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小比賀由美⑨

 ハルカに心の内を吐露できて、私は少しだけ、前向きでいられるようになった。その後はいつものように放課後小林君の隣に座り、彼の絵を眺める日々が続いた。……束の間の幸せだったように思う。


 ハルカに、「小林君の前で裸になることは、ユミからのプレゼントとして十分成り立つよ」と言われたものの、いざ小林君を前にしたら……そんなこととても出来そうになかった。ハルカの言う通りだ。


 決断が出来なくて迷った気持ちのまま時間だけが過ぎて……。いつの間にか外は暖かくなり、桜のつぼみも膨らみ始めていた。小林君の目はどんどん悪くなり、今はほとんど手元にある画材しか探せない。代わりに私が、手術の助手みたいに、小林君が言った絵の具のチューブや筆、鉛筆を探して、彼の手に乗せてあげている。


 ……小林君が突然学校に来なくなってしまったのは、それから間もなくだった。今日で最後だとか、そんな言葉も一切なく……。


 この頃になって初めて、担任の先生から小林君が転校することを伝えられた。彼が来なくなったのは、そのための準備や検査をしているかららしい。そういうことなら、もっと早く言って欲しかったのに……。


 その後も小林君に会えないまま、ついに3学期が終わってしまった。もしかしたら、もうずっと……会えないのかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられた。だって、最後に何を話したのかも覚えてないんだよ? 小林君が何も言わないから……!!


 もう一度、もう一度だけ小林君に会いたい……!! そんな気持ちで、春休みになってからも私は毎日学校へ通い、美術準備室の引き戸に手を掛けた。……だけど、引き戸にはいつも、鍵がかかっていた。


 本当にもう、会えないのかな……。せめて、小林君の絵……全部貰っておけば良かったな。小林君なら、くれたかもしれない。今さらそんなこと考えても、何もかもが遅いのに……。


 その日も私は、学校へ行っていた。3月にしては温かく、空気も美味しくて、気持ちのいい日和だった。一年前、大きな期待を胸にここへやってきたことを思い出して、切ない気持ちがこみ上げる。


 誰もいない生徒玄関から学校へ入り、廊下を抜けて美術準備室の前に立った。一回深呼吸してから、引き戸に手を掛ける。今日もきっと、開かないんだろうな……、そんなことを思いながら。すると……


「……えっ?」


 ガラガラッと、扉は抵抗なく動いた。一気に心臓の鼓動が早くなる。うそ、鍵が……掛かってない。まさか、今日こそ彼はこの中に……!!


「小林く……」


 満面の笑みを浮かべて引き戸を全開にした私の顔は、準備室の中を見た瞬間にサァッと青ざめた。瞳孔も、かぁっと大きくなったと思う。部屋にかざってあった小林君の絵の全てが、黒いペンキのようなもので……ぐちゃぐちゃに塗りつぶされていたのだから。私の腰はすーっと落ちて、準備室の入り口でペタンと両膝をついた。


「どうして……」


 小林君がやったってこと……? そうだよね、それしか考えられない。自棄になってしまったんだ、きっと。私は、彼も、彼の作品も……、何も守れなかった。ただそばにいて、「スゴイスゴイ」って言ってただけの、うるさくて目障りな女子生徒……。きっと私は、そんな存在だったんだろうな、彼にとって。


 一番近くにあったキャンバスを手に取り、呆然と見つめた。黒いインクの隙間から見える部分的な色を見て、これがあのシクラメンの絵であると悟った。……あんなに……美しかったのに。


 私は泣いた。死んでしまったこの絵達の断末魔の叫びと、それに聞き耳を立てることもなく、無慈悲に絵を殺してゆく小林君の姿を想像しながら……。我が子を育てきれなくなった母親が、心中という道を選んでしまったときのように、彼は自分の「子供達」を、皆殺しにしてしまった。……そうだとしたら、彼は? 小林君は、今どこ?


