第19話「宰相の使者は、水利権を奪いに来た」
王国が寄越したのは、頭を下げる使者ではなかった。剣を突きつけに来た使者だった。
王家の紋章を掲げた物々しい一団。先頭の馬車から降りたのは、宰相ガレオン直々の勅使を名乗る傲岸な侯爵だった。その背後には二百はくだらない武装した王国兵が隊列を組んでいた。
侯爵は羊皮紙の勅書をうやうやしく、しかし高圧的に読み上げた。
「王命である。――此度の大旱に鑑み、王国内のあらゆる水源は王家の所有とする。オルテガの水利、運河およびこれを操る術はすべて王国の管理下に置く。測地士レヴィン・カルダはその一切の権を王家に返上せよ。抗う場合は王国への叛意とみなし、武力をもって、これを接収する」
要するにこういうことだった。国が枯れて、初めてオルテガの水の価値に気づいた宮廷が――それを頭を下げて分けてもらうのではなく、王の名のもとに丸ごと奪い取りに来たのだ。
メイが拳を握りしめた。ドルグが低く唸った。だが、俺は静かに勅書を聞き終えた。そして、口を開いた。
「侯爵閣下。ひとつ、お尋ねしても?」
◇
「水源を、王家のものとする――結構です」俺は穏やかに言った。「ですが、閣下。“水を所有する”とは、いったいどういうことでしょう」
「とぼけるな。この運河も、水路も、すべて王家が接収すると言っている」
「ええ。接収はできるでしょう。この石組みも、この水門も、力ずくで奪えます」俺はうなずいた。「ですが――この水を“動かす”ことはどうなさいますか」
侯爵の眉がぴくりと動いた。
「オルテガの水は地の底、深くを流れる伏流水です。どこに水脈が走り、どの水門をどの順でどれだけ開ければ、水が正しく巡るのか。それを視て御せるのは――この国で私ただ一人」俺は自分の目を指した。「勅書は水源を王家のものと定めた。ですが、水源の“在り処”を視る目までは、勅書では奪えません」
「……小癪な。ならば、貴様ごと、この目を王家の管理下に置くまでだ!」
「では、こうしましょう」
俺は傍らのシエラに目配せをした。そして、ひとつの大きな水門を指し示した。この地方一帯へ水を送る、最も重要な水門を。
「シエラ。あの、北の大水門を――閉じてくれ」
◇
シエラが指をすっと動かした。
巨大な水門がゆっくりと降りていく。この地方一帯の命の水を送る、その扉が。ごう、と流れていた水が堰き止められた。北の運河網へと向かう水路がみるみる水位を下げていく。
侯爵の顔から血の気が引いた。
「な、何をする!」
「お見せしているだけです。“水を奪う”とは、どういうことかを」俺は閉じた水門を指した。「いま、この水門ひとつが閉じただけで、この先のいくつもの領地の田が干上がり始めます。あなた方が力ずくでオルテガを奪えば――私は手を引く。そうすればこの水門は二度と正しく開かない」
俺は侯爵をまっすぐに見据えた。
「王家はいま、飢えた民を食わせる水を喉から手が出るほど欲しがっているはずだ。なのに、その水を寄越せと、剣を突きつける。――閣下。あなた方はこれから乞うべき相手の命綱を力ずくで断ちに来たのですよ」
侯爵は二百の兵を背にしながら、一歩も動けなかった。
兵を動かせば。この地図屋は本当に手を引くだろう。そうなれば、渇き、飢えた王国は最後の希望を自らの手で握り潰すことになる。そして――かつてこの城の前の道で辺境伯の兵が泥に沈んだ話もこの場の全員が知っていた。剣はここでは何の役にも立たない。
力では決して奪えない。奪えば、自分たちが死ぬ。それがこの一枚の地図と一つの水門が突きつけた、答えだった。
「……お、覚えて、おれよ……!」
侯爵は震える声でそれだけ言うと、二百の兵を引き連れて来た道をすごすごと引き返していった。奪うものは何ひとつ手にできないまま。
俺はシエラに水門を開けさせた。堰き止めていた水が再び渇いた領地へと、豊かに流れ出していく。
「……脅すつもりは、なかったんだがな」俺はため息をついた。「向こうが剣で来るなら、水で返すしかない」
◇
――幕間。王都、宰相府。
手ぶらで戻った侯爵の報告に、ガレオン・ロウは拳を机に叩きつけた。
「二百の兵を出して、水門ひとつ、開けさせられなかっただと!?」
「し、しかし、宰相閣下……!あの男が手を引けば、水は完全に止まるのです……!兵で脅せば脅すほど我らの首が締まる仕組みに……!」
ガレオンは言葉を失った。
力で、奪えない。金でも、動かない。あの地面を眺めるしか能のないと切り捨てた男はいまや王国が決して力ずくでは屈服させられない、たったひとつの存在になっていた。
王国が生き延びる道は、もうひとつしか残されていない。頭を下げることだ。かつて紙くずのように切り捨てた、あの男に。
ガレオンの財政家としての矜持が、その事実を前に音を立てて軋んでいた。
「……陛下に奏上せねばならん」宰相は苦渋に満ちた声で呻いた。「正式な使節を。――我が国があの男に、頭を下げるための、な」
王国がついに、膝を折る。その決断が玉座の間へと運ばれようとしていた。




