第36話 治療
王都レルシェイドへ戻ると、ミネルバは一息つく間もなく、その足で冒険者ギルドへ向かった。
蛇骨の森――あの忌まわしい場所で得た調査結果を、正式に報告するためだ。
まるで三日間の出来事など、最初から予定表に書かれた一行に過ぎなかったかのような足取りだった。
一方でルークは、破損した革鎧の修理を依頼するため、東の商業地区へと向かった。
その際、またしても俺の財布から金を抜いていったことは、あえて言うまでもない。
「……ほんと、勘弁してくれ」
とはいえ、彼を責める気にもなれなかった。
冒険者稼業を続けるためにも、装備の修理は必須だ。
命だけ無事でも、剣と鎧がなければ次はない。
しかし――これ以上、金が減り続ければ、文字通り路頭に迷うのは俺のほうである。
:ロイド金づるやんw
:お人好しすぎるんだよな
:こいつは革鎧すら持ってないのに……
:もうあんまり残ってなくね?
:封筒、かなり薄くなったな
:使ったのほとんどルークなの草
「はぁ……。やっぱり俺って甘いのかな」
ルークには、できるだけ早く稼げる冒険者になってもらわなければ困る。
切実な問題だ。
そして俺は今――
王都でも名の知れた高級宿、【七色の孔雀亭】の門をくぐる。
場違いだという自覚はある。
だが、これは贅沢のためではない。
ミネルバから「その肩、放っておくと後を引くよ」と有無を言わさず言い渡され、知り合いの治療師に診せるよう命じられたのだ。
その治療師の名は、トレランシア。
彼女とは、俺が初めて冒険者ギルドの門をくぐった日からの付き合いになる。
右も左も分からず、地下演習場で無様に傷だらけになった俺を、呆れ半分、同情半分で治療してくれたのも彼女だった。
それ以来、仕事で怪我を負うたび、俺は彼女のもとを訪れている。
もちろん、治癒魔法は慈善事業ではない。
その都度、治療費はきっちり支払っている――彼女が宿泊している高級宿に足を踏み入れた俺は、随分と薄くなった封筒の中身を気にしていた。
「……足りるかな」
冒険者の命は安い。
だが、治療費は決して安くない。
その現実を、高級宿の静かな空気が、改めて俺に突きつけていた。
ろくに冒険者ギルドで依頼を受けずとも、この宿で寝泊まりできる程度には、トレランシアは稼いでいる。
つまり――彼女の治癒費は、決して安くはないということだ。
受付で在室を確認し、かつて何度か訪れたことのある部屋の前で足を止める。
廊下に漂う香の残り香と、分厚い絨毯に足音を吸われる感覚が、否応なく記憶を呼び起こした。
――コンコン。
控えめにノックすると、間を置いて、扉の向こうから気の抜けた声が返ってくる。
「だぁ〜れぇ〜?」
少し鼻にかかった、眠気を引きずるような声音。
次いで、鍵の外れる軽い音。
――ガチャ。
扉の隙間から顔を覗かせたのは、寝癖のついたパステルグリーンの髪を無造作に揺らす女だった。
身にまとっているのは、ミストヴェイルの夜職に紛れていても違和感のない、ひどく露出の多いネグリジェ。
布と呼ぶには心許なく、装いと呼ぶにはあまりに無防備だ。
一見すれば、娼婦。
あるいは、それ以上に誤解を招く存在。
だが――
彼女の治癒師としての腕は本物であり、その実力はギルドマスター・ベルガですら公に認めている。
重傷者を何人も引き戻し、命の瀬戸際を越えさせてきた、確かな手腕。
ただし、問題はその外見だ。
事情を知らぬ者が見れば、まず治癒師とは思うまい。
この扉の向こうにいる女が、命を救う側の人間だと理解できる者は、きっと少ない。
――俺自身、最初はそうだったのだから。
:相変わらずえっっろ!
:こいつ絶対わざとやってるだろ
:完全に誘ってるだろ、これ
:襲われても文句言えんレベルでエロい
:はよトレランシア攻略しろ
:トレランシアとのSEX配信希望!
