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『追放された宮廷測地士、最果ての毒沼に運河都市を築く ~ゴミスキル《地脈視》は、土を読み、水を導き、国を造る~』  作者: 夕凪 鏡介


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第28話「剣は、土には効かない」



 夜明け前に、ドルグが俺を叩き起こした。


「来た」


 それだけだった。


 丘に登ると、東の街道に灯が点々と続いていた。松明だ。数えるまでもない。百は超えている。


「攻撃魔法兵団だ」ドルグが低く言った。「先頭の旗、見えるか。あれは兵団長の旗だ」


 ガイス。王都にいた頃、廊下ですれ違ったことがある。攻撃魔法兵団を率いる男だ。話したことは、一度もない。


 水は断たれていない。条約は結ばれ、水は流れている。それなのに、剣が来た。


   ◇


「シエラ」俺は言った。「第三と第七を開けろ。全開だ」


 シエラが息を呑んだ。「あの二つは、旧沼床への逃がしです。開ければ、街道が」


「沈む」俺は言った。「三年前に戻るだけだ。深さはどれくらいになる」


「……この時季の水位なら、膝の上まで。それ以上は越流堤が逃がします」


「人は死ぬか」


「死にません」シエラは即答した。「歩けなくなるだけです」


「なら、開けろ」


 シエラが駆けていった。ドルグが俺の隣で腕を組んだ。


「石で塞がなくていいのか」


「塞げば、あいつらは迂回する。山を回って、村に出る」俺は言った。「通すんだ。通した先で、止める」


 ドルグは低地を見下ろしていた。それから、自分の手を開いて、また閉じた。


「水門に行く」ドルグは言った。「越流堤の縁を見ている。水位が計算より上がったら、第七を落とす」


「シエラがいる」


「二人で見る」ドルグは俺を見なかった。「深さが膝を越えたら、鎧を着た人間は自力で立てない。俺は、それを見たことがある。……この水門の下では、誰も死なせないと言った」


 俺は、その背中に何も言わなかった。


 ドルグは、水門へ走っていった。


   ◇


 メイには、民を高台の集会場へ上げるように言った。戦うためではない。巻き込まれないためだ。


「あんたは」メイが聞いた。「どこにいるの」


「街道だ」


「馬鹿じゃないの」


「俺が出なければ、あの男は水門まで来る」俺は言った。「足場の硬い水門の前で人と人がぶつかれば、誰かが死ぬ。街道の泥の上なら、誰も死なない。それだけの違いだ」


 メイは何か言いかけて、やめた。それから、俺の胸を一度、拳で軽く叩いた。


「死んだら、あんたの引いた線、全部引き直すからね」


   ◇


 水が動く音がした。


 地の底を、大きなものが這うような音だった。第三の水門が開き、三年前まで沼だった低地へ、水が戻っていく。


 街道は、その低地を突っ切って通してある。俺が引いた線だ。乾いた土の上を最短で結ぶ線。だが、その土の下に何があるかを知っているのは、それを引いた者だけだった。


 東の空が白み始めた頃、先頭の騎影が低地に入った。


 馬の脚が、沈んだ。


   ◇


 混乱は、あっという間だった。


 重い鎧が、兵を泥へ沈めていく。馬は脚を抜こうとして、余計に深く沈む。後続が止まらずに突っ込み、隊列が団子になった。悲鳴は上がらない。訓練された兵たちなのだろう。だが、動けない。


 攻撃魔法が二つ、三つ、泥に向かって放たれた。水が跳ね、湯気が上がった。泥が一瞬すり鉢状に乾き、周りからすぐに水が流れ込んで、その穴を塞いだ。それだけだった。焼いた泥は、また泥に戻る。


 若い声が、泥の中から上がった。


「兵団長。都市を焼きましょう。ここからでも、家屋には届きます」


「届いてどうする」


 別の声が答えた。低く、疲れた声だった。


「焼いた土から、水は出ん」


 俺は、街道の縁を歩いた。


 沈まない場所を歩いた。どこが硬いかは、三年前に自分で測ってある。三年前、俺は膝をついてこの土を掘り、指で握って、崩れ方を見た。あのとき数えた歩数を、いま、そのまま歩いている。


