第40話 鉄の雨
「そこ落とし穴!」
「う、うぉおおおあっぶねぇッ!?」
悲鳴は、髑髏森の湿った空気を切り裂くように響いた。
この森でのランニングは、鍛錬という名を借りた生存試験に等しい。足を踏み外せば終わり、判断を誤れば即座に命を刈り取られる――そういう場所だった。
先ほどルークが落ちた落とし穴は、氷山の一角にすぎない。地面の下には同じような罠が無数に仕掛けられており、森そのものが牙を剥いて待ち構えている。
どうやら、あの一件で完全に心を折られたらしい。
ルークは走りながら、常に足元へと視線を落としていた。枯葉の重なり、土の僅かな盛り上がり――その一つひとつを疑い、確かめるように。
だが、それが致命的だった。
下ばかりを警戒するあまり、横合いから迫る“死”への反応が、ほんの一拍遅れたのだ。
「――――あぶないっ」
俺の声が届くより早く、空気が唸りを上げる。
振り子のように振り下ろされた丸太が、容赦なくルークの身体を叩き飛ばした。骨を打つ鈍い音。吹き飛ばされた身体は、そのまま大木へと激突する。衝撃で弾かれた頭が幹に当たり、彼の目は一瞬で白目を剥いた。
俺は反射的に駆け寄り、胸元に手を当てる。
――脈はある。呼吸も、まだ途切れていない。
安堵する間もなく、視線の先が自然と引きつった。
そこには、縄で吊るされた無数の丸太が、まるで意思を持つかのように左右へ揺れ、行く手を封じていた。避ける余地は狭く、タイミングを誤れば次はない。
「も、もう……いやだ……」
頭部から血を流し、土にまみれたルークが、か細い声で呟く。
その瞳には、気力も反抗心もなく、ただ後悔だけが浮かんでいた。
きっと彼は今、数日前の自分――軽い覚悟でミネルバの弟子入りを願い出た、その瞬間を、心の底から呪っているに違いない。
「――ルーク、転がれ!」
叫ぶと同時に、息を整える猶予すら与えず、俺は動けぬまま硬直していたルークの襟元を掴んだ。考える前に身体が跳ぶ。理屈より先に、死の気配が背中を押していた。
「ひぃっ!?」
次の瞬間、さっきまで俺たちが立っていた地面に、鉄の槍が深々と突き立った。
乾いた金属音が森に残響し、槍の穂先が震えながら静止する。
それを目にした途端、ルークの顔から血の気が一気に引いた。唇は紫がかり、歯の根が小刻みに鳴っている。
「こ、こんなの……修行じゃねぇよ……っ! さ、殺人だ! あのクソ女……イカれた殺人鬼だったんだ!」
その言葉に、反論する気にはなれなかった。
正直に言えば、俺も同意見だ。
これは常軌を逸している。
――だが。
今は、そんなことを言っている場合じゃない。
なぜなら――
「いいから走れ、ルーク!」
「なんなんだよ、畜生っ!!」
空が、殺意を孕んでいる。
次々と降り注ぐ鉄の槍が、雨のように地面を穿つ。しかも無差別ではない。
俺とルーク、その二人だけを、執拗なまでに正確に狙って。
「お前たちがサボっている、とあたしが判断したら――槍を投げる。
お前たちは全力で避けろ。当たった場合は……自己責任だ!」
遥か彼方から、山彦のように反響して、ミネルバの声だけが届く。姿は見えない。それが余計に、逃げ場のなさを際立たせていた。
自己責任……?
ふざけるなよっ!
「止まるな、ルーク!」
「わ、わぁってるよ……っ!」
一歩止まれば死。躓けば終わり。
ミネルバが用意した罠と槍が、俺たちの進路を容赦なく削り取っていく。
そして――現在。
「に、逃げるぞ……ロイド……」
叫びすぎて声が擦れきったルークが、地面に手をつき、膝を震わせながら呟いた。
それは相談でも命令でもない。生き物としての、本能的な降伏宣言だった。
「――どこへ行くつもりだ?」
背後から、氷の刃を滑らせるような声が落ちてきた。
「――――!?」
逃走を図ったルークの身体が、目に見えて硬直する。
ほんの一瞬だった。ほんの僅かな隙を突いたつもりだった。だが、その程度の企みは、最初から見透かされていたかのように、ミネルバは振り向きもせずに言い当てた。
「まだ走り足りなかったかい?」
「ト、トイレっす!」
苦し紛れの叫びだった。
声は裏返り、言い訳としても出来が悪い。だが、追い詰められた人間が捻り出せる真実など、所詮その程度のものだ。
ミネルバはしばし沈黙した。
その沈黙が、言葉よりも雄弁に恐怖を語る。
「……そうかい」
それが許可だったのか、否定だったのかは分からない。
だが次の瞬間、森のどこかで罠が軋む音がしたことで、答えは明白になった。
その後もルークは幾度となく脱走を試みた。
木立の影に紛れようとし、罠の少なそうな斜面を選び、時には俺の背中を盾にさえしようとした。
――結果は、すべて失敗。
そのたびに、ミネルバの「修行」は苛烈さを増していく。
罠は増え、槍は容赦なく数を増し、逃げ場は狭まっていった。
それはもはや修行ではない。
慈悲を忘れた神が、壊れぬかを確かめるために、玩具を乱暴に扱っているだけの行為だった。
日が落ち、髑髏森が夜の色に沈みきった頃。
ようやく投げ捨てられるようにして解放されたルークは、地面に倒れ込むと、そのまま意識を手放した。
呼吸は浅く、身体は泥と血にまみれている。
それでも、胸は僅かに上下していた。
――生きてはいる。
死んだように眠るその姿を見下ろしながら、俺は思う。
今日一日で削られたのは、体力だけではない。
心もまた、確実に――すり減っていた。
「冷めないうちに食べな」
ぶっきらぼうにそう言って、ミネルバは鍋を地面に下ろした。
蛇骨の森のときとは打って変わって、今回は彼女自身が食事を用意している。
正直、少しだけ拍子抜けした。
あの女が、修行と称して人を殺しかねない罠を張り巡らせる一方で、こうして温かい食事を振る舞うとは思っていなかったからだ。
――どういう心境の変化だ?
