第21話「飢饉と疫病が、王国を覆う」
――幕間。アルデリア王都、貧民街。
王都の空気はもう飢えの匂いに支配されていた。
市場にまともな食料は並んでいない。あったとしても、庶民には到底手が届かない値がついていた。炊き出しの列には朝から晩まで、痩せた人々が絶えることなく続いていた。
そして、飢饉に追い討ちをかけるように――病が広がり始めていた。
高熱。激しい下痢。次々と人が倒れていく。医師も神官も、なす術がなかった。ある者は「呪いだ」と言い、ある者は「空気が悪いのだ」と言った。誰も本当の原因を知らなかった。
ある路地裏で、若い医師が地面にへたり込んでいた。彼の見立てでは病人の多くが同じ井戸の水を飲んでいた。だが、なぜその水が病を運ぶのか。彼には分からなかった。
「……この病は水から、来ているのか?」彼は震える声で誰にともなく呟いた。「だが、なぜだ。同じ水を誰もが何十年も、飲んできたのに」
答えは彼の知識のどこにもなかった。
なぜなら、その答えを持つただ一人の男は――三年前、この国が地面を眺めるしか能がないと自ら追い出していたからだ。
◇
――幕間。王都、宮廷。
玉座の間に集められた大臣たちの顔は、一様に土気色だった。
王都の周辺だけで病による死者はすでに千を超えていた。地方の惨状はもっとひどい。国全体が、飢えと病の二重の刃で切り刻まれていた。
「もはや……手立てが、ございません」老大臣の一人が震える声で言った。「攻撃魔法は病に、効きません。神殿の祈祷も効き目がございません。このままでは……この国は……」
沈黙が玉座の間を支配した。
その沈黙を破ったのは、王、その人だった。
「……ガレオン」王は疲れ果てた声で宰相を呼んだ。「そなたが以前、申しておった。最果ての都市の話を」
「は、はい、陛下」ガレオンが平伏した。
「その都市は水が涸れておらぬのだな。そして――聞くところによれば、病も出ておらぬと」
「……ご名答にございます」ガレオンは額に脂汗を滲ませた。「オルテガでは以前、同種の病が発生しかけたと聞いております。しかし、瞬く間にこれを収束させたと」
「なぜだ」王が身を乗り出した。「なぜ、その都市だけが病を止められた」
ガレオンは答えられなかった。彼にはその理由が分からなかった。分かるのは、ただひとつ。その答えを知るたった一人の男の名前だけだった。
「……測地士、レヴィン・カルダにございます」ガレオンは絞り出すように言った。「かつて、私が切り捨てた男です」
王はしばらく沈黙していた。それから、静かに言った。
「その男はいま、我らを恨んでおるか」
「……おそらくは」
「ならば、詫びねばならぬな。国の生死をかけて」
その一言に、玉座の間の誰もが凍りついた。王がたかが一人の測地士に頭を下げると――そう、口にしたのだ。
◇
オルテガにその報せが届いたのは、数日後のことだった。
王都で病が猛威を振るっているという噂は、商人たちの口からすでに伝わっていた。だが、その規模は俺の想像を超えていた。死者、数千。飢えと病で、地方の村がいくつも丸ごと消えたという話まであった。
「……レヴィン」メイが青ざめた顔で報せを持ってきた紙を俺に見せた。「王都でも、あたしたちが前に止めた病と同じ症状が出てるって」
俺はその報告を黙って読んだ。
高熱。下痢。汚れた井戸の周辺で集中的に発生。――間違いない。あの上下水の混じった疫病と同じ、水を介した病だ。
俺には、視えていた。王都のあの入り組んだ路地の下で、汚水と飲み水が無秩序に地下で混ざり合っている光景が。誰も水の流れを読もうとしなかった、都市の構造が。
オルテガでなら一週間で断てる病だった。上下水を分け、よどみを消し、清い水だけを飲ませればそれで終わる。だが、王都にはそれを視る目が俺しか――俺以外にいない。
「……あいつらは」俺は拳を握りしめた。「地図を捨てて、治水を笑って。それで、今度は病にまで無力なのか」
怒りともどかしさが同時にこみ上げた。
目の前で、飢えた子供が水を求めてこの最果てまで歩いてきた。その同じ国で。いま、王都の子供たちが汚れた水を飲んで次々と倒れているのだ。俺が視方さえ教えれば。俺が地図さえ描けば。救える、命が。
「レヴィン」シエラが静かに俺の隣に立った。「王都に、行くの?」
俺はすぐには答えなかった。
俺を切った男たちを助けに行くのか。俺の十五年を紙くずにした国のために、またこの目を使うのか。
だが、俺の脳裏にはあの日、モルガン卿の娘が水を飲んだ瞬間の顔が浮かんでいた。罪があるのは、宮廷だ。飢えている子供たちに罪はない。
「……まだ、だ」俺は低く答えた。「向こうから、頭を下げに来るまでは。俺が勝手に施しに行くことはしない」
それは意地でも復讐でもなかった。
施しは一度きりで終わる。だが――もし、あの国が本当に頭を下げ、俺の言葉を聞く覚悟があるなら。俺はこの国の水のあり方そのものを根本から造り直せる。二度と、こんな飢饉と疫病に屈しない国に。そのためには、王国自身が地図と治水の価値を心の底から認める必要があった。
「土は、嘘をつかない」俺は王都の方角を見据えた。「だが、あの国が本当にそれを認められるかどうか。――それをこれから、視せてもらう」
王国が完全に行き詰まっていた。そして、その行き詰まりのただひとつの出口に――俺の名前が書かれていた。




