九、王都の闇 2、
「おねさま!まちに、いくですか!?」
貧民街へ視察に赴く日。
平民仕様の服装で現れたアイリーンに、カイルが瞳を輝かせた。
「そうなんだけど。今日は、いつもとは違う場所に行くの」
「ちあう、ばしょ?」
アイリーンが平民仕様の服装で出かけるのは、街で事業関係の仕事があるとき、もしくはお忍びで街を散策するときと知っているカイルが、不思議そうに首を傾げる。
そして、そんなカイルを前に、アイリーンも困ったように首を傾げる。
困ったな。
貧民街のこと、カイルは未だ知らないのよね。
「おねさま。かいる、おしごとなら、いっしょいきたい、いわないよ?いいこにしてるよ?」
街は街でも、いつもとは違う場所と言ってしまったのは誤りだったと、アイリーンが途方に暮れていると、カイルがアイリーンのスカートを緩く引いてそう言った。
「うん、うん!カイルがいい子なのは、姉さまよく知っているわよ」
実際、五歳になったカイルは、未だ未だ甘えることもあるものの、随分としっかりなったとアイリーンは姉馬鹿なことを思う。
「おねさま。だいじょぶなときは、かいるも、いっしょ、してね」
「ええ!もちろんよ、カイル。今度一緒に、美味しい物を食べに行きましょう!」
「うん!」
抱き上げ、ぐるんと回れば『きゃあ!』とはしゃいだ声をあげるカイルが可愛くて、アイリーンは、そこが玄関ホールであることも忘れて、カイルと戯れた。
「アイリーン、カイル。僕も仲間に入れてくれる?」
「本当に仲良しだよね。ぼくも、兄上と仲良しになったけれど、未だ未だかな」
「カイルー!アシュトン兄様も来たぞ!」
「共に、体力の限界に挑戦するか?」
どれくらいそうしていたのか。
すっかりアイリーンの息があがるころ、楽し気な声がしてそちらを見れば、ブラッドフォードはじめ、今日約束をしている四人が居た。
そして、そんな彼らとアイリーン、カイルをあたたかに見つめる、この状況に馴染んだ使用人の姿。
はじめのころは、すっごく焦っていたのに。
もうすっかり慣れっこになったのね。
アイリーンがブラッドフォードと婚約し、クリスたちとも親しく付き合うようになったころ。
『ご婚約者様で公爵家のご嫡男がいらっしゃる、第二王子殿下がいらっしゃる。侯爵家、辺境伯家のご嫡男も・・・!』と、自分達が仕える伯爵家より格上の家の子息を迎えることに緊張して準備を整えていた彼らも、すっかりと肝が据わった。
もちろん、茶会など、きちんとした場所へ出かける時は、きちんとした挨拶から始まるので、その兼ね合いも備えている。
ほんとにみんな、有能よね。
「おにさま!こんにちは。くりすだいにおうじでんかにたまも、あしゅにさまも、もりすにさまも、こんにちは」
アイリーンが、にこにこと穏やかな雰囲気を楽しんでいると、カイルも大好きな彼らを認めて喜びの声をあげた。
因みに、カイルがブラッドフォード以外の面々のことも『おっにいしゃま!』と呼び始めた二歳のころ。
ドレイク伯爵夫妻は、真っ青になって何とか自分の息子の立場を理解させようと奮闘した。
身分について深く理解できずとも、不敬を回避する方法をなんとか探ろうとしたのである。
『カイル。お兄様と呼ぶのは、ブラッドフォード殿だけにしなさい』
『どして?』
『とても、失礼になってしまうからよ。きちんと、お名前でお呼びしましょうね』
『んと、おっにいしゃまっ、ってよぶの、めっ?』
『そうだ。めっ、だ』
『わあった』
『ふふ。カイルはおりこうさんね』
幼いながらも、こくりと頷いたカイルに、ドレイク伯爵夫妻も安堵のため息を吐いた、のだが。
『ねえ、カイル。カイルに『くりしゅらいにおうじれんか』なんて呼ばれるのは悲しいな。ちゃんと、クリスおっにいしゃまっ、って呼んでほしいな』
『俺も俺も!アシュトンおっにいしゃまっ、って呼ばないと、返事しないぞぉ』
『オレは、モーリスおっにいしゃまっ、だ。言ってみろ』
冗談めいた様子ながらも、本当に許さないという圧を受け、カイルは、ぱちぱちと目を瞬かせた。
『え?えと、えと。んと、おっとうしゃまっ、と、おっかあしゃまっ、が、めっ、って』
『ぼくが、いいと言うんだからいいんだよ。ほら言ってごらん。『クリスおっにいしゃまっ』だよ』
『・・・・・れも』
子供ながらに、親と違うことを言われ、混乱したカイルは独自の道を切り開いた。
それが『くりしゅらいにおうじれんかにたま』呼びである。
『にたま・・煮卵!』
そしてその初めての瞬間にアイリーンは叫び、この世で煮卵を作成するに至った。
「カイルがクリスを呼ぶと、煮卵たべたくなるんだよね」
「分かるー。俺、花の形とかになってなくていいから、半熟のやつがいい。丸ごと、がぶっといきたい」
ブラッドフォードが言えばアシュトンがすかさず答え、カイルもそこに参戦する。
「かいる、ひよこのがいい」
「あ、あれ可愛いよね。カイルも、ひよこさんかな?」
「かいる、とり、ちあう」
クリスに言われ、懸命に頭を左右に振るカイルの頭を、モーリスが笑いながら止めた。
「可愛い、とクリスは言っているんだ。オレも、そう思う」
「かあい?」
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
こてんと首を傾げるカイルは愛らしく、このまま楽しく話していたいけれど、今日は先方と約束もあると、アイリーンは名残惜しく言葉にした。
「そうだね。そろそろ出発した方がいいね。カイル、また遊びに来るからね」
「うんっ。おにさま、かいる、まってゆ・・る」
語尾があやしくなったことに気づき、言い直すカイルを優しく見つめたブラッドフォードが、優しくアイリーンの手を取る。
「んじゃ。面倒な仕事は、ちゃちゃっと片づけますか」
「用心しろよ。気を抜くな。オレらにとって、未知の領域なのだから」
「準備もしたんだ。大丈夫だろ」
皆、一様に街へ行くときお馴染みの、平民風の衣装でそんな会話をすれば、カイルが、心配そうにアイリーンを見上げた。
「おねさま。あぶないところ、いくですか?」
「大丈夫よ、カイル。はじめましてのところに、行くだけだから」
カイルの背に合わせ、しゃんがでその目を見つめ、心配要らないとゆったりとした口調で言えば、カイルが、にこりと笑う。
「はじめまちて・・なかよし、なれるといいね」
「ありがとう、カイル。仲良しになれるよう、姉さま頑張るわ」
「いってらったい!・・あ、いってらっしゃ・・い!」
可愛く手を振るカイルに手を振り返し、アイリーンは、ブラッドフォードと共に馬車へと乗り込んだ。




