第31話「私を捨てた国が、爵位で呼び戻しに来た」
第31話「私を捨てた国が、爵位で呼び戻しに来た」
刈り入れが終わった頃、また使者が来た。
前に来たときと同じ、王の紋章を押した親書だった。三年前、俺の解雇通告に押されたのと同じ紋章だ。もう、驚かない。
だが、中身には驚いた。
「宮廷測地寮を、再建します」
使者は言った。
「五十年前の大魔法。北の防塁。オルダ川。……いずれも、土を測らずに決めた結果でした。王は、それを認められた」
「認めたところで、土は戻りません」
「戻さねばなりません。そのために、寮を作り直します。測地士を育て、全土を測り直し、造る前に土に聞く。……そのすべてを束ねる長官の座を、あなたに」
使者は、二枚目を広げた。
「あわせて、男爵位を。世襲です」
「オルテガは独立自治都市です」俺は言った。「条約の第三条で、王国が認めた」
「損ないません」使者は即答した。「条約はそのまま。あなたは王国の臣ではなく、客将として長官位に就く形になります。そこは、宰相閣下が三日かけて条文を練られました」
逃げ道は、塞がれていた。
◇
卓の上に、紙が二枚並んでいた。
三年前、俺の席を消したのと同じ紋章が、今日は俺に爵位を寄越すと書いている。
これは、勝ちだ。分かりやすい勝ちだ。
「返事は」使者が聞いた。
「一晩、ください」
◇
その夜、俺は自分の地図を広げた。
この一帯の水と土。三年かけて描いた。だが、これは王国のほんの端だ。北へ行けば測っていない土地が広がっている。西の丘陵には鉱山がある。あそこの坑道は、地下水の道を知らずに掘っている。東の湿地には町が二つ。堤の高さを、誰も土に聞かずに決めた。
寮を持てば、そこへ人を送れる。
ドルグの下敷きになった十七人。ガイスが名を言える三百十二人。あれは、どちらも土を測らずに石を積んだ結果だ。寮があれば、次の十七人と三百十二人を出さずに済む。
オルテガからでは、この盆地しか直せない。
王都からなら、国が直せる。
俺は、朝まで地図を見ていた。
ドルグが、夜のうちに水門から上がってきた。泥を落とさないまま、卓の前に立った。
「行け」
それだけ言った。
「あんたが寮を持てば、俺みたいなのが減る」ドルグは言った。「石が足りないと言って、通らなかった現場が、通るようになる。あの十七人みたいなのが、出なくなる」
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、じゃない。そうなるんだ」
ドルグは俺を見ていた。工兵の目だった。
「俺は、あんたに残ってほしい」ドルグは言った。「だが、そいつは俺の都合だ。都合で人を止めたら、上と同じになる」
そう言って、ドルグは出ていった。
◇
夜明け前に、メイが来た。手に湯気の立つ椀を持っていた。
「寝てないでしょ」
「ああ」
メイは椀を置いて、卓の向かいに座った。それきり、何も言わなかった。
「引き止めないのか」俺は聞いた。
「言ったでしょ」メイは言った。「呼び戻していいのは、その人自身の足だけ。……あんたにも、同じよ」
俺は、自分の言葉が返ってくるのを聞いた気がした。あれはメイの言葉だったが、あの日、俺が最初に言ったことでもある。帰りたい者が帰る。それだけだ。
「あたしがどう思うかは、聞かないで」メイは言った。「聞かれたら、答えちゃうから」
◇
朝、水門へ寄った。シエラが板の角度を直していた。
「行くんですか」
「行かない」
「そうですか」シエラは手を止めなかった。「わたし、あなたが行っても回せます。十二門とも、もう覚えましたから」
「知ってる」
「だから、残るなら、それは残りたいからですよね」
シエラはそれだけ言って、また板に向き直った。
俺は使者の前に立った。