 私の心に、大きな黒い不安が、じわじわとわき上がる。心中……。子供を殺したら、次は……。次に死ぬのは……誰? ……まさか。


 小林君は……どこにいるの? ここが開いてるってことは、学校には来てるんだよね……? まさか……違うよね……? たまたまいない……だけだよね……? たまたま……


 その時。私は、見つけた。生き残っていた、彼の「子供」を。

 

 正確に言うと、殺されそうにはなっていた。キャンバスの端っこには、黒いインクが少しだけついていたから。……だけど、彼は思い留まってくれたみたい、この絵だけは。


 私をモデルにした、この絵だけは。


 私は、その絵をひったくるように手に取って、美術準備室を飛び出した。……今さらだけど、結構大きな絵だ。小林君の作品の中では、一番大きいのかもしれない。A2……くらいはあると思う。


 小林君がどこにいるのかは分からない。でも、校舎の中じゃないと思った。こんなに天気がいいんだから、きっと外にいる。今日はほとんどの部活が休みらしくて、校庭は閑散としていた。人影はないから、誰かがいればきっと、それが小林君だ。私は、絵を抱えて走った。


「こ……ハァ……こばハァハァハァ……こばやハァ……しハァ……」


 体力も限界に近づいて、諦めかけた頃……。中庭の大きなモミの木の根本で、体育座りしている小林君を、私は見つけた。小林君が、美術準備室の窓からいつも眺めていた、あの大きなモミの木……。


「心配……ハァ……したんだよ……ハァハァ……」


 中腰になって息を整えながら、私は言った。一瞬、目を丸くして驚いた表情をした小林君は、私を見るとすぐに表情を和らげる。


「ユ……ユミ……? ひ……久しぶりだな。ごめん、何も言えなくて。突然色々予定が入っちゃってさ。言うタイミングがなかったんだ」


 落ち込んでいるふうでも、思い悩んでいるふうでもなく、ごく普通に彼はそう答えてくれた。


「よか……った、まだ……見えてるんだ……」


 彼は寂しく微笑んで、「ギリギリな」……とだけ答えた。そして、私の持っているキャンバスを指さしながら、「それは?」と尋ねる。私はキャンバスをひっくり返して、絵が描いてある方を彼に向けた。彼はまた、目を丸くした。


「……ソレ、わざわざ持ってきたの? ……ハハ、ってことはユミ、美術準備室行っちゃったんだ?」


 そう言いながら立ち上がって、私の方へ歩いてくる小林君……。


「……なんで、あんなこと……。酷い……よ……。私、あの絵……どれも大好きだったのに……」

「アレは僕の新しい作品。視力を失って闇に埋もれて行く世界を、自分の絵を使って表現してみたんだ。つまり、僕の第一歩ってこと」


 そして小林君は、ポンと私の頭に手を乗せてから、ニコッと笑った。彼の言葉が芸術的過ぎて、それがウソなのかホントなのか、私には分からなかった。


「じゃあ……、コレはどうして……このままなの?」


 私がそう尋ねると、彼は顎をさすりながら「う~ん……」って唸って、少し間をあけた後に言った。


「それはユミにあげると約束していたから、勝手に手を加えるのはマズイかな……って思って。……それに、失明してもユミの顔だけは……闇に埋もれない気がしたんだ」


 私に目を合わせて、イタズラっぽくはにかむ小林君。……その笑顔を見た瞬間に、ぶわぁ~って、滝のように私の目から涙が溢れ出した。


「お……おい、そんなにガチで泣くなって。……ってか、なんでユミが泣くの? 失明して悲しいのは、僕じゃん?」

「そうだけど……そうだけどっ……!!」

「ハハッ、やっぱカワイイよ、ユミは。ソレ、完成させてやるから僕に貸して。約束だったもんね。あ、服着ててもいいよ、ユミは特別。そこのモミの木の前に、後ろで手を組んで寄りかかって」


