第14話「自治都市オルテガここに」
バルツァー辺境伯を退けた噂はまた思わぬ形で広がった。
「オルテガは、強欲な辺境伯を、剣も使わず追い返した」――その話は辺境伯に長く搾取されてきた周辺の小さな村や町に希望として届いたらしい。
ある朝オルテガの門前に見慣れぬ一団が立っていた。兵ではない。粗末な身なりの村の長老たちだ。彼らはおずおずと、けれど藁にもすがる思いで俺の前に進み出た。
「測地士さま。どうか、おらたちの村も、診てくだせえ」
先頭の老人が深々と頭を下げた。「おらたちの村は、年々、井戸が枯れて、畑も痩せる一方で……このままじゃ、村が消える。あんたが、毒沼を穀倉に変えたって聞いた。頼む。おらたちの土地も、あんたの目で、視てくれねえか」
◇
その村の長老の中に見覚えのある顔がひとつ混じっていた。
かつてまだオルテガが寒村だった頃。物乞い同然に助けを求めに行った俺たちを「毒沼の貧乏人に分ける水はない」と門前払いにした隣村の長だった。
彼は俺と目が合うと、気まずそうに顔を伏せた。
「……あんたらを、追い返したことは、すまねえと思っとる。煮るなり焼くなり、好きにしてくれ。だが、村の若い者と、子供だけは……」
「顔を上げてくれ」俺は静かに言った。「昔の話を、する気はない」
メイが隣で何か言いたげな顔をしていた。あの頃の屈辱を彼女も覚えているのだろう。だが、俺は続けた。
「水は、貸し借りで、恨みを数えるものじゃない。低い所へ、流れるべき所へ、流れていくだけだ。――あんたの村に、水が要るなら、視る。それだけだ」
◇
俺は近隣の村々を順に歩いた。
オルテガでやったことをそれぞれの土地で繰り返す。地脈視で地下水脈と枯れた井戸の原因を読む。痩せた畑の土の問題を診る。どこを掘れば水が湧き、どこに水路を引けば畑が蘇るか――その村だけの地図を一枚ずつ描いていった。
枯れたと思われていた井戸に水脈を当て直すだけで、水が戻る。痩せ地に正しく水を引くだけで、作物が芽吹く。村人たちはそのたびに涙を流して喜んだ。
そして、俺はそれぞれの村をオルテガの運河網へと繋いでいった。村で穫れた作物は運河を通ってオルテガの港から海へ売られる。村はその銀で潤う。オルテガは扱う品が増えてさらに栄える。一方的な施しではない。互いに得をする。水と物の流れで結ばれていく。
「なあ、地図屋」ある夜ドルグが焚き火の前で言った。「お前、気づいてるか。いつのまにか、この一帯の村が、ぜんぶ、オルテガを中心に、回り始めてるぞ」
「ああ」俺は地図を見た。
オルテガを真ん中に、無数の水路と運河が周辺の村々へと放射状に伸びている。水の流れも、物の流れも、人の行き来も――すべてがオルテガを心臓のように経由していた。
「辺境伯は、力で、この一帯を支配しようとして、失敗した」俺は地図の上のオルテガを指した。「俺は、何も支配していない。ただ、水を分け、道を繋いだだけだ。だが、結果として――この一帯は、もう、オルテガなしでは、生きられなくなった」
◇
やがて近隣の村々の長たちが再びオルテガに集まった。今度は助けを求めにではない。
「測地士さま」かつて俺を門前払いしたあの隣村の長が皆を代表して口を開いた。「おらたちは、相談して、決めた。これからは、オルテガを、おらたちの“まとめ役”として、立てさせてほしい。水のことも、商いのことも、揉め事の裁きも――あんたを、信じてついていきたい」
村の長たちが次々にうなずいた。
誰かに剣で強いられたわけじゃない。誰かに税で縛られたわけでもない。ただ水と暮らしを守ってくれる者を、彼ら自身が選んだのだ。
こうして、オルテガは――王国の最果てにひとつの「自治都市」として立った。王の任じた領主もいない。貴族の支配もない。水と、物流と、人の信頼だけで結ばれた新しい形の都市が地図の上に生まれた瞬間だった。
「すごいことに、なっちゃったね」メイが集まった村人たちを見渡してしみじみと言った。「毒沼の、三十人の村が……一帯の、まとめ役だなんて」
「ああ」俺はうなずいた。だが、その胸には誇らしさと同時に、重さがのしかかっていた。
一帯のまとめ役。それは裏を返せば――この一帯すべての命綱を俺ひとりが握ってしまったということだった。
◇
その夜俺はひとり運河の水位を確かめに、外へ出た。そして、ふと空を見上げた。
――雨が少ない。
今年は春からずっと雨が少なかった。例年なら、とうに何度か降っているはずの雨がまだほとんど降っていない。運河の水位もいつもよりわずかに低い。
俺は地面に手をついた。地脈視で地下を視る。
オルテガの伏流水脈は変わらずたっぷりと流れていた。中央山系の深い深い地の底を巡るこの水は、空の機嫌くらいでは揺らがない。
だが――。
俺は北の王都の方角を見やった。
アルデリアの穀倉を潤しているのはこの深い伏流水ではない。地表を流れるオルダ川だ。空から落ちる雨と雪解けの水で保たれている川。
もし、この少ない雨がただの偶然でなかったら。もし、来年も、再来年も、空が雨を出し惜しんだら。深い地下水を持つオルテガは揺るがない。だが、地表の川に頼りきった王国の穀倉は――。
「……まさかな」俺は自分の予感を打ち消すように呟いた。
だが、土は、嘘をつかない。そして、空もまたいずれその答えを地に落としてくる。
静かに乾き始めた空の下で、繁栄するオルテガの灯りだけが変わらず暖かく瞬いていた。




