第39話 小瓶の中
「に、逃げるぞ……ロイド」
掠れた声だった。
地獄の修行が始まってから、すでに数時間が経過している。
俺の隣では、ルークが地面に両手をつき、まるで重力そのものに押し潰されているかのように動けずにいた。呼吸は荒く、肩は小刻みに震え、立ち上がる意思そのものが身体から剥ぎ取られてしまったかのようだ。
無理もない。
彼は今日だけで、すでに三度、死にかけている。
――時は少し遡る。
半ば引きずられるように宿を後にした俺たちに、ミネルバはこともなげに言ったのだ。
「とっておきの修行場を用意してある」
嫌な予感しかしなかった。
「……なんすか、それ」
ルークの声には、すでに覇気がなかった。
ミネルバが腰袋から取り出したのは、ひとつの小瓶だった。
掌に収まる程度のガラス瓶。その内部には、精巧に作り込まれた森のジオラマが封じ込められている。
歪に絡み合う木々。
それらが寄り集まり、森そのものが巨大な髑髏の輪郭を形作っている。
眼窩にあたる空洞は不気味に口を開き、口腔を思わせる谷間の奥へと、視線を吸い込んでいく。
いかにも山賊か、あるいはそれ以下の何かが巣食っていそうな――
悪趣味という言葉では足りない、禍々しさを孕んだ森だった。
正直に言って、気味が悪い。
「こいつは、あたしの知り合いが作った魔法道具でね。――“瓶詰めシリーズ”ってやつさ」
「……瓶詰め、シリーズ?」
「これ、魔法道具なんっすか? まさか……まさかっすよね? あの時みたいに、これを取り出すんじゃ……」
ルークの脳裏に浮かんだのは、蛇骨の森。
あの日、ミネルバが荷物の運搬に使っていた収納小瓶を思い出す。
しかし、彼女はその問いに小さく肩をすくめ、首を横に振った。
「――いや。さすがに“山”を取り出すのは無理だ。そもそも、山なんぞ収納できるわけもないだろ」
それは、至極もっともな意見だった。
むしろ、そんなことが可能なら、小瓶に街を収めることだってできてしまう。
それはもはや、御伽噺の中でしか許されない話だ。
――なら、なおさら。
一体、何のためにこれを取り出したのか。
俺とルークの頭上に、はっきりと見えないはずの疑問符が浮かぶ。
そしてその疑問に答える前触れのように、ミネルバは楽しげに口角を吊り上げていた。
嫌な予感は、確信へと変わりつつあった。
「お前たちには、今日からしばらく――この小瓶の中で生活してもらう」
あまりに平然と告げられたその言葉に、俺とルークは同時に言葉を失った。
「小瓶の……」
「……中で?」
視線が自然と交わる。
どちらも同じ結論に辿り着いていた――ついにこの女、正気を失ったのではないかと。
だが、ミネルバはそんなこちらの動揺など意に介さない。
何の感慨もなく、小瓶を指で弾きながら続ける。
「まずはお前からだ。小瓶の縁に、手をかざせ」
差し出された小瓶は、掌に収まるほどの大きさだ。
ガラス越しに見えるのは、あの悪趣味極まりない髑髏の森――あれが、生活空間?
ルークはそれを睨みつけるように見下ろし、やがて俺へと視線を向けてきた。
(……大丈夫なんだろうな?)
