聖母の檻
荒野の奥深く、冷たいオイルの臭いが支配する聖域。
変貌を遂げた母・弥栄は、息子の首筋のプラグから「父の記憶」を流し込み続けていた。自分が自分でなくなっていく恐怖の中、少年は檻に囚われる——。
荒野の奥深く、岩肌を穿って作られたEXODUSの総本部。
そこは、陽光の届かない、冷たいオイルと埃の臭いが支配する聖域だった。
「……遅かったわね、ゼン」
広間の奥、通信端末の淡い光に照らされて、弥栄が座っていた。
30代後半となった彼女の美貌は、戦火に晒され、研ぎ澄まされた刃のように人を寄せ付けない鋭利さを帯びている。かつて審に向けていた柔らかな微笑みは、今や、完璧に計算された「指導者としての慈愛」に取って代わられていた。
「スクラップ漁りが長引いただけだ。母さん」
終は視線を逸らし、拾ってきた基板の袋を床に投げ出した。
弥栄はゆっくりと立ち上がり、終に近づく。彼女の手が少年の頬に触れた。その指先は驚くほど冷たく、それでいて、吸い付くような粘着質な熱を孕んでいた。
「……またその目。アキラも、よくそんな目で私を見たわ。理不尽な世界に、たった一人で抗おうとする、無力で美しい目」
終の背中に、冷たい汗が伝う。
弥栄が見ているのは、自分ではない。自分の瞳の奥に映る、15年前の「幽霊」だ。
「俺は父さんじゃない。……何度も言わせるな」
「ええ、分かっているわ。あなたは彼よりも優秀で、彼よりも壊れにくい。……私が、そう育てたもの」
弥栄の手が、終の首筋にあるスロットへ伸びる。
そこには、かつて恵留が審に刻んだものと同じ形状の、だがより洗練された「プラグ」が埋め込まれていた。弥栄は、毎日このプラグを介して、終の脳に「教育」という名のデータを流し込んでいる。
それは戦闘技術だけではない。審が見た景色、審が抱いた感情、審が成し遂げられなかった未練。
「やめろ!」
終がその手を振り払う。
「俺の頭の中に、他人の記憶を流し込むのはもうやめてくれ! 昨日の夜、俺は見たこともない駅のホームで死ぬ夢を見た。……吐き気がするんだ。自分が自分でなくなっていく感覚に!」
弥栄の表情が、一瞬だけ、真空のように無になった。
次の瞬間、彼女は終を優しく、だが逃げ場のない力で抱きしめた。
「ゼン、いい子ね。それは『成長』なの。あなたのDNAに刻まれた未覚醒のログが、ようやく審と同期し始めた証拠。……あなたは、彼が辿り着けなかった『答え』を綴るための、唯一のペンなのよ」
「俺は……道具じゃない……!」
「いいえ、あなたは『希望』。私がもう一度、彼に会うための、たった一つの福音」
弥栄の囁きは、甘い毒のように終の耳から脳へと浸透していく。
終は、抱きしめられながら、自分の指先が微かに「駅のホームで飴玉を待つ男」のような動きをしようとするのを自覚した。
血が、螺旋をなして逆流する。
弥栄の愛情という名の管理は、かつてのGEHENNAよりも深く、終の精神を侵食していた。
その時、拠点の警報が鳴り響いた。
15年間沈黙していたはずの「旧ロゴス」の自律兵器群が、特定の波長——終の脳波に反応して、一斉にこの場所を目指して進軍を開始したのだ。
「……来たわ。審を愛した世界が、あなたを迎えに来た」
弥栄は、恍惚とした表情で終の肩を掴む。
終は、自分の意志とは無関係に、背中の「遺産(大剣)」へと手が伸びるのを感じた。
母の愛という檻の中で、終は自分を殺し、英雄の影を演じるための戦場へと引きずり出されていく。
弥栄の囁きは、甘い毒のように少年の脳を侵食していく。
終の脳波に反応し、15年前に沈黙したはずの『旧ロゴス』の兵器群が動き出す時、少年は父の遺産を握り直す。次回、防衛戦の幕が上がる!




