第27話「石を積む男が、二度と逃げないと決めた夜」
使節団が王都へ発って、三日が過ぎた。
条約は結ばれた。水は流れ始めた。だが、俺の胸のどこかが、まだ落ち着かない。約束を紙にした。紙は、破られることがある。三年前、俺の席が破られたように。
表向きは、すべてが収まった。水は流れ、飢えは止まりつつある。だが、収まりすぎていた。あまりに静かな水面は、底で何かが動いている合図だ。長く土を見てきた者の、勘のようなものだった。
その夜、俺は水門を見回っていた。
◇
第一の水門で、シエラが板の角度を直していた。落ちこぼれと呼ばれた水術士だ。いまは、この十二の水門を、たった一人で管理している。
「夜まで、ご苦労だな」俺は声をかけた。
「昼は、水が忙しいから」シエラは板から手を離さない。「夜のほうが、水がよく見える。昼は人が水を使うでしょう。夜は、水が、水のしたいように流れる。そのときの流れを見ておくと、昼の直しが楽なんです」
水を、水のしたいように。俺は、その言葉を頭の隅に留めた。
シエラは水の声を聞く。ドルグは石の声を聞く。俺は土の声を聞く。この都市は、そういう連中の耳でできていた。
◇
第三の水門の脇で、ドルグが一人、石を積み直していた。
昼のうちに、俺が「ここの目地が、わずかに緩んでいる」と言った。それだけのことだ。だが、ドルグは夜になっても、たった一つの目地のために石を外して積み直していた。
「明日でいい」俺は言った。「そんなに急ぐことじゃない」
「急いでるんじゃない」ドルグは手を止めない。「緩んだ目地を、緩んだまま夜を越させたくないだけだ」
岩みたいな背中だった。月の光が、その肩の古い傷跡を照らしていた。工兵の背だ。何十年も重い石を担いできた背だった。
俺はその隣に腰を下ろした。
◇
「あんた、帝国で工兵だったと言ったな」俺は言った。
「言った」
「なぜ、流れ者になった。工兵なら、帝国でも食えたはずだ」
ドルグの手が、一瞬だけ止まった。それから、また動いた。
「壁を、積んだことがある」低い声だった。「国境の砦だ。上から、明日までに間に合わせろと言われた。だが、石が足りなかった。俺は言った。この石の数では、土圧に耐えきれない。この高さの壁は保たない。あと三日、石を運ばせてくれ、と」
「通らなかった、と前に言っていたな」
「通らなかった」ドルグは手の中の石を見ていた。「明日、敵が来る。それまでに壁がなければ、どのみち全員死ぬ。ならば積め、と。指揮官はそう言った。間違ってはいない。壁がなければ、その日のうちに死ぬ。……俺は、積んだ」
水門の水が、静かに落ちていた。
「壁は、一晩は保った。敵が来たとき、まだ立っていた。矢を防いだ。梯子を弾いた。指揮官の言うとおり、あの壁がその日、何十人もの命を守った」ドルグの声は平らだった。平らすぎた。「だが、二日目の朝。敵が退いて、誰も壁を押していないのに、壁のほうが先に崩れた。俺の計算の、ちょうど二日目だった」
俺は何も言わなかった。
「下に、十七人いた。夜番明けで、壁の陰で眠っていた。俺が積んだ石の下に」ドルグは石を握った。「あの壁は、間違っていなかった。敵から、何十人も守った。それでも、十七人を、殺した。正しさと間違いが、同じ壁の中に、一緒くたに積まれていた」
◇
「俺は、逃げた」ドルグは続けた。「責を問われる前に、砦を出た。北へ北へと歩いた。どれだけ歩いたか、自分でも覚えていない。仕事は選ばなかった。溝を掘り、井戸を浚い、崩れた石垣を直した。だが、どこへ行っても、上のいる場所には無理があった。安く、速く、多く。土の都合を聞く者は、一人もいない。俺が『保たない』と言っても、通らない。そのたびに、俺は逃げた。逃げて、逃げて、流れ着いたのが、この沼だ」
