第20話「飢えた民は、国境を越える」
難民の列は日に日に長くなっていった。
最初はぽつり、ぽつりと。やがて、川の流れのように。飢えたアルデリアの民が生きた水を求めて、続々とオルテガの北の境へ押し寄せてきた。
その顔ぶれは様々だった。土地を捨てた農民。店をたたんだ職人。親とはぐれた子供。そして――かつては絹をまとっていたであろう、没落した小貴族の一家までもが。
メイが受け入れの采配を一手に引き受けていた。かつて飢えた三十人の村を一人でまとめていた少女は、いまや押し寄せる何千もの人々を差配する、頼もしい女に育っていた。
「レヴィン。今日も、二百人。もう、空き家じゃ足りない」メイが名簿を片手に駆け寄ってきた。「食料の蔵はまだ保つ。でも……この人たち、みんな受け入れるの?元はあたしたちを見下してた国の人たちよ」
「受け入れる」俺は即答した。「ただし――オルテガの、やり方でだ」
◇
俺は集まった難民たちの前に立ち、はっきりと告げた。
「よく聞いてくれ。オルテガはあんたたちを受け入れる。飢えて死なせはしない。水も、パンも、寝る場所も、与える」
疲れ切った顔に安堵の色が広がる。
「だが、ひとつだけ決まりがある」俺は続けた。「この都市ではただ飯を食う者はいない。元が農民だろうと、職人だろうと、貴族だろうと――働いた者が食う。畑を耕す。水路を掘る。石を運ぶ。子守をする。何でもいい。この都市を支える手になった者にこの都市はパンを出す」
難民たちがざわめいた。
そのとき、前列にいた身なりのいい――かつてはいい身なりだったであろう、初老の男が憤然と声を上げた。
「ま、待たれよ!私は由緒あるモルガン家の当主だぞ!土を掘れと?この、私に!?卑しい農民どもと、同じ列で!?」
モルガン。その名に、俺は覚えがあった。
三年前。俺が宮廷で解雇を言い渡されたとき。玉座の間の隅で俺を指さして、くすくすと笑っていた貴族の一人だ。地面を眺める男がようやく消えるか、と。
男も俺の顔をまじまじと見て――そして、はっと青ざめた。
「き、貴様は……あのときの、測地士……!」
「お久しぶりです、モルガン卿」俺は静かに頭を下げた。「あなたのお噂は覚えています。よく、笑っておられた」
◇
モルガン卿は屈辱に震えた。
「……い、いいだろう!貴様の慈悲にすがるくらいなら、私は――」
「モルガン卿」
俺は彼の言葉を静かに遮った。
「あなたが私を笑ったことは、もうどうでもいい。ですが、ひとつだけお尋ねします。――そのあなたの後ろに隠れているのは、お子さんですか」
モルガン卿の痩せた背の陰に、幼い女の子がひとり震えていた。頬はこけ、唇は乾いて、ひび割れている。何日もまともに水を飲んでいない顔だった。
モルガン卿の震えが止まった。
「この子に、水を飲ませたくはありませんか」俺は穏やかに言った。「オルテガではあなたが水路の土をひと掬い運べば、この子に澄んだ水と温かいパンが出ます。あなたの家名ではこの子は一滴の水も飲めません。ですが、あなたのその手なら――飲ませてやれる」
モルガン卿は自分の白く、柔らかい手を見た。それから、渇ききった娘の顔を見た。
貴族の矜持と父親の情が、その顔の上で長くせめぎ合った。
やがて、彼は――震える手で傍らに立てかけられた一本の鍬を掴んだ。生まれて初めて握る、労働の道具を。
「……どこを掘れば、いい」
絞り出すような、その声に。俺はうなずいた。
「メイが案内します。無理はしなくていい。あなたのできる分だけで、いい」
その日の夕暮れ。手のひらを豆だらけにしたモルガン卿が、娘の口に澄んだ水を含ませていた。娘がこくり、と水を飲むのを見て――かつての貴族は鍬を握ったまま声を殺して泣いていた。
◇
こうして、オルテガは飢えた祖国の民を次々と吸収していった。
身分は関係なかった。貴族も農民も、同じ泥に手を突っ込み、同じ水路を掘り、同じ釜のパンを分けた。オルテガでは人の値打ちは生まれではなくその手が何を成すかで決まった。
それはアルデリア王国とはまるで正反対の秩序だった。
血筋がすべてを決める国。攻撃魔法の才が人を英雄にする国。その国からこぼれ落ちた者たちがこの最果てで初めて「働けば、食える」という当たり前の尊厳を手にしていた。
ある夜、その光景を眺めていた俺にドルグがしみじみと言った。
「なあ、地図屋。おかしな話だよな。この都市を支えてるのは、ほとんどが王国からこぼれた奴らだ」彼は篝火を囲む元農民と元貴族の姿を見た。「王国がいらねえって捨てた連中で、王国よりまともな国ができちまってる」
「ああ」俺はうなずいた。
俺を捨てた国。その国が飢えてこぼした民を。俺はいまひとり残らず拾い、食わせている。
「皮肉なものだな」俺は静かに言った。「あの国は要らないものを捨てたつもりで――一番、大事なものを捨てていたんだ」
土は、嘘をつかない。人もまた正しく扱えば正しく応える。
王国が切り捨てた地図屋の元に、王国が切り捨てた民が集い、新しい国のかたちを作り始めていた。
そして、その本物の国がこの最果てに立ち上がったことを――やがて頭を下げに来る、あの宮廷はまだ知らないでいる。




