小比賀由美⑩
この上なく気持ちは沈んでいた……。
新学期が始まって二年生になった私は、今……失意のどん底にいる。小林君と過ごした日々を思い出す度に、どうしようもなく寂しくなって、トイレにこもっては一人、泣く日々が続いた……。
美術準備室は綺麗に片付けられて、空っぽになっていた。もう二度と、ここで小林君と語り合うことはない。抜け殻のようになってしまった美術準備室は、そのまま、私の心を表現した作品みたいだった。
小林君が最後に描いてくれた私の絵は、想像を絶する出来だった。本当はたくさんの人に見てもらいたかったのに、小林君の絵が上手すぎて、そこに描かれているのが私だってバレバレだから、恥ずかしくて見せることも飾ることもできなかった。それがとっても悔しくて、せめてもの思いでハルカにだけは見せた。ハルカは絶句して、「あたしも描いて欲しかった……」って悔しそうに呟いていた。
小林君から送られてきた絵には、手紙も添付されていた。
『目は見えなくなるけど、君の素晴らしい演奏を聴くことはできます。だから、トランペットは続けてください。いつか再会するためにも』
……これが、小林君からの最後のメッセージ。そしてこの手紙は、私の心に「もう一度トランペットを頑張りたい」という気持ちをふつふつと蘇らせた。何日も悩んで、考えて……。私はついに、吹奏楽部へ戻る決心をする。小林君もいない今、私の居場所はそこしかない。
「平井先輩、私にもう一度……チャンスを下さい……。お願いします」
放課後、私は約8ヶ月ぶりに、トランペットのパート室を訪れた。当然だけど塚原先輩はもういなくて、仮入部期間前だったから一年生もいない。そこにいたのは、もちろん平井先輩だけだった。
「戻ってきてくれて有り難う、ユミちゃん。むしろこっちがお願いしたいくらいだ。……僕一人じゃ、とても回せないよ。本当に有り難う」
あの日、必死に引き止めてくれた平井先輩を強引に振り払ってしまったのに、彼は私を受け入れてくれた。塚原先輩がいたら、絶対怒られたんだろうな……。そんな先輩も、今は恋しく感じる。
8ヶ月のブランクはそれなりに大きくて、以前のレベルを取り戻すには相当の努力が必要だとすぐに分かった。きっと、新しく入ってくる一年生もほとんどは経験者だ。高一で4ヶ月ちょいしかトランペットを吹かなかった私なんて、既に追い抜いてるかもしれない。
「ラッパファーストォ!! 頭の音外すんじゃねぇ!!」
「だぁめだ、今のところお前だけやれ!! ……ちぃがう!! 合ってねぇ!!」
「高音がかてぇよ!! アパチュアが狭すぎなんだよファースト!!」
「走るな、指揮見ろぉっ!! 譜面ばっか見てんじゃねぇよ!!」
……久しぶりに合奏練習に出たら、これでもかってくらい怒られまくった。みんなは去年の定期演奏会で一度経験してる曲だったから、なおさらミスが目立って……。悔しくて、涙が出てきて、でも先生に注意されて泣いちゃう女子は多いから、容赦なんてされない。
体が震えて勝手にビブラートがかかるわ、堪えた涙が鼻から出てきて、マウスピースと唇の間に流れ込んで意味不明な音になるわ、もうボロボロのぐっちゃぐちゃ。……それでも私は、諦めなかった。
好きなことができるんだもん、どんな状況になったって私は幸せ者だ。ここでまたすっぽかしたら、小林君に会わせる顔がない。小林君だって言ってたもんね。ユミがトランペットを辞めなければ会える……って。志半ばで失明した彼のためにも、絶対挫けちゃダメ。
後輩が本入部する頃には、ずいぶん勘を取り戻せていた。だけど、必死になりすぎた私は周りが見えなくなってて、塚原先輩の比じゃないくらい、後輩に厳しい鬼先輩になってしまっていた。
その結果、後輩達からは陰口の嵐にさらされた。私は、厳しくすることといじめることは違うと思ってる。正直、塚原先輩は苦手だったけど、彼女の指導は的を射ていて、そのお陰で間違いなく上達できた。先生だって同じ。どれだけ厳しくされても、悪口を言おうなんて思ったこともない。だから、後輩の心理が分からなかった。
きっと、私が不器用すぎて、想いが届いてないだけなんだ。そうだとしたら、陰口を言うな……なんて注意しても無意味。陰口にはずっと気付いていたけど、何も言わずに黙って耐えた。
そんな私を支えてくれたのは、平井先輩だった。彼は、いつだって私の味方をしてくれた。ずっと私のそばにいて、私を励ましてくれた。相変わらずのイケメンで、後輩達からもモテモテだったのに、先輩は私だけを見てくれて。私の悪口を言う後輩を、叱ってくれることもあった。
もともと平井先輩のことが大好きだった私は、もっともっと大好きになった。スマホデビューしてからは連絡先も交換して、毎日遅くまで色んな話をした。そのお陰で、少しは心も癒えた。
