マナー
こんなことをして何の役に立つのだろう?
入社して半年が過ぎた頃、マナー研修なるものを会社から強制的に受けさせられた。その間ひたすら頭の中で渦巻く、先の疑問。
事前に配布された文書には、自由参加なんて文言が踊っていたが、あんなものは嘘。建前。アリバイ作り。
あくまでも個々人が自らの意思により、望んで参加しましたよという扱いにしたかっただけ。
「バッカだなぁ〜。海外赴任した時とか役立つじゃんかー」等と言っていたアイツは、研修を受けて二か月もしない内に退職した。ご立派なこと言いやがってと蔑みつつも眩しく感じていた俺を、ただただ恥ずかしく思い出すばかり。
納得せぬまま消化した俺の社歴は、とうに十年を過ぎた。もはや押しも押されぬ中堅さん。拒みに拒んでいたのに、気が付けば課長なんて立場。
しかも来月には結婚だと。これまた押し切られるような形と言うか、流されていたら決まっていた。嫁に聞かれたら、何と罵られるか。
つまりまあ、何が言いたいか。
世間的には幸せな生活を手に入れた、真っ当な人間ってわけである。
そんな自分が何故、十年以上前に受けたマナー研修について考えるのか。
あの研修があったから今がある。……と言う話では、無い。当然だ。
たかだか一週間足らずの研修、何なら今までほぼ忘れかけていたくらいだ。研修後に辞めた例のアイツも、名前さえド忘れしたからこそアイツと呼ぶ他ない程に、遠い遠い記憶。
それなのに今、こうしてマナー研修を思い出している。
何故なら、ついに役に立ちそうな機会が到来したから。
静かに。
クワイエット。
Quiet。
いやいや、何だその唐突なカタカナ表記は。等と壁や床どころか天井にも書かれた単語に、内心でツッコミを入れていたのは一体、何時間前のことか。
とは言え実際には一時間すら過ぎていないとしても、驚きはしない。
何せここは夢の中だから。
正確には、夢の中だと思われるから。
そうでないならば、だだっ広い試験会場のような場所で延々とスープを飲み続けるなんてこと、あるはずがない。
少なく見積もっても数百人の人間が、各々の席を与えられていた。整然と並べられた机と、パイプ椅子。
気づいた時には着席していたし、スープを飲んでいた。何ら説明を受けたりしていないにも関わらず、である。
まさに夢らしい夢。
なんてことを考えていても、半ばオートマティックに腕は動く。体に刻み込まれていたらしい。スプーンを持った右手が口元と、スープ皿の間をある間隔のもとに往復している。
問題は飲めども飲めども器のコンソメスープらしきものが尽きぬことでも、味が変わらないことによる飽きでもなかった。静かに飲み続けなければならないこと。それこそが問題だ。
カチャ。
斜め後ろの方、どこかで誰かがスプーンを皿にぶつけた。微かな物音でしかないし、きっと通常ならば聞き取れない。
それでも、今は。
ここでは。
ある意味では、爆弾の爆発にも等しい、激しい轟音。
「ち、違っ。違うんですっ!」
バクンッ。
音を立てるとどうなるのか。天井の一部がズレて、何かが飛び出してくる。
バキッ。グチュッ。
その巨大な生物の頭部のような何かが、本当は何なのかは分からない。
グチュ。グチャ。
何度か目撃してはいるが、あまりに素早くて見えなかったからだ。
ゴキュン。
ただ、天井から飛び出してきた何かに、連れ去られるのは間違いない。
正直なところ捕食されているのだろうが、あまり考えたくはなかった。
それでも天井裏で何者かが立てる物音は、この静かな部屋では嫌でも聞こえる。天井裏は一続きの空間のようで、とても良く響く。恐らく、どの座席についていようと聞こえてしまうだろう。
そんな恐怖の中でも、静かにスープを飲む。ひたすら飲み続ける。
いつ終わるのか、そもそも終わりはあるのか。
そんなこと、分からない。
何度か、これは夢なのだから大丈夫だと考えた。仮に何かに食べられても、どうせ夢。悪夢だし、不快ではあるが、目覚めれば終わる。
ところが、体に染み付いたマナーが俺にそうさせない。
早くこの悪夢から目覚めたいのに。鬱陶しく思う一方で、どこかそれが正しいことのように感じる自分もいた。
これは単なる夢でなく、何かに食われれば終わり。本能や、直感は既にそちらの意見に傾きつつある。
もしも杞憂で無いならば、悔しいが研修に感謝する羽目になるかも知れない。
「検体、Jの568番、反応良好。グリーン維持時間、八分経過」
「あらら、思ったより良いわね。今年の生徒たちは」
「ですね。まぁ、ほとんどがストレートに進学し卒業したようですから」
「若いに越したことはないわね。染めるには」
嘘ではなかったが、正しいとも言い切れなかった。一発で染められなかったからこそ、彼らはこうして教育されている。
もしも本当に染め易いのだとすれば、そもそもこのような教育を受ける羽目になどならない。
「それにしても、ここのコーヒーは微妙ね」
マグカップを無造作にデスクに置いた瞬間の、違和感。
完全なる無音。
姿勢を変えても椅子は軋まない。
キーボードを打鍵しても、音は鳴らない。
ここにあるのは、会話する声だけ。あらゆる物音は、消えていた。
「マナーを身につけるとはどういうことか、そろそろあの子たちにも分かる頃かしら?」
「ええ。成功した自分や、危機的状況すら切り抜けられることを脳に刻まれれば、嫌でも分かるでしょう」
「骨身にしみて、ね」