無言の圧。
だが、そんなものを向けられても困る。俺にだって、わからないものはわからない。
「早くしろ」
容赦なく飛んでくる催促に、ルークは露骨に顔を引きつらせた。
ほんの一瞬、逃げ道を探すように視線を彷徨わせ――そして、諦めたように息を吸う。
「……う、うし!」
自分に言い聞かせるように気合を入れ、恐る恐る手を伸ばす。
――その瞬間。
「……ふへ?」
間の抜けた声を最後に、すぽっという、あまりにも軽い音が鳴った。
次の瞬間、ルークの姿は跡形もなく消え、小瓶の中に吸い込まれていた。
あまりにも呆気ない。
あまりにも現実離れした光景に、俺は言葉を失ったまま、小瓶を見つめ続けるしかなかった。
「次はお前だ。早くしな」
「……え」
まるで流れ作業の一部であるかのように、小瓶が突きつけられる。
だが――残念ながら、俺は「はい、喜んで」と手を差し出せるほど能天気ではなかった。
小瓶の中に入る。
そこで修行をする。
それ自体に嘘はないのだろう、というところまでは理解している。
そこまでは、いい。
問題はただ一つ――どうやって外に出るのか。
それだけだ。
ミネルバは言った。
この小瓶の中で、数日間修行をすると。
つまりそれは、数日間――ほぼ確実に寝食を共にするということを意味していた
――嫌すぎる。
一度中に入ってしまえば、以前のように翌朝こっそり逃げる、などという芸当は不可能だ。
これは修行場などではない。
牢獄である。
そんな場所に、自分から進んで入る馬鹿がどこにいる。
「その前に、ひとつ確認したい」
「なんだ?」
ミネルバは面倒そうに目を細める。
「入り方は理解した。……でも、どうやって出るんだ?」
「……十日後には出してやる」
――答えになっていない。
というか、十日後?
十日間。
この悪魔みたいな女と、あの髑髏森ジオラマの中で、二人きり――いや、ルーク込みで三人とはいえ、逃げ場なしの十日間。
無理だ。
普通に死ぬ。
肉体的に無事だったとしても、精神が保たない。
最悪、十日後にはストレスで頭髪が旅立っている可能性すらある。
まだ十六だぞ、俺。
この年でハゲは洒落にならない。
ルークには悪いが、これは――入ってはいけないやつだ。
「……へ?」
どうやってこの場を切り抜けるか、必死に頭をフル回転していた、その瞬間。
冷たい感触が、鼻先に当たった。
「……ちょっ」
――小瓶の縁だ。
「な、なに――」
言葉を発する間もなかった。
「ぬぅ……っ!?」
凄まじい引力。
いや、違う。
吸引だ。
顔が引き寄せられ、視界が歪み、身体が――
「い、いやだぁあああああああ!?」
抵抗は、あまりにも無力だった。
悲鳴を引き裂くように、俺の身体はずるりと引き込まれ、世界は、音もなく小瓶の内側へと反転した。
◆
「……痛え」
意識が浮上した瞬間、最初に感じたのは、鈍く重たい衝撃だった。
次いで、臀部から背骨を伝って走る、嫌になるほど生々しい痛み。
どうやら俺は、真っ逆さまに落とされたらしい。
地面に腰を打ちつけ、情けなく転がったまま、しばし動けずにいた。
「……ここ、本当に……小瓶の中なのか?」
呻くように呟き、ゆっくりと身体を起こす。
視界に飛び込んできたのは、息苦しいほどに密集した森だった。
歪に絡み合う木々が、空を塞ぐように枝を伸ばしている。
葉の隙間から差し込む光は弱く、森全体が薄暗い影に沈んでいた。
ふと背後を振り返る。
そこには、ぽっかりと口を開けた巨大な空洞があった。
岩と木が不自然に形作るその窪みは、まるで――いや、間違いなく、髑髏の眼窩だ。
「……最悪の場所に落ちたな」
髑髏森。
さっき見せられた、あの悪趣味なジオラマの一部だと、否応なく理解する。
「ロイド!」
聞き慣れた声が森に響いた。
視線を走らせると、少し離れた場所でルークの姿を見つける。
無事だったらしい。こちらに気づくや否や、枝を掻き分けるようにして駆け寄ってきた。
「おい、どういうことだよ、これ!」
顔を引きつらせたまま、ものすごい剣幕で詰め寄ってくる。
怒鳴っているが、正直なところ、説明してほしいのは俺の方だ。
「俺に聞くな……」
「じゃあ、誰に聞けってんだよ!」
互いに一瞬、黙り込む。
「……ここ、本当にさっきの小瓶の中なのか?」
「……たぶん、な」
確信はない。
だが、否定する材料もなかった。
さっき、確かにルークは小瓶に吸い込まれていった。
俺自身も、あの抗いようのない吸引力を、はっきりと身体で覚えている。
そして今、こうして二人揃って、この異様な森に立っている。
「だったら……」
ルークは森を見回し、唾を飲み込んだ。
「俺たち、本当に――閉じ込められたってことか?」
その言葉に、胸の奥がひやりと冷える。
ここが小瓶の中だとするなら。
出口の保証も、助けが来る保証もない。
そして――
この場所を用意した張本人は、あのミネルバだ。
嫌な予感しかしなかった。
「いつまで、そんなところでぼさっとしているつもりだい」
「――っ!?」
不意に背後から投げかけられた声に、心臓が跳ね上がった。
反射的に振り返ると、ミネルバが、いつの間にかそこにいた。
手頃な岩に腰を下ろし、肘を膝に預けたまま、こちらを見下ろしている。
足音も、気配も――まるで感じなかった。
一体、いつからそこに?