 泥の中の百の目が、こちらを向いた。武器はある。俺にはない。それでも、この百人は俺に届かない。届く場所に、立っていないからだ。


   ◇


 ガイスは、馬を捨てて泥の中に立っていた。


 腰まで浸かりながら、一人だけ、抜いた剣を下ろしていなかった。松明の火が、その男の頬の古い傷を照らした。


「測地士か」ガイスが言った。


「レヴィンです」


「卑劣とは言わん」ガイスは剣を握ったままだった。「戦とはそういうものだ。だが、聞かせろ。俺は、いつ、あんたに負けた」


「三年前です」俺は言った。「あなたが北の防塁を築いた年に、俺はこの低地を測っていた」


   ◇


「条約は結ばれました」俺は言った。「宰相が署名した。水は流れています。なぜ、来たのですか」


 ガイスは、しばらく黙っていた。


「俺は、王の前で誓った」ガイスは言った。「交渉が決裂し、水を断たれたときは剣で獲る、と。……水は、流れているな」


「流れています」


「分かっている」ガイスの声は落ち着いていた。「俺は、自分で引いた一線を、自分で越えた。それでも来た。決裂してからでは遅いからだ。あんたは水門の鍵を握った。この国の喉に、他国の手がかかっている。それを許して眠れる兵はいない」


「では、鍵を奪ったとして」俺は言った。「誰が水を回します」


 ガイスが黙った。


「十二の水門は、季節と土で開け閉めの度合いが変わる。それを読めるのは、この都市に四人だけだ。剣で奪って、その四人を殺せば、水は止まる。生かして働かせるなら、それは占領ではなく、いまと同じ取引だ」俺は言った。「どちらにしても、あなたの剣が要らない」


「……ならば、俺は何をすればいい」


 ガイスの声が、初めて揺れた。


「俺は兵だ。剣で国を守ってきた。その剣が要らないと言われて、手ぶらで帰れば、兵は知る。自分たちが守ってきたものは、剣では守れなかったのだと」


「守れましたよ」俺は言った。「宰相から、この二年の戦況を聞きました。あなたたちが国境を繋いだ二年がなければ、この条約を結ぶ相手の国は、もう地図にない。俺が水を流す先が、消えていた」


 ガイスが、こちらを見た。


「順番の問題です」俺は言った。「剣が時を稼ぎ、その時のあいだに土を直す。どちらが欠けても国は保たない。あなたは、自分の役目を果たした。俺は、三年遅れて自分の役目に戻っただけだ」


「……」


 俺は、泥に埋まった鎧の列を見た。ひとつも、こちらへ進めていない。


「剣は、人には効きます」俺は言った。「だが、土には効かない」


   ◇


 東の空が、赤くなり始めていた。


「北の防塁で、三百人を失ったと聞きました」俺は言った。


「三百十二人だ」ガイスは即座に言った。「一人ずつ、名を言える」


「三年前、俺はあの一帯を測っています。あの尾根の下は泥炭だ。水を含むと沈む。あの規模の石積みは、あの地盤では保たない。そう書いて、宮廷測地寮に上げました」


 泥の中で、誰かが動くのをやめた。


「その報告書は、届きましたか」


 ガイスは、答えなかった。


 俺も、それ以上は言わなかった。届いていないことは、俺が知っている。あの紙は書庫で腐り、俺の席は消えた。それだけの話だ。


 だが、この男の三百人と、俺の隣で石を積む男の十七人は、同じ死に方をしていた。上が土の都合を聞かなかった。それだけで、人は死ぬ。剣の数とは、関係がない。


   ◇


 ガイスは、長いこと泥の中に立っていた。


 それから、剣を鞘に収めた。


「兵を引く」ガイスは言った。「引くための道はあるか」


「北へ二百歩。そこだけ、地盤が硬い」俺は指した。「馬は捨ててください。命は捨てなくていい」


 ガイスは、うなずかなかった。うなずく代わりに、泥を掻き分けて部下のほうへ戻っていった。腰まで浸かった男が、腰まで浸かった男たちを、一人ずつ引き起こしていた。


 その背中を、俺は見ていた。


 三百十二人の名を言える男の背中だった。俺は、その名を一つも知らない。知らないまま、その名を減らす仕事を、三年前にしていた。


   ◇


 日が昇りきる頃、水門から水が引き始めた。


 低地に残ったのは泥と、置き去りにされた鎧と、深く掘れた馬の足跡だけだった。街道は使えない。数日は乾かない。それだけの被害だった。


 ドルグが土手を下りてきた。全身、腰まで泥だった。


「一人、頭まで沈みかけた」ドルグは言った。「引き上げた。息はあった」


「あんたが行ったのか」


「シエラが板を落として、水を止めた。俺が引いた」ドルグは泥を払わなかった。払っても落ちる泥ではない。「あの若いの、俺に何か言おうとして、やめた。何を言おうとしたのかは、知らん」


 ドルグは、それきり黙って水門のほうへ戻っていった。


 誰も死ななかった。


 水は、まだ流れている。


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