それでも、日々激しくなる陰口に、私のメンタルは限界を迎えてしまった。平井先輩に打ち明けたら、次の日に緊急ミーティングを設定してくれて、そこで先輩は後輩達を思い切りたしなめた。
「みんな、ユミちゃんの悪口を言ってるみたいだけど、正直、ユミちゃんは何も間違ってないよ。どうしてユミちゃんに厳しくされるかわかる? 君たちが下手だからだ。そこから目をそらして、悪口言って現実逃避するような腰抜けに、期待なんてできないね。やる気がないんだったら、とっとと辞めろよ。吹奏楽はチームプレイだ。陰口を言い合ってるようなチームが、良い成績を残せるはずないだろ?」
……この日を境に、私の陰口を言う後輩は、誰もいなくなった。
その後、平井先輩は引退して、私が部長になった。この一年で、私は本当に強くなったと思う。小林君のことは今でも寂しいけど、ただ泣いて寂しがるだけの私はもういない。いつか彼と再会したとき、立派な姿を見せてあげるんだ。そう、頑張れるようになっていた。
そして、平井先輩との恋も、順調に育んでいった。私が3年生になって先輩が卒業しても、先輩は私の悩みをいつも聞いてくれて、休日はデートすることもあった。私が音大に進んでからは、発表会とかコンクールとかには欠かさず駆けつけてくれて、いつも応援してくれた。私はごく自然に、そんな先輩との結婚を意識するようになった。
「ユミ、大学を卒業したら……僕と結婚してくれないか?」
そして、大学四年生の私の誕生日に、平井先輩は……私にプロポーズしてくれた。私はもちろん、二つ返事で受け入れた。
……この頃までは本当に幸せだったし、こんな幸せがいつまでもずっと続くんだって、私は何も疑わずに思ってた。だけど。
「卒業したら私、プロの演奏家目指して、コンクールとかオーディションをたくさん受けようって思ってるんだ。応援してくれるよね?」
「……ユミ、もっと現実を見ろ。プロの演奏家で食っていける人なんて、ほんの一握りだ。僕は、ユミに定職に就いて働いて欲しい」
……結婚してからの先輩は、私の意見をぜんぜん聞いてくれなくなった。そりゃ、先輩の言うことも一理あると思う。だけど私は、どうしてもプロの演奏家を目指したかった。だから、音大を卒業した後はひとまず大手音楽教室の講師として働いて、水面下で色々なコンクールに応募した。結果を出せば、彼も納得してくれると思って。
「ねぇねぇ光彦くんっ!! 私、ソロコンで優勝したよ!! もう、色々なところからオファー貰ってね、それで……」
「……え? そんな話、今初めて聞いたんだけど。僕に相談もしないで、何勝手なことやってるの?」
……だけど彼は、私がソロコンで優勝しても、何も喜んでくれなかった。
「ご……ごめん……。私やっぱり、プロの道諦めきれなくて……。光彦くんに言ったら反対されると思ったから、言えなくて……」
私は悲しくなって、そう言い訳した。……直後。彼に、思い切り平手で頬を叩かれた。パァンという乾いた音が辺りに響いて、私の鼓膜が「キーン」と唸った。……突然のことすぎて、頭が真っ白になった。
「どうして言ってくれなかったんだ? 僕たち、夫婦だろ? 僕は寂しいよ。ユミが目指したいなら、応援するに決まってるじゃないか」
その後すぐに抱きしめてくれて、びっくりしたけど、彼も私を愛してるからこそ悲しかったんだって、そう思えた。そして、彼に何も相談しないで勝手に行動してしまった自分を、責めた。
その後私は、色々なところから演奏の依頼を頂くようになり、アルバムをリリースしたり、演奏ツアーを開いたり、急激に忙しくなった。オーケストラで演奏することも珍しくなく、充実した毎日だった。
でも、それと反比例するように、彼との生活は辛く苦しくなっていった。今まではぜんぜんそんな素振りもなかったのに、今はちょっとしたことですぐに手を上げてくる。私は、人前に出る仕事だから顔だけはヤメテって、彼に懇願した。それでも、二日に一回くらいは平手でビンタされた。……たまらなく悲しかった。
きっと、そんな生活からたまったストレスが原因だったんだと思う。結婚して2年目に彼との子を授かったのに、無事に出産することは……出来なかった。彼は、無理に仕事をしたせいだと言って、そんな私を容赦なくいたぶった。
ある日、サランラップの在庫が切れていたことに腹を立てた彼が、怒りに任せてサランラップの芯を思い切り私に振り下ろしてきた。私が顔をかばうように咄嗟に手を出したから、芯は私の左手首に直撃した。激痛が走って、私はその場にしゃがみ込んだ。
「……ダメだろ、消耗品はしっかり把握してないと」
翌日にコンサートを控えていた私は、仕事だって言って家を飛び出した。……でも本当は、辛くて我慢できなかっただけ。コンサートの日程と被って、本当に良かった。これで、最低一日は彼と過ごさなくて済む。……でも、そう思う自分にも、どこか罪悪感があった。
……そして。そのコンサートで私は、彼と……再会することになる。