 はいはい、じゃ、準備して~……と、なんだか一方的にキャンバスを取り上げられ、背中を押される私。突然の出来事に戸惑いながらも、私はモミの木の方へ向かって歩いて行く。


「目が見えてるうちの最後の作品が、ユミになるとは思わなかったなぁ」

「最後……って、もう……見えてる間は描かないの……?」

「たぶんね。もういくらも見えてないし、そもそも明日から引っ越しするんで、忙しくなるから。絵なんか描いてる暇、ないと思う」

「……えっ? 引っ越し……?」

「うん、僕の病気、なんか珍しいらしくて、専門機関が調査してくれることになったんだ。だから、そこの近くに引っ越すことになってさ」


 そんな……。彼が、目で直接見て描く絵は、コレが最後……。


「……私、小林君になんにもしてあげられないのに、なんにも出来なかったのに、何で私の絵なんか……描いてくれるの……?」

「ユミと過ごした毎日は、僕の宝物だ。何もしてないなんてこと、ないよ」

「でも、だって私、服……着てるのに……? 人工的なものを描くのは、嫌なんじゃないの……?」

「もういいんだ、それは。ユミは別に……服着てても綺麗だしね」


 ……ウソだそんなの。だったら、その絵はとっくに完成してる。きっと、私に気を遣ってるんだ。私が恥ずかしがると思って、嫌な思いをすると思って、だから彼は……。本当は服なんて描きたくないんだろうに、無理してあんなウソを吐いてるんだ。全部私のために。


「……脱げるもん」


 私は覚悟した。ずっと出来なかった覚悟を、今……決めた。彼に、服を描かせたくない。私よりも何百倍も辛い思いをしてきて、しかも私の無理なお願いまで聞いてもらってるのに、その私に気を遣ってどうするの? こんな時くらい、もっと甘えなくちゃだめじゃん。


「……は? ぇ? ここで……?」

「……うん。私だって、最後に描きたくないもの描いて欲しくない。一番描きたいものを描いて欲しいし、それくらいの我が儘、聞いてあげるって言ってんの。私にはそれくらいしかできないから!」


 そんな空強がりを見せつつ、私はさりげなく辺りを見回した。こんなところで脱いで、大丈夫なんかな……。実際は、それが本心だ。


「い……いや、無理しなくていいよ……!! 気持ちは有り難いけど、ここ……外だし……。もし誰かに見つかったら……」

「さっき校庭を走り回ってきたけど、誰もいなかったよ。ここなんて中庭だし、絶対誰も来ないもん!」

「いやいやいや、それでも……」

「うるさいなぁ、服なんか着てたら、小林君の絵は生きないでしょっ!! あのシクラメンの花の絵、本物よりも好きだった。何でだと思う? 絵は、鉢植えじゃなかったからだよっ!!」


 たぶん、今までの人生でこんなに強がったこと、無いと思う。強がりというより、ほとんどヤケクソも同然。誰かに見つかったら開き直っちゃえって、もうその域に到達するレベルで……。


 一旦モミの木の後ろに隠れて、ブラウスを脱ぎ、震える手でスカートのホックを外した。まだ下着姿なのに、既に死ぬほど恥ずかしい。でも、ここで躊躇しちゃダメ。ぎゅって目を瞑って、ブラもショーツもひと思いに脱ぎ捨てた。大人の魅力なんて皆無の体が、露わになる。羞恥心? 何それ美味しいの? 私、そんな言葉知らないんですけどっ!!


「こんな私でいいんだったら、どうぞ好きなだけ見てくださいっ!!」


 恥じらいを誤魔化そうと、無闇に大きな声を出しながら彼の前へ飛び出した。暖かい春のそよ風が、イタズラするようにそっと私の無防備な体を撫でていく。刹那、あり得ないような背徳感に襲われて、気持ち悪いくらい鼓動が早くなった。膝がガクガクして、全身が汗ばんで、瞳もじんわり潤んでくる……。今にも壊れてしまいそう……。


 彼は、小林君は、どんな気持ちでこんな私を見てるんだろう。想像通りだったのかな? それとも、期待外れだったのかな……? 


