第22話「恩人が、頭を下げに来た」
その朝も、オルテガの門には列ができていた。
飢えた国から歩いてきた者たちだ。多い日で八十人。少ない日でも三十人は来る。メイが門の脇に台を据えて、ひとりずつ振り分けていた。
「歩けるね。じゃあ堤の石運び。三日働けたら小屋を割り当てる」
「その子は?」
「熱があるなら先に医者だよ。働くのはそのあと」
メイの声は乾いていた。働けるか、働けないか。それだけを聞いて、人を土地に置いていく。この三年で、あの子はそういう声を手に入れた。
俺は帳面をつけながら、その横を通り過ぎようとした。
「レヴィン」メイが顔を上げずに言った。「爺さんがひとり、名乗らないんだけど」
「押し込みか」
「逆。三日前から来てる。毎朝いちばん後ろに並び直してる」
俺は列の最後尾へ歩いた。足が止まった。
ほこりで灰色になった外套。荷は背負い袋がひとつきり。膝の上で、痩せた手が丸まっていた。杭と鎖を三十年握り続けた者の、あの癖のままの手だった。
「……ヨナスさん」
老人が顔を上げた。
ヨナス・レーン。俺の上司であり、師だった男だ。攻撃魔法ばかりが数えられる宮廷で、地図と治水こそ国の背骨だと言い続けた。俺が切られた日、最後まで宰相に食い下がって敗れた人でもある。
三年で、十は老けて見えた。
「なぜ並んでるんですか」
「順番を抜かす理由がない」ヨナスは膝を押して立ち上がった。足が笑っていた。「わしも、歩いて来た口だ」
◇
俺はヨナスを日陰へ座らせて、木のひしゃくで水を汲んだ。
鏡池から引いた水だ。この都市で、いちばん最初に澄んだ水だった。
ヨナスはひしゃくを受け取ったが、飲まなかった。ただ水面を見ていた。老人の手の中で、光が細かく揺れていた。
「……澄んでおるな」
「毒層を抜いて、三段の池で沈めています」
「三段」
「一段では足りませんでした」
ヨナスはそこでようやく口をつけた。喉が二度鳴った。袖で口元を拭い、長く息を吐いた。
「王都には、これがない」
声に力がなかった。
「井戸の水は濁っておらん。透きとおって見える。だから、みな飲む」ヨナスはひしゃくを膝に置いた。「そして、死ぬ」
俺は黙っていた。
王都の地下がどうなっているかは、十五年あの街を測った俺には見当がつく。干ばつで水位が落ちれば、上から下への流れが崩れる。汚水と飲み水が、路地の下で混ざり合う。
「何人ですか」
「わしが出るとき、王都だけで千を越えた」ヨナスは言った。「地方は、数えておらん」
◇
息の整ったヨナスを、俺は都市の道へ連れ出した。
道の両側では、新しく来た者たちが石を運んでいた。堤の裏に控えの土手を積む工事だ。ドルグが石の据わりを見ては、短く指を差している。
その列の中ほどで、ヨナスの足が止まった。
痩せた男が、背を丸めて石を抱えていた。上等だった生地が、膝から下で裂けたままになっている。男は石を置くと、両手を腰に当てて息を整え、また列へ戻っていった。
「……あれは」ヨナスが声を落とした。「モルガン卿ではないか」
「先月来ました」
ヨナスの口が、半分開いたまま止まった。
宮廷で、俺の仕事をいちばんよく笑っていた男だ。地面ばかり眺めて何になる、と。
「働かせておるのか」
「石を運べば食えます。ここではそれだけです」
「……何も言わんのか、お前は」
「言う必要がない」俺は歩き出した。「腹が減れば、誰でも石は運びます。身分は、腹の足しにならない」
ヨナスはしばらく動かなかった。追いついてきて、低く言った。
「王都では、逆のことをしておる。身分のある者から先に配っておる」
「知っています」
「だから、余計に死ぬ」
老人は、それきり黙った。
◇
工事場のはずれの石に、俺たちは腰を下ろした。ヨナスは背負い袋を膝に乗せて、油紙の包みを取り出した。紐を解く指が、細かく震えていた。
