。全員が、使い込まれた鍬か鋤を担いでいた。
先頭に、ガイスがいた。
「順番の問題だと、あんたは言ったな」ガイスは言った。「剣が時を稼ぎ、その間に土を直す、と。……時は、稼いだ。次は、土だ」
「兵に、土は掘らせられませんよ」
「兵ではない」ガイスは背後を顎で示した。「志願だ。全員、南の穀倉の生まれだ。実家の田が、白くなっている」
俺はそれ以上何も言わなかった。
ドルグが黙って鍬を一丁、ガイスに投げた。ガイスは片手で受けた。
◇
十九日、掘り続けた。
オルテガの男たちと、王国の兵だった男たちが、同じ鞍部で土を担いだ。最初の三日は、どちらの列も口をきかなかった。四日目に、王国の若いのが足を滑らせて土砂に埋まりかけ、ドルグが襟をつかんで引き上げた。五日目から、水桶が両方の列を回るようになった。
メイは毎日、鍋を担いで登ってきた。文句を言いながら、王国の男たちにも同じだけ盛った。
尾根が抜けたのは、十九日目の昼だった。
最後のひと振りは、ヤゴ爺さんが打った。誰も、その役を奪おうとはしなかった。
杖を捨てて、震える腕で鍬を振り下ろす。土の薄い壁が崩れ、下から水がにじみ出した。細い。指ほどの流れだった。
その細い水が、迷うように鞍部の上でとどまり、それから、北へ傾いた。
俺はそれを見ていた。
三年前、俺は同じことを紙に書いた。
紙の上の線が、土の上で水になるまでに、三年かかった。
三年で済んだ、と思うことにした。
◇
――幕間。アルデリア王国、南部穀倉地帯。
枯れた川床に、その日、水が来た。
濁った、細く頼りない流れだった。ひび割れた泥の道を、探るように舐めながら下ってくる。
白い畑に膝をついていた老農夫が、顔を上げた。
彼は立ち上がり、川床へ降り、その細い流れに両手を浸した。それから、その手を自分の顔に押し当てた。長いこと、そうしていた。
空は、あいかわらず青く乾いていた。




