第16話「王都から、一頭の早馬」
俺がこの地に立って、二度目の春が巡っていた。
丘の上から見下ろすオルテガは、もう俺が知っていたどんな町とも違っていた。
鏡池から海まで、一本の運河が銀色に伸びている。その両岸には整然と区切られた田が若い緑で埋め尽くされ、風に揺れていた。都市の中心には石畳の大通り。立ち並ぶ商館。十二の水門がシエラの差配で規則正しく水位を刻んでいる。港には、各地から集まった交易船が何十と帆を休めていた。
死の毒沼は、もう地図のどこにもなかった。代わりにあるのは、王国の最果てに自分たちの手で築き上げた――水と緑と、人の営みの都市だった。
「親方ーっ!北の第三水路、無事に通水しました!」
若い衆が駆けてくる。かつて痩せて諦め顔だった流民の子供は、今や立派な水路番に育っていた。
「ご苦労」俺はうなずいた。「これで、東の新田まで、水が回る。今年の作付けも、間に合うな」
ドルグが組んだ石橋。シエラが御す水門。メイがまとめる人々。そして、俺が引いた一枚の地図。それらがいま、ひとつの生きた都市として呼吸していた。
――この穏やかな景色が長くは続かないことを、俺はまだ知らないでいたかった。
◇
その早馬は、昼下がりの市場の喧騒を切り裂いて飛び込んできた。
馬は口から泡を噴き、今にも倒れそうだった。乗り手も何日も寝ていないのか、土気色の顔をしている。その必死さがただの便りでないことを告げていた。
「レヴィン・カルダ殿!カルダ殿は、どこか!」
「俺だ」
駆け寄ると、乗り手は震える手で一通の手紙を差し出した。封蝋には見覚えのある紋章。――王国測地局の紋章だった。
「ヨナス様より……火急の、お手紙です……!」
ヨナス。その名に、俺の胸がざわついた。
ヨナス・レーン。俺が宮廷にいた頃の直属の上司にして、師だった老測地士。攻撃魔法ばかりが評価される宮廷でただひとり「地図と治水こそ国の背骨だ」と、俺の仕事の価値を認めてくれた人だった。俺が追放されるとき、最後まで宰相に食い下がり、そして敗れた人。
俺はその場で封を切った。
◇
――レヴィンへ。
達筆だが、震えの混じった急ぎの筆跡だった。
――まず、詫びさせてくれ。あのときお前を守れなかった。私の力が及ばなかった。
――だが、いまはそれを悔いている場合ではない。お前にどうしても伝えねばならぬことがある。王国が、危うい。
俺は続く一文に息を呑んだ。
――この二年、雨が降らぬ。最初は誰もが些事と侮った。だが、今年ついにオルダ川が干上がり始めた。王国の穀倉を潤してきたあの大河がだ。水路は塩を吹き、田は割れ、麦は実らぬ。このままでは――遠からず王国全土を大飢饉が襲う。
――宮廷はなお、事の重さを解さぬ。宰相は財源と、お前の都市のことばかりに目を奪われている。誰も枯れていく川を止める術を知らぬのだ。
――レヴィン。私はお前の目を、お前の地図を知っている。水を読み、土を導くその力だけがこの国を救えると信じている。
――どうか、心しておいてくれ。近いうちに必ず、お前を捨てたこの国がお前に頭を下げに行くことになる。
手紙はそこで途切れていた。俺は長いこと、その文面を見つめていた。
◇
俺は執務室に戻り、壁一面に広げた巨大な地図の前に立った。
オルテガとその周辺。そして、その北に広がる祖国アルデリアの水系の全図。この二年、各地を歩くたびに少しずつ描き足してきたこの一帯の水の真実の地図だ。
俺は地図の上のオルダ川を指でなぞった。
中央山系から地表を流れ下り、アルデリアの穀倉を潤す大河。その水源を俺は地脈視で視たことがある。あれは雨と雪解け水で保たれている川だ。空が雨を出し惜しめば、たちまち痩せ細る。
そして、その隣を走る青い太い線。オルテガの伏流水脈。中央山系の深い地の底を巡る、もうひとつの水。空の機嫌などまるで意に介さない悠久の地下水。三年前、俺が毒沼の底に視たあの「国一つ分の水」。
ヨナスの手紙が告げている。地表の川が死につつある、と。そして、俺の地図が告げている。死なない水は――いまこのオルテガに握られている、と。
「……来たか」
俺は静かに呟いた。
三年前、宮廷は攻撃魔法を讃え、地図と治水を無価値だと切り捨てた。地面を眺めるしか能のない男に王国の金は払えん、と。
だが、いざ空が雨を忘れたとき。火球はひと粒の麦も実らせない。攻撃魔法はひと滴の水も生まない。国を救えるのは――正確な地図と治水だけだ。俺が三年前から言い続けてきた、それだけのことが。いま現実になろうとしていた。
「土は、嘘をつかない」俺は地図の上の枯れゆく川と、満ちた伏流水を見比べた。「あの男たちが捨てたのは、地図じゃない。――国の、未来そのものだ」
窓の外では、オルテガの運河が変わらず豊かに水をたたえて輝いていた。
価値の逆転が。ついに、始まろうとしていた。