「時間が惜しい。さっさと修行を始めるよ」
淡々と告げられたその一言に、背筋が粟立つ。
これから始まるものを想像しただけで、胃の奥が冷えた。
「お、おれたちに……何をさせるつもりっすか!」
ルークが声を張り上げる。
だが、虚勢とは裏腹に、その声は僅かに裏返り、足元も小刻みに震えていた。
「まずは――」
ミネルバは指先で森をなぞるように示す。
「ぐるっと、この島――森を一周。走ってもらおうか」
「……走る?」
「森を……?」
俺とルークは思わず顔を見合わせた。
走るだけ。
それだけなら、まだ“マシ”な部類だ。
ミネルバにしてはかなり甘いとさえ思ってしまう。
「ほら、行っといで」
「……まあ」
「……走るだけなら」
半信半疑のまま、俺たちは走り出した。
だが、その考えが甘かったことを、俺はわずか数十秒後には思い知らされる。
前方を走っていたルークの背中が――
唐突に、消えた。
「……ルーク?」
名を呼んだ瞬間、足が止まる。
そして、遅れて異変に気づいた。
そこには、先ほどまでなかったはずの――巨大な穴。
嫌な予感に喉が鳴る。
恐る恐る縁へと近づき、下を覗き込んだ。
「た、たずげてぐれぇぇ……!」
穴の底には、無数の木槍が林立していた。
その隙間に、必死にしがみつく影。
槍の一本に、涙と鼻水にまみれながらぶら下がる――ルーク。
「う、うそだろ……」
背筋が凍る。
滑り落ちれば、串刺し。
一歩間違えれば、即死。
これは“修行”などという生易しいものではない。
もはや殺人ゲームだ。
そして、背後から聞こえる、あの愉しげな声。
「そうそう、言い忘れていたけれど――」
ルークへと手を伸ばす俺の背中に、実に気軽な調子で声が投げかけられた。
「この森には、いくつも罠を仕掛けてあるからね。死なないように、せいぜい気をつけるんだよ」
「――そういうことは、走る前に言えよッ!!」
叫びは悲鳴に近かった。
ようやく穴から引き上げたルークは、地面にへたり込み、肩で息をしながら全身を震わせていた。
その様子は、まるで生まれたばかりで立ち方も覚束ない子鹿のようだ。
いつもなら口先だけでも強がり、減らず口のひとつやふたつは叩いていただろう。
だが今のルークには、それがない。
尊大さも、軽口も、余裕も――
すべて、さきほどの“一歩間違えば死”という現実の前に、きれいさっぱり削ぎ落とされていた。
ミネルバはそんな姿を一瞥しただけで、特に気にした様子もなく言う。
「ほら、休憩は終わりだ。さっさと走りな。戻りが遅ければ罰を与えるからね」
――逃げ場はない。
この森そのものが、彼女の掌の上だった。