疑問は浮かんだが、腹の虫は正直だった。
警戒はしつつも、俺は差し出された器を受け取る。
「……いただきます」
湯気とともに立ちのぼる匂いが、疲弊しきった身体に染み込んでいく。
味は素朴だったが、不思議と悪くない。
いや、たぶん――極限まで追い込まれたあとだからこそ、余計にうまく感じたのだろう。
食事を終えるころには、全身が鉛のように重くなっていた。
テントに戻り、地面に敷いた寝具へ身体を横たえると、意識は抗う間もなく闇へと沈んでいく。
――どれほど眠ったのか。
「……んんっ。うるさいな」
不意に、頭蓋の奥で鳴り響く音に眉をひそめる。
最初は夢だと思った。
だが、ラッパを無遠慮に吹き鳴らすような、妙に陽気で場違いな音は、次第に現実味を帯びていく。
「――――!」
俺は跳ね起きた。
その瞬間――視界が、文字に侵食される。
【総視聴数が10万を突破しました。
ボーナスポイントが付与されます】
「……」
喉が、ひくりと鳴った。
突然現れた文字列に、言葉を失う。
だが、その意味を考えるよりも早く、胸の奥がじわりと熱を帯びる。
――ポイント。
この前のルークの一件で、俺は嫌というほど理解していた。
ポイントで交換できるものは、便利だとか、強力だとか、そんな生ぬるい次元の話ではない。
それは、人の理を踏み越えた力。
文字どおり、人智を超えた“切り札”だ。
いざという時に、命を繋ぐ手段を持てる。
冒険者として生きる以上、それは素直にありがたい恩恵だった。
だが――。
話は、そこで終わらなかった。
【配信者の皆様にお知らせ。
本日より新シーズンが開始となります。
今シーズンのデッドラインは75位。
シーズン終了時点で75位以下の配信者は脱落となります。
皆様、競って面白い人生をお送りください。以上】
淡々とした文章。
そこには、脅しも感情もない。
「……これって……」
喉の奥で、言葉が掠れる。
以前から、神々がチャット欄で何度も話題にしていた“あれ”だ。
:キター
:今シーズンはこいつ含めて新人28人
:シーズン終了後の追われてる時が一番おもろいw
:それな!
:その為のシーズンですww
:追跡者はよw
無責任な歓声が、軽薄な文字となって視界を流れていく。
まるで祭りの囃子だ。血の匂いを孕んだ、歪な祝祭。
これまでは、ただの冗談だと思っていた。
神々にとっての、娯楽の延長線上にある残酷な遊び――
少なくとも、俺の命が本気で賭けられているとは思っていなかった。
だが――今、こうして現実として突きつけられると、その意味の重さがまるで違う。
脱落。
それは、ミネルバが口にしていた“失格”と同義だ。
『失格になった配信者を――殺しに来る』
あの日、焚き火の前で淡々と語られた彼女の言葉が、冷たい刃となって脳裏をなぞる。
否定も誇張もない、事実としての声音だった。
「配信者百人による……ランキング戦、か」
吐息とともに呟いた言葉は、闇に吸い込まれて消えた。
これまでの神々とのやり取りで、ひとつだけ分かっていることがある。
配信者同士が、直接刃を交えることはない。
配信者はただ、生きる。
戦い、迷い、選び、傷つきながら生きる――その人生そのものを“配信”する。
そして神々は、それを眺め、値踏みする。
娯楽として評価して、順位を決める。
低ければ、失格。
――脱落。
脱落≒死。
この等式が真実であるなら、俺は今この瞬間も、首筋に剣先を突きつけられたまま生きているようなものだ。
「……でも」
思考の隙間から、疑問が零れ落ちる。
「神々は……どうやって、良し悪しを決めるんだ?」
問いが口をついた、その瞬間だった。
視界の端で、チャット欄がざわりと波立つ。
:一日の終わりに、その日の配信者の人生を神々が評価する
:面白ければグッドボタンで高評価
:一定数の高評価でポイント付与
:逆にバッドを押されると低評価
:ランキングに反映されるぞ
:ちな、高評価はポイントに繋がるけど直接順位には関係ない
:低評価さえ集めなければ問題ない!
:要はつまらねぇ配信したらあの世逝き
淡々と流れる説明文。
あまりにも簡単で、あまりにも残酷な基準。
――面白いか、否か。
それだけで、生きる価値を量られる。
寝具の中で、俺は静かに息を呑んだ。
隣では、何も知らないルークが、相変わらず能天気ないびきを立てている。
この世界は、舞台だ。
俺たちは役者で――観客は、神。
そして、拍手の少ない者から、順に消えていく。
そんな悪夢めいた現実が、今、静かに幕を上げたのだ。




