第15話「宰相は切った男の名を思い出す」
――幕間。王都、宰相府。
ガレオン・ロウは不機嫌だった。
執務机にはバルツァー辺境伯から届いた長々しい上申書が広げられている。最果ての辺境に無主の地を不当に占拠する不届き者がいる。即刻、王国の威信をもってこれを討伐すべし――要約すれば、そういう泣き言混じりの讒言だった。
「辺境の小競り合いに、いちいち王国を煩わせるな」
ガレオンは上申書を机の端へ押しやろうとした。辺境伯が地方の貧乏くじを引いただけのこと。宰相の関心を引くには、あまりにちっぽけな話だった。
だが、その指がある一行で止まった。
――『当該地、オルテガの港、すでに王都に次ぐ交易高に達し』。
「……何だと?」
ガレオンは眉をひそめ、その先を読んだ。最果ての毒沼。誰も住めぬ死の湿地。それがわずか三年で運河を備えた交易都市に化け、王都に迫る富を生んでいる。しかも、その税は一銭も王国の金庫には入っていない――。
「ばかな。あんな何もない土地が」
ガレオンは上申書の末尾にあるその都市を造った男の名を見た。
――レヴィン・カルダ。
その名に覚えがあった。あるはずだった。だが、すぐには思い出せない。それほどにどうでもいい男だったのだ。財政削減の折、真っ先に切り捨てた無数の穀潰しのうちのひとり。
「測地局の……ああ」
ようやくガレオンは思い出した。地面を眺めるしか能のない男に、王国の金は払えん。あのとき、自分が退屈しのぎのように口にした言葉まで。
沈黙が宰相府を満たした。
自分が紙くずのように捨てた男が。あの地面を眺めるしか能のなかった男が。最果ての地で王都に次ぐ都市を築き上げた。
ガレオンの中でふたつの感情がぶつかった。
ひとつは、財政家としての冷徹な計算。王都に次ぐ交易都市。その税を王国の管理下に置けば、傾きかけた国庫は一息に潤う。喉から手が出るほどの財源だった。
もうひとつは――もっと暗くて、個人的な何かだった。切り捨てたはずの男が自分の見立てを嘲笑うように、成り上がっている。その事実が宰相の矜持をちりちりと焼いた。
そのとき、別の文官が慌ただしく報告に駆け込んできた。
「宰相閣下!南部より、火急の報せが!オルダ川の水位が、例年になく低下しております。このままでは、夏の作付けに――」
「後にしろ」
ガレオンは川の報告を一瞥もせず、手で払った。彼の頭はいま最果ての都市の莫大な富のことで、いっぱいだった。たかが川の水位が少し下がった程度。雨が降れば戻る。そんなものは些事だった。
彼は机を指で叩き、低く呟いた。
「監察使を、オルテガへ送れ。都市の実態を、隅々まで調べ上げよ」
ガレオンの目が暗く光った。
「潰すか、奪うか――どちらにせよ、あれを、このまま放置は、できん」
◇
オルテガにその男がやってきたのは、それからひと月後のことだった。
王国の紋章を掲げた立派な馬車。降りてきたのは、宮廷の監察使を名乗る神経質そうな官吏だった。供を引き連れ、慇懃な笑みを浮かべて彼は言った。
「王命により、当都市の実情を、視察に参りました。倉の在庫、交易の帳簿、人口、水利――そのすべてを、検めさせていただく」
来たかと俺は思った。
バルツァー辺境伯が宰相に駆け込んでから、ずっと身構えていた。王国の影がついにこの最果てにまで伸びてきた。
「どうぞ、ご随意に」俺は穏やかに応じた。「隠すものは、何もありません」
監察使は数日かけて、オルテガを隅々まで調べ上げた。賑わう市場。満ちた倉。整然とした水路。そのことごとくに、彼は隠しきれない驚きと――そして、値踏みするような卑しい光を目に浮かべていた。
帳簿を閉じるとき、彼は独り言のように呟いた。
「これは……宰相閣下が、お喜びになる。実に、惜しい。実に……手に入れる価値の、ある都市だ」
その言葉に俺はすべてを悟った。
宮廷はオルテガを「守るべき王国の一部」とは、見ていない。「奪い取るべき、おいしい獲物」として、見ている。俺を切り捨てたあのときと同じ目で。
◇
監察使を見送った夜、メイとドルグ、シエラが不安げに俺を囲んだ。
「ねえ、レヴィン。宮廷は……オルテガを、どうする気なの」シエラが声を潜めた。
「奪いに来る」俺ははっきりと言った。「辺境伯みたいに、正面からじゃない。王命だの、王国の威信だの、もっともらしい御旗を立てて、合法的に、この都市を、丸ごと、巻き上げに来る」
「そんな……!あたしたちが、必死で造ったのに!」メイが悔しげに叫んだ。
「ああ。だが――」
俺はふと監察使が口にしたひとつの言葉を思い返していた。視察の合間、供の者が話していた王都の噂。オルダ川の水位低下。南部の不作の兆し。
宮廷はオルテガの富に目がくらんでいる。その一方で、足元で静かに進むもっと恐ろしい異変には――誰も目を向けていない。
「土は、嘘をつかない」俺は北の空を見上げた。相変わらず雨の気配のない乾いた夜空を。「あいつらは、俺から都市を奪うことばかり考えて、もっと大事なものが、足元で枯れ始めていることに、気づいていない」
俺には、視えていた。王国が富に目をくらませている間に、その生命線が――地表を流れるあの川がゆっくりと細っていく未来が。
「奪い合いをしている場合じゃ、ないんだがな」
俺の呟きは乾いた夜風に、静かに溶けて消えた。




