第18話「水を持つ者の、静かな戴冠」
渇きは王国の隅々まで容赦なく広がっていった。
オルダ川の本流だけではない。そこから枝分かれした無数の支流も地表の溜め池も、次々と干上がっていく。地表の水に頼っていた土地は大小を問わず、片端から渇きに喉を焼かれていった。
そして、そのことごとくが最後の望みを託して同じ場所を目指した。まだ水が涸れていないたったひとつの都市。オルテガへ。
毎日のように近隣の、そのまた向こうの領地から使者がやってきた。どこも口にすることは同じだった。
「頼む。水を、分けてくれ」「穀物を、売ってくれ」「あんたのその目で、うちの土地の井戸を視てくれないか」
かつてオルテガを見下していた土地の者たちが。あの毒沼の貧乏人め、と嘲笑っていた者たちが。いま深々と頭を下げて、この最果ての都市に命乞いをしていた。
◇
そんなある日、意外な人物がオルテガの門をくぐった。
バルツァー辺境伯だった。
だが、半年前五十騎を引き連れて傲然と乗り込んできた、あの男ではなかった。従者はわずか数名。豪奢だった鎧はほこりにまみれ、肉食獣のようだった目は深く落ちくぼんでいた。
「……レヴィン・カルダ殿」
辺境伯は俺の前で馬を降りた。そして、貴族の矜持をかなぐり捨てるように頭を下げた。
「面目次第も、ない。かつて、私は貴殿を脅し、この都市を奪おうとした。……その私がこうして頼みに来た。我が領も渇きで、死にかけている。井戸は涸れ、民は逃げ出し、領地が崩壊しかけているのだ。どうか――どうか水を分けてはもらえぬか」
ドルグがそばでふん、と鼻を鳴らした。「よく言うぜ。あれだけ偉そうにしといて」
メイも複雑な顔をしていた。かつて、この男の兵が村の穀物を半分奪おうとしたのだ。
だが、俺は辺境伯の落ちくぼんだ目を静かに見返した。
「顔を、上げてください、閣下」
「……いいのか」辺境伯がおそるおそる顔を上げる。
「あなたがかつて何をしたかは、覚えています。ですが――」俺は地図を広げた。「いま、あなたの領で渇いているのはあなた自身じゃない。あなたの領の民でしょう。子供が、老人が、水を求めている。違いますか」
辺境伯は言葉に詰まった。
「水は、恨みを数えません」俺は地図の上に、バルツァー領へと水を引く新しい線を引いた。「あなたの領のこの谷。ここの地下に、まだ細いが生きた水脈がある。掘る場所を間違えていただけだ。私が視ます。ドルグが掘り方を教える。それと――当面の食料は、オルテガから正当な代価でお売りします」
辺境伯はしばらくその地図を呆然と見つめていた。やがて、その落ちくぼんだ目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……なぜだ」彼は絞り出すように言った。「私は貴殿から奪おうとした。なのに、なぜ、助ける」
「奪おうとしたあなたと、渇いているあなたの民は別だからです」俺は答えた。「それに――水を分けても、俺の水脈は減らない。減らないものを渇いた者に渡さない理由がどこにありますか」
◇
バルツァー辺境伯の一件は瞬く間に王国中に知れ渡った。
「オルテガの地図屋はかつて自分を脅した辺境伯にすら、水を分けた」――その話は飢えに苦しむあらゆる土地に、希望の光として届いた。
そして、堰を切ったように周辺の領地が次々とオルテガの傘下に加わることを望み始めた。支配されたのではない。彼らが自ら選んだのだ。剣で脅す王国よりも、水を分ける都市を。
いつしかオルテガの引く水路は、一帯のいくつもの領地を網の目のように結んでいた。オルテガが水門を開けば、乾いた領地が潤う。オルテガが穀物を送れば、飢えた民が生き延びる。この地方一帯の生殺与奪が――俺ひとりの地図の上に握られていた。
ある夜、その地図をじっと見ていた俺にシエラがぽつりと言った。
「ねえ、レヴィン。あんた、気づいてる?もうこの辺り一帯の……王様、みたいなものだよ」
「王様、か」俺は苦笑した。
「うん。だって、みんなあんたの水がなきゃ、生きていけない。剣も、兵も持ってないのに」シエラは少し怖そうに言った。「こんな支配の仕方、聞いたことない」
◇
俺は窓の外の乾いた夜空を見上げた。
戴冠式も、玉座も、王冠も、なかった。兵を一人も雇っていない。城をひとつも建てていない。攻撃魔法は――ただの一発も撃っていない。
なのに、俺はいつのまにかこの一帯すべての命を握る、静かな王になっていた。
三年前、火球を讃え、地図を捨てたあの国の物差しでは決して測れない王だ。剣は渇きを癒せない。魔法は水を生まない。乾いた世界で本当に人の上に立つのは――水を分けられる者だった。
「土は、嘘をつかない」俺は静かに呟いた。
そして、俺は北の王都の方角を見据えた。
バルツァー辺境伯が頭を下げた。周辺の領主が頭を下げた。ならば、次にこの最果てに頭を下げに来るのは――もうひとつしか残っていない。俺を紙くずのように捨てた、王国そのものが。
「……そろそろ、だな」
乾いた風が北の空から、その足音を運んでくるようだった。