 とてもじゃないけど彼を直視できなくて、足下で可愛く咲くタンポポを見つめた。手は、彼の要望通り後ろに組んでて、だから、小林君には全てが曝け出されてる。好きって言ってくれた男の子の目の前で、なんてかっこしてるんだろ私。そう思うと、頭がカーッて熱くなった。


 ……そんな彼は、裸になった私を前にしても、全く動じてないようだった。何の感想もない。からかうこともない。恐る恐る顔を上げると、食い入るように、夢中になって筆を走らせている彼の姿があった。あんなに真剣な表情の小林君、見たことない……。


 そっか、今の私は……小鳥や花と一緒で、小林君にとっては「美しい自然の一部」でしかないんだ。キャンバスの中に「もう一人の私」作り上げて行く彼を見ながらそう思うと、少しだけ気が楽になった。


「……ありがとう。あと、お疲れ様。もう、服着ていいよ」


 途中から意識がふわふわして、半分夢心地になっていた私は、その声で現実へと引き戻された。我に返って、ゴキブリ並みの速度でモミの木の後ろへ逃げ込む。一体、どのくらいここに立っていたんだろう……。退場した私は、それこそいつもの12倍くらいの猛烈な勢いで服を着た。ここまでの人生で、自己新記録をたたき出したに違いない。


 服を着てから、とんでもないことをしてしまったという罪悪感に飲み込まれた。同時に、思い出したように恥ずかしさがこみ上げてきて、なかなか小林君の前に出られない。そんな私に小林君は……


「……ユミ、本当に本当に有り難う。僕の目は、君を一生忘れないよ」


 背後からそっと、優しく言葉をかけてくれた。私はたまらなくなって、モミの木から飛び出すと、その勢いで小林君に抱きついて泣いた。


 これで終わっちゃうんだ……そう思うと、苦しくて仕方なかった。2年生になっても、今まで通り美術準備室で話したかったのに。困ったように笑う彼の目頭からも、一筋の涙が……伝っていた。


「実は、まだ完成してないんだ。仕上げはウチでやろうと思う。出来たら、ユミの家に送るから、住所……教えてくれないかな?」


 落ち着いてきた私の頭をそっと撫でながら、小林君は言った。


「そんな迷惑……かけられないし、私が取りに行くよ……」

「むしろそっちの方が迷惑だって。引っ越しとかで忙しいんだぜ?」


 小林君はキャンバスを抱えて微笑んだ。その笑顔は、……もう悲しそうじゃなかった。


「僕、ユミのお陰で色々吹っ切れた。もう見えなくなることに恐怖なんかない。終りよければすべてよし。そうだろ?」

「……だめだよ。せめて、その絵を完成させてから見えなくなってよね。じゃなきゃ、裸になった甲斐が……ないもん」

「ハハ、そうだったな。この目にはまだ、働いてもらわないとか」


 そう言うと、彼はくるっと私に背を向けて、歩を進め始めた。


「小林彰人くんっ!! もう……ここには来ないの……?」


 私が大声で呼び止めると、彼は立ち止まって斜め上に首をかしげた後、私の方へ振り向いてから……ごく普通に答えた。


「明日から引っ越しだからね。準備室も、親父と今日中に片付ける」

「……じゃあ……もう会えないのかな……?」

「会えるよ、ユミがトランペットを辞めなければ、必ず。ただ、その時は僕……、この一年のこと、何も覚えてないかもしれないけど」

「……えっ? なんで? どうして……?」

「……治療の副作用……かな。でも、記憶が無くても僕は僕だよ。それじゃあ、またいつか。僕を見かけたら、声をかけてね」


 ……そんな意味深な言葉を残して。彼は……私の前から、消えた。

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