小林彰人⑧
塚原さんが美術準備室を訪れた翌日の昼休みは、小比賀が来てくれた。何も知らずに笑う小比賀の横顔を見ながら、昨日塚原さんから聞いた話を、頭の中で反芻する。
『彼と一緒になってしまったら、彼女の人生はお終いだと思う』
……そんなこと、言われても。僕は、どうすればいいんだ? 果たして僕に、彼女を引き止めるだけの魅力があるんだろうか……。
「小比賀って、絵は描かないの? 吹奏楽部だから、芸術的なセンスもありそうな気がするけど」
「残念ながら、絵のほうは全然……。音楽も、小林君みたいに才能あるわけじゃないし……。あと、私のことはユミでいいってば」
話を絵の方向へ持っていこうと思っても、なかなか上手く行かない。おび……いや、ユミは僕の絵を見て感動はしてくれるけど、ただそれだけで終わっているような気もした。一方で、その「平井」ってヤツとは、毎日部活で顔を合せ、音楽の話をし、仲を深めているのだろう。……勝てる気がしなかった。
しかも彼女は、僕の絵を見て僕と話しているうちに何かを悟ったらしく、「もっとたくさん練習して、いつかきっと小林君を感動させるような演奏をして見せる」……そう言い残すと、翌日からまったくここへ来てくれなくなってしまった。
……僕は、僕の絵を見に来て欲しいから、こうしてユミの好きそうな絵ばかり描いていたのに……。完全に、当てが外れてしまった。もちろん、ユミがトランペットの練習に励んでくれることは嬉しい。塚原さんも言っていたけれど、やっぱり彼女の演奏能力は秀でている。今の自分に満足することなく、高みを目指して欲しかった。
……でも、吹奏楽部へ行けば、例の「サイコパス」と顔を合わせることになるんだ。ユミがそいつに恋をしている以上、関係の加速は止められない。ユミを目覚めさせるには、ソイツと「会わせない」くらいしか、方法がないんじゃないか……。
じゃあ、そのために僕は何をすればいい? そうだ、中途半端になっていた「ユミの絵」を描き上げれば……。ユミも楽しみにしていたようだし、完成したらきっと、また来てくれるようになる。僕は早速、キャンバスをイーゼルにセットした。
だけど結局、描けなかった。いつもの制服を着た彼女を想像して鉛筆を走らせるも、納得できる絵に仕上がらない。何度も何度も、描いては消してを繰り返した。……ユミの美しさはこんなものじゃないだろう。どうしてそれを表現出来ないんだ、僕は……。
……理由は最初から分かっていた。そうだ、今僕が描こうとしているのはユミじゃない。「制服」だ。僕はここに、「ユミだけを」描きたかったんだ。余計な人工物を身につけていない、美しいユミだけを。
そんなおこがましい信念が邪魔をして、ユミの絵を描き上げることもできず……。焦りを感じながらも、時間だけが過ぎていった。
ユミが再び僕のもとを訪れたのは、最後にここで話をしてから3ヶ月が経った頃だった。その間に一学期は終わり、夏休みが始まっていた。僕は、ユミが来てくれるかもしれないというわずかな希望を抱きながら、休み中も毎日準備室へ通い、絵を描き続けていた。
「……あ、小林君……。いたんだ。夏休みだから、いないと思った」
だから、そんな一言と共にユミが現れたとき、僕は嬉しくて……。舞い上がる気持ちを抑え込むのに、必死だった。時刻は、16時くらいだろうか。部活帰りと思われる彼女は、スクールバッグを持ってきていた。
「……ちょっと絵、見てていい?」
部屋に入ったユミは、そう言って僕の絵を眺める。絵を眺めるユミを、僕が眺めた。大きくてつぶらな瞳に小さな鼻、ピンク色の唇……。いつもは低めのポニーテールをキメている彼女だけど、今日は縛らずに流してあって、それがまたいい。……本当に、綺麗な人だった。
それなのに、ユミの心は「ヤツ」のことでいっぱいなのだ。真面目で純粋なユミを、「ヤツ」はあの手この手で恋に落とし、自分のものにしようと企んでいるのだ。……チクショウ、想像もしたくない。僕の歪んだ心は、彼女が吹奏楽部へ行くことを激しく拒絶し始めた。
……僕は、彼女から彼女のスクールバッグへと視点を移した。そのバッグの左ポケットに、ユミが命の次に大切にしている「マウスピース」が入っていることを、僕は知っている。
……これが無くなれば、ユミは吹奏楽部へ行けなくなるんじゃないか。
この時僕を突き動かしていたのは、あまりにも短絡的な思考回路だった。ちょっと考えれば、マウスピースが無くなってもただユミが困るだけで、吹奏楽部へ行かなくなる理由にはならないことくらい、すぐに分かるはずなのに。
……馬鹿すぎる僕は、ユミが夢中で絵を見ているスキに……、スクールバッグのポケットから、マウスピースを……抜き取った。
「そろそろ帰えらない? ……途中まで、一緒に帰ろうよ」
そして、それを自分の鞄へしまい、何食わぬ顔でそんなことを言う僕……。このときはまだ、僕がやってしまったことの重大さに気付いていなかった。
「……明日、コンクールなんだ。高校入学して初めてのコンクールだから、緊張する……。失敗しちゃったら、美術準備室に駆け込むかも」
帰り道、自信と不安が入り交じったような表情のユミからそんな話をされて、僕はようやく目が覚めた。明日は、コンクール……? 言うまでもなく、吹奏楽部で一番大切なイベントだ。明日のために、ユミはこの数ヶ月間、死に物狂いで練習してきたのだろう。
「ユミなら大丈夫だよ。自信もって」
そう返したものの、僕は気が気じゃ無かった。……魔が差すタイミングが悪すぎる。そんな大事な日の前日に、僕は彼女の魂とも言えるマウスピースを、盗み出してしまったのだ。
バカで済む話じゃ無い。僕は何をやっているんだ? 早くこのマウスピースを返さないと、大変なことになる。……でも、どうやって? 今、僕がマウスピースを持っていることを、なんて説明すればいい? どう言い訳すればいい……?