:↑に賛成です!
ここに来ると、神々が興奮して騒がしくなるのが難点だ。
「……ロイくん、ひとり?」
扉の隙間から顔を覗かせたトレランシアが、そう問いかける。
その視線は俺ではなく、廊下の奥――左右へと落ち着きなく泳いでいた。
「そうだけど……」
答えると、彼女はなおも疑うように首を傾け、廊下に誰もいないことを何度も確かめる。
「……どうかしたのか?」
「いいから、とりあえず入って」
有無を言わせぬ口調だった。
「――ちょっ」
抗議の声を上げる間もなく、俺は半ば引きずり込まれる形で部屋の中へと引き込まれた。
「臭っ!?」
次の瞬間、鼻を突く食べ物の匂いと、視界いっぱいに広がる惨状に、思わず顔をしかめる。
床一面に散乱する食べ残し。
脱ぎ捨てられた衣服。
椅子の背には用途不明の布切れが引っかかり、机の上には空の器と薬瓶が雑然と積み上げられている。
:汚っ!
:汚部屋やん
:性病には気をつけろよ
:アホな奴いて草
:汚すぎて俺なら無理
:誰も聞いてねぇよ
:そもそもお前じゃ無理で草
――女好きな神々すら引くほど、足の踏み場もない。
控えめに言っても、ゴミ屋敷だった。
「……なんでこんなに汚いんだよ」
思わず本音が漏れる。
以前ここを訪れた時も、決して整っているとは言えなかったが、少なくとも“生活”は感じられた。
だが、今の部屋にはそれすらない。ただ、だらしなさと疲弊だけが積もっている。
しかも、まだ夕刻だというのに、厚手のカーテンはきっちりと閉め切られていた。
外の光は完全に遮断され、代わりに魔導灯の白い灯りだけが、無遠慮に室内を照らしている。
その光は、散らかった部屋を隠すどころか、むしろ――
彼女の生活が、どこかで歪んでしまっていることを、容赦なく浮かび上がらせていた。
「借金取りにでも追われてるのか?」
半ば冗談のつもりでそう言うと、トレランシアは露骨に眉をひそめた。
「失礼ね。ぜぇ〜んぶ返したわよ」
胸を張るような言い方だったが、そこに誇らしさよりも妙な必死さが混じっているのを、俺は聞き逃さなかった。
――借金してたのかよ。
トレランシアが筋金入りのギャンブラーであることは、冒険者ギルドでは半ば公然の事実だった。
一時期は、王国に摘発された闇カジノに入り浸っていた、なんて噂も耳にしたことがある。
一見すれば、穏やかで清楚な治癒師のお姉さん。
だが、その実態は堕落と快楽に身を委ねた博打打ち。
――人は見かけによらない。
その言葉は、きっと彼女のために用意されたのだろう。
「じゃあ……なんで、そんなにビクビクしてるんだ?」
核心を突くと、トレランシアは顎先に細い指を添え、
「う〜ん」
と、やけに艶のある声音で唸った。
「最近ね、誰かに見られてる気がするのよ」
「……いつからだ?」
「一ヶ月くらい前かなぁ〜。……そうそう、ちょうどロイくんと知り合った頃から」
冒険者登録をした時期と、ほぼ重なる。
「それで、なにかされたのか?」
「なにかって?」
「だから……実害だ。被害に遭ったとか」
「ないわ」
「……は?」
思わず間の抜けた声が出た。
被害はない。
なのに「見られている気がする」という感覚だけで部屋に閉じこもり、昼間からカーテンを閉め切っているというのか。
さすがにどうかと思い、俺はじっとりとした視線を向けてしまう。
「あぁ〜、その目! 馬鹿にしてるでしょ〜!」
「いや……」
「これでもねぇ〜、過去にストーカー被害とかあって、結構大変だったんですぅ〜」
ふざけた口調とは裏腹に、その言葉だけは妙に重く、冗談めいて聞こえなかった。
「……それは、確かに大変そうだな」
軽く相槌を打ちながら、俺は納得する。
過去の恐怖が尾を引き、些細な違和感にも過敏になっている――そういうことなのだろう。
部屋に積もった乱雑さは、だらしなさだけではない。
彼女が抱え込んだ、不安と警戒心の痕跡でもあったのか。
「それより、そこに座って。その肩、治療するんでしょ?」
「――ああ」
そう答えかけて、俺は言葉を呑んだ。
視線を巡らせれば、目に入るのはゴミ、ゴミ、またゴミ――床という床が、生活の残骸に占拠されている。
いったい、どこに座れというのだ。
逡巡していると、トレランシアは不満げに頬を膨らませた。
「ベッドに腰掛ければいいの!」
「おっ、ちょっ――」
次の瞬間、胸に衝撃。
押し倒される形で寝台に沈み込み、軋む音とともに視界が天井へとひっくり返る。
気づけば、彼女が上から覆いかぶさっていた。
:おっ!
