第24話「私を捨てた都市の門に、王の使者が立つ」
――幕間。オルテガへ至る街道。
初老の御者は、この道を三十年走ってきた。
王都から北へ、痩せた街道をひたすら揺られていく。荷馬車の列は長い。宰相ガレオン・ロウを筆頭に、書記官、護衛、荷運び。総勢で数十人。旗が乾いた風にはためいていた。
御者は、三年前のことを思い出していた。
同じこの道を、一人の男を乗せて走った。地面ばかり眺めている、無口な男だった。王宮を追われて、こんな最果てへ流されていく。荷は測量の道具だけ。御者はその男を、死にに行くのだと思っていた。毒沼オルテガ。誰も戻ってこない土地だ。
あのとき、御者は舌打ちして愚痴をこぼした。この沼さえなければ、隣領へも海側の国境へも、半分の日数で抜けられるのに、と。男は何も言わなかった。ただ、御者の言葉に、少しだけ目を上げた。それだけだった。
どこにでもいる、うらぶれた小役人の一人。御者はそう思って、男のことを、その日のうちに忘れた。
◇
旅の十日目。御者は手綱を握る手を止めた。
「……道が」
三年前、毒沼を避けて山際を大きく回った旧道があった。硫黄の臭いに馬がおびえて進まなかった、あの道が――消えていた。
代わりに、まっすぐな新しい道が、平らな土の上を延びている。よく踏み固められ、雨でも泥濘まぬよう、わずかに中央が高い。道の脇には、水をたたえた掘割が走っていた。荷を積んだ小舟が、その水の上を、馬車と同じ速さで滑っていく。
「旦那」御者は後ろの書記官に声をかけた。「この道は、三年前にはなかった。山を回らずに、まっすぐ来られる」
書記官が地図を広げた。だが、その地図に、この道は載っていない。載っているのは、死の湿地を示す、灰色の染みだけだ。
御者は掘割の水を見た。底の小石まで透けて見えるほど、澄んでいた。水路の底には、灰色の泥をせき止める石の段差が幾重にも組まれ、上澄みだけが静かに流れていく。毒の臭いは、どこにもない。三十年この街道を走って、こんな水をこの一帯で見たことは一度もなかった。
◇
丘を越えたとき、一行の誰もが言葉を失った。
眼下に、都市があった。
水路が、碁盤の目のように土地を分けている。その一本一本に、水が満ちていた。水路の両側には、黄金の穂が実った田が、地平の際まで続いている。刈り入れを待つ稲の匂いが、丘の上まで漂ってきた。
中央には、太い運河。海へと抜けるその流れの上を、帆をあげた交易船が、いくつも行き交っていた。荷を積んだ舟が上りへ、空の舟が下りへ。水の上に、人と荷の流れが、絶えることなく続いている。
運河の要には、石造りの水門が並んでいた。数えて、十二。どれも高さが、半寸と違わずに揃っている。一基が水を落とせば下の田がひたひたと潤い、また一基が板を上げれば舟が段を越えて上っていく。都市そのものが、水を手足のように使っていた。
日が傾きかけていた。都市に、ひとつまたひとつと灯りがともり始める。運河の水面が、その灯を映して細かく揺れた。
護衛の一人が、馬を止めたまま動けずにいた。剣で国を守ってきた男の目に、その剣で決して造れないものが映っていた。書記官は、手にした地図を取り落としそうになっていた。彼の地図は、この土地を灰色の染みとしか記していない。目の前の現実のほうが、王国の地図より、はるかに正しかった。
三年前、ここは死の沼だった。硫黄が湧き、ヘドロがよどみ、鳥の一羽も棲まなかった。誰もが、そう聞かされて育った土地だ。
それが、いま――王都に迫る、水の都になっていた。
列の先頭で、ガレオンだけが、馬を降りていた。
地に足をつけ、都市を見下ろす。帳簿の男だった。数字でしか世界を見ない男だった。その男の目が、数え切れないものを数えようとして途中で止まっていた。田の広さ。舟の数。水門の高さ。どれをとっても、彼が三年前に切り捨てた予算では、決して贖えないものだった。
「……これを」
誰かが、かすれた声で呟いた。
「これを、あの男が。地面を眺めるしか能のない、あの無能が」
誰も、その声を咎めなかった。
◇
御者は、馬を進めながら、三年前の愚痴を思い出していた。
この沼さえなければ、半分の日数で抜けられる。
いま、その言葉が、目の前で現実になっていた。運河を舟が行く。人が行く。荷が行く。かつて二つの土地を隔てていた死の沼は、いまや二つの土地をつなぐ、たった一つの通り道になっていた。
あの無口な男は、御者の愚痴に、目を上げた。ただそれだけだと思っていた。だが、あの男は聞いていたのだ。御者ですら忘れた、何気ない一言を。そして、三年かけて、それを土の上に描いてみせた。
御者の背に、寒気に似たものが走った。あの日、自分は死にに行く男を運んでいたのではなかった。
街道沿いの田で、人々が刈り入れの支度をしていた。身なりは、まちまちだった。日に焼けた農夫にまじって、明らかに手が荒れていない者もいる。かつて指も動かさずに暮らしていたであろう者が、いまは腰をかがめて泥にまみれていた。この都市では、誰もが働いていた。身分ではなく、働きで、飯を食っていた。
御者はその光景を横目に、馬を進めた。王都ではいま、身分のある者から先に飯を配り、飢えて死んでいるという。
◇
都市の門前に、一人の男が立っていた。
飾りのない、地味な身なりだった。手には、丸めた地図を一本。三年前と、何も変わっていない。ただ、その背後に、彼の造った都市が広がっているだけだった。
馬車の列が、門の前で止まった。
宰相ガレオン・ロウが、馬車を降りた。かつて、その男を切った当人だった。予算の帳簿の上で、一言のもとに、彼の席を消した男だ。
二人が、向かい合った。
ガレオンは口を開こうとした。だが、言葉が出てこなかった。目の前の男の背後には、彼の造った都市が、黙って広がっていた。
「……レヴィン・カルダ」ようやく、ガレオンが言った。
「聞いています」男は静かに答えた。「親書を、お持ちだそうですね」
男の声に、恨みはなかった。勝ち誇りもない。ただ、来客を迎える、それだけの声だった。
「読ませてもらいます」男は、都市の門を手で示した。「その前に、飯と水を。長旅でしょう」
ガレオンは、動けなかった。
三年前、彼はこの男に、王国の金は払えないと言った。地面を眺める男に払う金はない、と。その男が、いま王国が喉から手が出るほど欲しいものを――澄んだ水を、目の前で惜しげもなく差し出そうとしていた。
施しではなかった。ただ、渇いた者に水を出す。この都市では、それが、あたりまえのことだった。それがかえって、ガレオンの背を、重く打った。
門の内側から、澄んだ水路の音が静かに聞こえていた。
門の向こうには、石畳の通りがまっすぐ延びていた。両側に市が立ち、水を汲む音と荷を担ぐ掛け声が響く。子供が澄んだ水路に手を浸して笑っていた。三年前、ここには何も棲まなかった。いまは、笑い声があった。
都市の民が、使節団を迎える支度を始めていた。誰も慌てなかった。客が来れば水を出す。腹が減っていれば飯を出す。それが、この都市の作法だった。
水を運ぶ者の中に、かつて祖国を追われた難民たちがいた。いまは祖国の使者に、椀を運んでいる。恨みを言う者は一人もいなかった。ただ働きの分だけ、静かに手を動かしていた。
ガレオンは、その光景から目をそらせなかった。そして、無言で門をくぐった。