いい考えが浮かばなくて、平静を装ってユミと話している内に……。返すタイミングを、失ってしまった。ユミは、自分の鞄にマウスピースが無いとも知らずに、無邪気な笑顔で……帰って行った。
……僕は、一ミリも弁解の余地が無い、最低のクズ人間だ。僕がマウスピースを盗んでしまったせいで何が起きたのか、詳細は分からない。分からないけど、ユミが積み上げてきたものを叩き壊し、絶望を与えたことだけは確かだ。……コンクールの翌日、ユミはボロボロと涙を流しながら美術準備室へやってきて、一言「吹奏楽部、辞めちゃった」と言ってきた。……僕は、怖くて何も聞けなかった。
……その日から、ユミは再び、準備室へ来てくれるようになった。……でも僕は、自分が何をやっているのか、分からなくなっていた。自分の大切な人から大切なものを奪い、奈落の底へと突き落としただけだ。僕は、彼女を幸せになんてしていない。……本末転倒だ。
僕の心から悔悟の情が消えることは無かった。正しいことをしているとは思えなかった。僕から視力を奪おうとしている神と、やってることは変わらない。僕は、彼女から音楽を奪ったんだ。
自分を責めて責めて責め続けていたある日、校内でばったりと……塚原さんに会った。僕は目を合せられなくて、咄嗟に顔を背けた。
「……なにか、私に後ろめたいことでもあるの? ……小林君」
僕の行為はすぐにバレて、すれ違い様に声をかけられた。声をかけられてから二歩ほど進んだところで、僕は立ち止まった。振り返ると彼女も立ち止まっていて、僕の方へ顔を向けている。……相変わらず、全てを見透かしていそうな澄んだ目をしていた。
「マウスピース隠したの、小林君でしょ」
黙っている僕に向かって、塚原さんは容赦なく言った。やっぱり、この人にはバレてたんだ……。
「……すみません。馬鹿なコトしたって……反省してます」
「そう。……確かに、あなたのせいで私の最後のコンクール、散々な結果になってしまった。そういう意味では、私はあなたを許せない」
でも……。塚原さんは、そう挟んでから続けた。
「これで、小比賀さんと平井君を引き剥がすことはできた。彼女があなたに恋をすれば、平井君のことも忘れてくれるかもしれない。……だから、総合的には……、私はあなたに感謝してる。ありがとう」
……そう言われても、僕の気持ちは微塵も晴れなかった。
「……自分でやっといて言うのもなんですが、本当にこんな方法しかなかったんでしょうか。ユミじゃなくて、平井の方を辞めさせることができれば……」
「無理だよ。彼は音楽じゃなくて女子のために吹奏楽やってるようなものだから、ちょっとやそっとじゃ辞めない。……それに、関わらないで済むなら彼とは関わらない方がいい。危ないから」
「……だけどユミは。本当に幸せなんでしょうか」
「それは、私たちには分からない。余計なお世話かもしれない。……でも、小比賀さんなら大丈夫よ。別にこんな高校の吹奏楽部じゃなくても、音楽出来る場所はある。彼女が本当に音楽をやりたいと思っていたら、いつか必ず再開するから。それまで見守ってあげればいい」
「……でも」
「……時には、必要な犠牲もあるんだよ」
塚原さんはそう言い残し、僕の前から去って行った。
確かに、ユミと平井を引き剥がすことはできた。でも、ユミの心が平井から離れたとは限らない。それに……。
……僕は今年いっぱいしか、ここにはいられないんだ。それでも僕は……彼女を幸せにすることが、できるのだろうか……。




