第17話「川が、死んでいく」
――幕間。アルデリア王国、南部穀倉地帯。
オルダ川は、もう川ではなかった。
かつて王国一の穀倉を潤した大河。その川床はいま、ひび割れた泥の道に変わり果てていた。底に残ったわずかな水たまりはよどんで緑色に濁り、死んだ魚が白い腹を見せて浮いている。
川岸の田はもっと惨憺たるありさまだった。水を失った大地は罅割れ、その亀裂の縁に白いものが霜のように吹いていた。塩だ。川が涸れ、地下から染み上がった塩分が土の表面で結晶し、作物の根を片端から焼き殺していた。麦は穂をつける前に立ったまま枯れていた。
ひとりの老農夫が、その白い畑の真ん中に膝をついていた。三代続いた自慢の麦畑だった。彼は枯れた一本の麦を震える手で引き抜き、白く塩を吹いた根をただ見つめていた。
「……雨さえ、降れば」彼は誰にともなく呟いた。「雨さえ、降れば、戻る。きっと、戻る……」
だが、彼の頭上に広がる空はどこまでも青く乾いていた。二年、ひと粒の慈雨も寄越さなかった無慈悲な青だった。
村のあちこちで家財をまとめる音がしていた。先祖代々の土地を捨て、まだ水と食料があるというどこか遠くの地を目指して。あてのない流民の列が、白い大地の上を力なく歩き始めていた。
王国の背骨が。静かに、折れようとしていた。
◇
――幕間。王都、宮廷。
玉座の間は紛糾していた。
全土から届く不作と飢えの報告。ようやく事の重大さを悟った宮廷は、しかしまともな手をひとつも打てずにいた。
「攻撃魔法兵団に、命じて、雲を!」
「ばかを言え。火球で、雨が降るか!」
「ならば、神殿に、雨乞いの祈祷を――」
怒号と責任の押しつけ合いだけが飛び交っていた。火を操り、氷を放つ、王国自慢の魔導士たちは誰ひとりひと滴の水も生み出せなかった。剣も魔法も、乾いた大地の前では無力だった。
その喧騒の中で、宰相ガレオン・ロウだけが青ざめた顔でじっと一枚の地図をにらんでいた。
王国の水系図。枯れゆくオルダ川。そして、その地図の最果ての隅。ただ一点だけ変わらず、豊かな水をたたえた都市が記されていた。
オルテガ。
ガレオンの額に脂汗が滲んだ。彼はようやく理解し始めていた。あの男を自分が三年前に切り捨てた、あの男の力こそが――いまやこの国の最後の希望なのかもしれない、と。
◇
オルテガの空も同じように乾いていた。だが、地面の下はまるで違った。
俺は運河の水位を毎朝地脈視で確かめていた。中央山系の伏流水脈は二年の渇水などどこ吹く風と変わらぬ水量で悠々と流れ続けている。運河は満ち、田は潤い、オルテガの緑は乾いた空の下でなお鮮やかだった。
同じ空の下。同じ王国。なのに、北の穀倉は白く枯れ、最果ての毒沼だった地だけが青々と生きている。
その異様な対比が現実のものとなって、ある日オルテガの北の境に現れた。
「レヴィン……あれ」
メイが声を震わせて指さした。
北の荒れ地の向こうから人の列がよろよろと近づいてくる。痩せこけ、ぼろをまとい、子供を背負い、老人の手を引いて。アルデリアの穀倉地帯から飢えて流れてきた、最初の難民たちだった。
彼らはオルテガの青い田と満ちた運河を目にすると、その場に崩れ落ちた。信じられない、というように。あるいは、ようやく辿り着いたというように。痩せた頬を涙が伝っていた。
「……水だ」誰かがかすれた声で言った。「水が……ある。生きて、る……」
俺はその光景を黙って見ていた。
彼らは俺を捨てた国の民だ。三年前、地面を眺める男だと俺を笑った国の。だが、いま目の前で崩れ落ちているのは宰相でも貴族でもない。ただ飢えた名もなき人々だった。罪のない子供たちだった。
◇
「……どうするの、レヴィン」メイがすがるように俺を見た。
俺はすぐには答えられなかった。胸の内でふたつの声がせめぎ合っていた。
ひとつは冷たい声だ。――あの国が、お前に何をした。お前の十五年を紙くずにした連中だ。今さら、知ったことか。
もうひとつはもっと静かな別の声。――この水は、もともと誰のものでもない。低い所へ、渇いた所へ、流れていくのが水の本性じゃなかったのか。
俺は崩れ落ちた難民の痩せた子供の顔を見た。それから、北の枯れた祖国の空を見上げた。
「……土は、嘘をつかない」俺は絞り出すように呟いた。「水も、嘘をつかない。渇いた者の前に、水がある。――ただ、それだけのことだ」
価値の逆転は、もう誰の目にも明らかだった。攻撃魔法の国が枯れて死に。地図と治水の都市だけが生き残った。
だが、その逆転は勝利の凱歌ではなかった。俺の前にはいま、飢えた祖国の民と――そして、いずれ必ずこの水を奪いにあるいは乞いに来るあの宮廷とが。重く横たわっていた。
乾いた風が北から白い砂を運んでくる。祖国が、死んでいく匂いがした。




