第13話「横槍の貴族を地図で黙らせる」
バルツァー辺境伯は五十騎の騎兵を引き連れて、堂々とオルテガの正門から入ってきた。
前回の徴発隊とは格が違った。磨き上げた鎧。整然とした隊列。先頭を行く辺境伯本人は四十がらみの肉食獣のような目をした男だった。賑わう市場を、立ち並ぶ商館を、停泊する交易船を――値踏みするように、舐めるように、見回している。
「ふむ。聞きしに勝る繁盛ぶりだ」辺境伯は馬上から俺を見下ろした。「貴公が、噂の地図屋か。レヴィン・カルダ」
「いかにも」
「単刀直入に言おう」辺境伯は一枚の証文をひらりと投げて寄越した。「この地は、元来、放棄された土地。王国の管理も及ばぬ無主の地だ。ならば、隣接する我がバルツァー領が、これを併合するのが道理。――今日より、オルテガは、我が領の一部となる。貴公は、その差配役として、私に仕えよ。悪い話ではあるまい?」
兵を背に笑みを浮かべて。要するに、前回より丁寧な同じ恫喝だった。力で奪えなかったから、今度は「理屈」で奪いに来た。
ドルグが低く唸って前に出かけた。だが、俺は首を振って彼を止めた。
「辺境伯閣下。お話は分かりました。ですが――その前に、一枚、地図をご覧いただきたい」
◇
俺は広場に大きな地図を広げた。オルテガを中心に、この地方一帯を描いた交易の地図だ。無数の線が各地の町からオルテガの港へと集まっている。
「これは、この半年で、オルテガの運河を通った、物の流れです」俺は北へ伸びるひときわ太い一本の線を指した。「閣下。この線が、どこから来ているか、お分かりになりますか」
辺境伯の目がその線の先を追った。線の始まりは――バルツァー領、その領都だった。
「閣下の領の、木材。鉱石。毛織物。――そのほとんどが、もう、このオルテガの運河を通って、海へ運ばれ、銀に変わっています」俺は淡々と続けた。「閣下の領は、内陸だ。海へ出るには、険しい山を越えて、遠回りするしかなかった。だが、この運河ができたことで、閣下の領の品は、半分の日数で海に届くようになった。閣下の領の商人たちは、もう、この港なしでは、商売が成り立たない」
辺境伯の笑みがわずかに強張った。「……何が言いたい」
「簡単なことです」
俺は運河の北の入り口に置かれた一つの水門を指した。
「もし、オルテガが、閣下と事を構えることになれば。私は、この水門を、一つ、閉じるだけでいい。そうすれば、閣下の領の品は、二度と、この運河を通れない。木材も、鉱石も、毛織物も、また険しい山の向こうに、閉じ込められる。閣下の領の商人は干上がり、税収は枯れる。――兵を一人も、動かさずに」
◇
「貴様……っ」辺境伯の顔から余裕が消えた。「脅す気か!ならば、力ずくで、この水門ごと、奪うまでだ!五十騎の騎兵が、目に入らんのか!」
「どうぞ」
俺は即答した。
「ですが、閣下。前回、閣下の徴発隊が、この村に入る道で、どうなったか――もう、お聞きでしょう」
辺境伯の頬が引きつった。泥濘に沈んだ空の荷馬車。その報告は当然彼の耳にも入っている。
「それに――仮に、閣下が力ずくでオルテガを奪ったとしましょう」俺は足元の地面に軽く手を触れた。「この都市の水路が、田が、運河が、どういう仕組みで動いているか。どこを掘れば水が湧き、どこを塞げば町が干上がるか。――それを視て、操れるのは、この国で、私ひとりです」
俺はまっすぐに辺境伯を見据えた。
「私を殺せば、この都市は、ただの動かぬ水路の塊になる。私を従えようとしても、土は、私の目を通してしか、口を割らない。――閣下が手にできるのは、繁栄したオルテガではなく、私が手を引いた瞬間に枯れていく、ただの抜け殻だけです」
沈黙が広場を覆った。
五十騎の騎兵も、整然とした隊列も、この一枚の地図と一つの水門の前では何の意味も持たなかった。剣は水路を動かせない。鎧は土の声を聞けない。力では決して解けない錠前だった。
辺境伯はしばらく震えていた。怒りと、屈辱と、そして――抗えない計算の答えに。
◇
「……覚えておけ、地図屋」
辺境伯は絞り出すように言った。馬首を返しながら、最後にこちらをにらみつける。
「貴様の、その小賢しい知恵が、いつまでも通用すると思うな。たかが、追放された測地士風情が。――王宮が、貴様のこの繁栄を、黙って見過ごすとでも思っているのか?数字に出ない仕事は仕事ではないと、貴様を切り捨てた、あの宰相がな」
その一言に俺はわずかに目を細めた。
ガレオン・ロウ。俺を紙くずのように捨てたあの男の名が辺境伯の口から出た。
「私の繁栄を、宰相に、ご注進くださると?」
「せいぜい、首を洗って待っているがいい!」
辺境伯は吐き捨てると、五十騎を引き連れて来た道を足早に去っていった。今度は泥濘に沈むこともなく。ただ来たときよりもずっと小さな背中で。
無血で、また一つ脅威を退けた。だが、俺の胸は晴れなかった。
◇
「やったわね!」メイが駆け寄ってきた。「辺境伯を、剣も抜かずに、追い返しちゃった!」
「ああ。だが――聞いただろう、メイ」俺は辺境伯が消えた王都の方角を見た。「奴は、宮廷に、駆け込む。俺を切った、あの宰相のところへ」
メイの顔から笑みが引いた。
バルツァー辺境伯は所詮地方の一貴族だ。地図と水門で十分に抑えられる。だが、宮廷は――王国そのものは違う。
ガレオン・ロウ。財政のためなら、人ひとりの十五年をためらいなく切り捨てる男。あの男が、最果ての毒沼が王国一の交易都市に化けたと知ったとき。はたしてどう出るか。
「土は、嘘をつかない」俺は静かに言った。「だが、人は――特に、玉座に近い人間ほど、嘘で、土を塗り潰そうとする。次に来るのは、辺境伯みたいな、分かりやすい強欲じゃない」
俺は繁栄するオルテガの町並みを見渡した。この灯りを、この水を、この人々を守り抜けるか。
相手はついに――俺を捨てた王国そのものになろうとしていた。