「この沼で」俺は言った。「あんたは、逃げなかった」
「あんたが、逃げなくていい図面を引いたからだ」ドルグはようやく顔を上げた。「あんたの図面は、土に嘘をつかせてない。足りない石で高い壁を積め、とは書いてない。三段の沈殿池も越流堤の高さも、全部、土が保つ数字だった。俺は、初めて、自分の計算どおりに石を積めた。誰も、無理を通さなかった」
ドルグは積み直した目地を、掌でそっと押した。びくともしない。
「この水門は、保つ」ドルグは言った。「百年でも保つ。俺が、そう積んだからだ。この土地では、一度も、無理を通させなかった。だから、崩れない。崩れれば、それは俺のせいだ。誰かに積まされたのじゃない。俺が、俺の計算で積んだ」
◇
「ドルグ」俺は言った。「近いうちに、この水門を、剣で奪いに来る連中がいるかもしれない」
ドルグの目が、ゆっくりと俺を見た。
「条約を結んでも、それを面白く思わない者がいる。頭を下げるくらいなら力で奪えと考える者だ」俺は言った。「そのとき、この水門が要になる。あんたの積んだ石が、戦の的になる」
「だろうな」ドルグは意外そうでもなかった。「戦場の匂いは、忘れない。使節団の中に、一人まじっていた。荷運びの格好をしていたが、あれは兵だ。歩き方が違う。水門の数を、目で数えていた」
俺は、その言葉に、背筋が冷えた。ドルグは、俺が地図で読むものを、別のやり方で読んでいた。土は土の言葉で。水は水の言葉で。戦は、戦の言葉で。
「奪わせない」ドルグはまた石に向き直った。「俺は、もう逃げない。この石は、俺が積んだ。俺が積んだものを、無理に崩させはしない。上からでも、剣ででも。……あの十七人には、もう詫びられない。だが、この水門の下では、誰も死なせない。それが、俺の詫びだ」
俺は、うなずいた。
詫びは、言葉ではできないのだと思う。この男は、崩れない石を積むことで詫びているのだろう。俺も、たぶん同じだ。三年前、握り潰された一枚の報告書。あの紙が救えなかった民のことを、俺はいまも、この土地の上に線で引き続けている。詫びを、地図に変えて。
◇
俺は水門を離れた。
振り返ると、ドルグはまだ、月明かりの下で石を積んでいた。たった一つの目地のために。
この都市に、なぜ人が留まるのか。俺は、水と暮らしのためだと思っていた。腹が満ちるから。水が飲めるから。それも、間違いではない。
だが、ドルグは、水のためにここにいるのではなかった。「保たない」と言ったら、それが通る。無理を、無理だと言える。正しい石の積み方が、正しいまま通る。それだけの理由で、逃げ続けた男が、ここで足を止めた。
身分ではなく、働きで食わせる。俺は、そう決めてこの都市を造った。だが、本当に人を留めていたのは、それだけではなかった。ここでは、土が正直だから、人も正直でいられる。嘘をつかない地面の上でだけ、人は、逃げるのをやめられる。
俺は、丘を登った。
丘の下では、都市が眠っていた。運河の水音。灯の消えた家々。その一つ一つに、逃げるのをやめた者たちが眠っている。ドルグだけではない。メイも、シエラも、王都に見捨てられた難民たちも、みな、どこかから逃げてきて、ここで足を止めた。ここが、その足を止めるに足る土地だったからだ。
その眠りを、剣で叩き起こさせるわけにはいかなかった。
東の空を見た。まだ、何も見えない。だが、来る。ドルグが匂いを嗅ぎ取ったものは、必ず来る。
水門は、俺の手にある。ドルグの積んだ石は、百年保つ。あとは、その石に、剣を届かせないことだ。土は嘘をつかない。ならば、その土が守るものを、俺も守らなければならなかった。