「お受けできません」
使者の顔が動いた。
「……理由を、伺っても」
「三年前、俺は報告書を書きました」俺は言った。「オルダ川の水は動いている、と。あれは、正しかった。今年、そのとおりに川は戻った」
「はい」
「正しい紙でした。だが、読まれなかった」俺は言った。「俺は、書き方を間違えたんじゃない。読ませ方を知らなかった」
「長官になれば、同じことが起きます」俺は続けた。
「同じ、とは」
「俺は、土を読めます。人は読めません」俺は言った。「この夏も、うちの男の一人を怒らせて、何も言えずに黙りました。土の理屈は通ったが、腹の虫は収まらなかった。あれを収めたのは、俺じゃない」
使者は、何も言わなかった。
「寮の長官の仕事の九割は、土じゃなくて人です。貴族に予算を通させ、渋る役所に印を押させ、現場に必要な数の石を運ばせる。……俺がやれば、正しい地図を書いて、また書庫で腐らせます。今度は一枚じゃない。何百枚もだ」
「失礼ながら」使者が言った。「人を読めぬというなら、読める者を副官に付ければよろしい。長官は、正しい判断さえ下されば」
「副官が読んだものを、俺が信じられません」俺は言った。「土なら、掘れば確かめられる。人は、掘れない。確かめられないものを信じて印を押す仕事に、俺は向いていない」
使者は、口を開きかけて、閉じた。
「……では、寮は」
「作ってください。長官を、間違えないでください」
「ヨナス・レーンを」
俺は言った。
「三年前、俺の報告書を書庫から盗み出して、王都の広場で読ませた男です。あの一枚が読まれたから、いま、川が戻っている」
使者が息を呑んだ。
「あの人は、四十年、宮廷にいました。どの役所の誰に、どう話せば紙が動くかを知っている。俺の地図は、あの人の手を通ったときだけ、人に届いた」
「……しかし、ご高齢では」
「本人に聞いてください」
ヨナスは、俺の話を最後まで黙って聞いていた。
それから、笑った。声を立てずに、肩だけで笑った。
「わしを、王都へ売り飛ばすか」
「嫌なら断ってください」
「断らんよ」老人は言った。「わしは、あと何年もない。だからこそ、腐らせずに済む。読ませるだけなら、老いぼれでもできる」
「無理はしないでください」
「無理は、するさ」ヨナスは杖を突いた。「三年前、わしはお前の紙を一枚しか救えなかった。今度は、これから書かれる紙を全部だ。……割のいい仕事だ」
◇
出立の朝、俺は木箱をひとつ渡した。
三年ぶんの地図の写しだ。この一帯の水脈、地盤、勾配。夜なべして写した。
「これは、俺のものじゃありません」俺は言った。「土のものです。誰が使ってもいい」
ヨナスは箱の蓋を開け、いちばん上の一枚を見た。
三年前、書庫で腐りかけていた報告書の、書き直しだった。
「線が、太くなったな」老人は言った。
「土の上を歩いてから引くと、こうなります」
ヨナスは箱を閉じ、抱えるようにして馬車に乗った。
馬車を見送ったあと、俺はドルグが石を積んでいる場所へ行った。
「王都には、ヨナスが行く」
「聞いた」
ドルグは手を止めなかった。
「あんたの十七人の話を、使者にした」俺は言った。「寮は作らせる。長官はヨナスだ。あの人なら、石が足りないという現場の声を、上まで通せる」
ドルグはしばらく黙っていた。それから、積んだ石を掌で押した。びくともしなかった。
「それでいい」ドルグは言った。「俺が言ったのは、行け、じゃない。減らせ、だ」
◇
馬車が丘を越えるまで、俺はそこに立っていた。
王都には、戻らない。爵位も要らない。俺の名前は、どの家系図にも載らないだろう。
振り返ると、運河が朝の光で白くなっていた。水門が十二。田が段になって降りている。
俺が測れるのは、この土だけだ。
それで、足りる。