中から出てきたのは、綴じた紙の束だった。
俺はそれを知っていた。表紙の隅に、俺の癖字で通し番号が振ってある。西部灌漑網の塩害と、その進行速度についての報告書。三年前、追われる直前に提出して、そのまま書庫に沈んだ紙だ。
「持ち出したんですか」
「盗んだ」ヨナスは短く言った。「書庫の鍵は、火事のときしか開けん決まりでな。飢饉は火事ではないと言われた」
俺は返す言葉を持たなかった。
「王都の広場で読んだ。三日通って、四日目に衛兵が来た」ヨナスは自分の膝を見ていた。「爺が一人で紙を読んでおるだけだ。誰も止めんと思ったのだが、甘かったな」
「……それで」
「役を解かれた。もう測地局の人間ではない」
ヨナスは顔を上げなかった。
「レヴィン」
名を呼ばれた。
「守れんかった」
白くなった頭が、下がった。
長かった。俺が何か言うのを待っている下げ方ではなかった。ただ、下げるべきものを下げているだけの姿勢だった。三日、門の外に座っていた男の背中が、そのままの角度で止まっていた。
――この薄さに、三年。
俺は紙束を受け取らなかった。代わりにひしゃくへもう一度水を汲んで、ヨナスの手に握らせた。
老人は顔を上げた。目の縁が赤かった。それでも涙は落ちなかった。流すだけの水すら、とうに枯れ果てていた。
ヨナスは紙束を油紙に包み直し、背負い袋へ戻した。
◇
日が傾くころ、俺はヨナスを運河の堤へ連れて行った。
十二の水門が、暮れかけた光の中に並んでいた。最上流でシエラが板を三分だけ落としている。下流の田へ送る量を絞っているところだった。水が、音を立てずに向きを変えた。
ヨナスは長いこと黙っていた。
それから懐を探って、古い水準器を取り出した。宮廷を出るとき、これだけは持って出たのだという。老人はそれを堤の石に据え、屈み込んで気泡の位置を確かめた。
「……水平が出ておる」声がかすれた。「十二基とも、半寸の狂いもない」
「ドルグが積みました。俺は線を引いただけです」
「その線を引ける者が、あの国にはおらんかった」ヨナスは水準器を握りしめた。「わしは三十年、それを誰にも証明できんかった」
水門の影が、水面に長く伸びていた。
「ヨナスさん」俺は言った。「あなたは客だ。泊まっていってください。飯も水も出します」
「……国は」
「国は、客じゃない」
ヨナスが俺を見た。
「王都のどの井戸が病を運んでいるかは、地図を見ればわかります。上下水を分けて、よどみを消して、清い水だけを飲ませる。一週間で断てる病だ」俺は水面を見たまま言った。「それでも、俺は行きません」
「……お前は、国を許さんか」
「許す許さないは、俺の仕事じゃない」
俺は堤の土を靴の先で軽く踏んだ。乾いた季節でも、この土は水を含んで黒かった。
「土は、嘘をつかない。三年前もいまも、同じことを言い続けています。あの国がそれを聞く気になったかどうか。俺が視たいのは、それだけです」
ヨナスは何も言わなかった。ただ、水準器を懐へ戻した。
◇
小屋へ戻る道の途中で、老人が足を止めた。
「じきに、王都から使者が来る」
俺は振り返った。
「王が、親書を書いた」ヨナスは暮れていく水面を見ていた。「わしが街を出る前、下相談の使いが測地局に回ってきた。行き先を書く役を、最後に任されたのが、わしでな」老人の口の端が、わずかに歪んだ。「宛名は、お前だった。だから、その紙より先に来たかった。お前があの連中の文を読む前に、一度、顔を見せておきたかったのでな」
三年前に俺の紙を握り潰した国が、今度は自分の紙を寄越すという。
俺は西の空を見た。土も、水も、風の乾き具合も視える。そこに何が書かれているかだけが、地図には出ていなかった。