:おや?
:おやおや
――こ、これは!?
はじめてを経験した夜、エマから懇切丁寧に教わった騎乗位という体位に似ている。
いや、もはやこれは騎乗位なのでは……。
不意に心臓が跳ねる。
「……」
ごくり。と生唾を飲み込んでしまう。
距離が、近い。
息遣いが分かるほどに。
「あぁ~、ロイくん。いま、よからぬこと考えたでしょ〜」
「ち、違う! 誤解だ!」
「ふふ、いけないなぁ。お姉さん、別料金取っちゃおうかな〜」
からかうような声とともに、彼女の体重が微妙にかかる。
淫らな動きで腰をぐりぐり動かしてくる。そのせいで、急激に股間が熱をもってしまう。
「あ……」
しまった、と思った時には遅かった。
俺の俺が急成長。
大っきくなってしまった。
そのことを、上に乗る彼女に気づかれてしまう。
:こいつ立ってね?
:マジだwww
:フル勃起してんじゃねぇよww
:これ気づかれてるだろ
:突然硬い棒出現したら気付くわw
:お前もぐりぐりしろ
:変態いて草
「……っ」
トレランシアが一瞬、動きを止める。
そして、ゆっくりと俺の俺を見下ろした。
「ちょっと……ロイくん」
頬に淡い朱を差し、いつもの飄々とした表情とは違う、妙に艶を帯びた眼差し。
その視線に射抜かれ、俺は身動き一つ取れなくなる。
衣服越しであろうと、男女の大事な部分が触れ合った事実だけは否定しようがなかった。理屈も言い逃れも、胸の奥で脆く崩れ落ちる。
――ああ、これはもう、取り繕える段階ではない。
そう悟った瞬間、羞恥が熱となって血を巡り、思考の歯車が一斉に噛み合わなくなった。
どうにかなってしまいそうな頭で、俺は自分でも意味をなさない言葉を吐き出していた。
「お、お前が……そんなふうに、変に動かすからだろ!」
「――ちょ、ちょっとロイくん!? ま、待っ……あっ……」
理性の手綱はすでに切れていた。
俺は恥ずかしさを振り払うように、ただ衝動に身を委ねる。激しく腰を動かすたび、彼女の身体が応え、その声が耳に絡みつく。甘く、逃げ場のない響きだった。
「ほら……っ、な? お前だって……同じだろ! こうなったら……自然なんだ、誰だって!」
:暴走してて草
:メダパニかけたやつ誰だよw
:異世界のじみけんやんw
:トレランシアも感じてるのでは?
:おっぱいめっちゃ揺れてて草
:そのまま脱がしてやれ!
「だ、だから……落ち着いてって……!」
◆
数分後。
「……はぁ……はぁ……」
寝台に身を投げ出したトレランシアは、荒い息を吐きながら、胸を大きく上下させていた。
熱を帯びた頬は赤く染まり、力の抜けた指先が、シーツをかすかに掴んでいる。限界まで酷使された身体が、ようやく休息を許された――そんな様子が、嫌というほど伝わってきた。
「……だ、だいじょうぶか?」
口にしてから、少しやり過ぎたかもしれないと遅れて反省する。
トレランシアは、なおも上気した表情のまま、どこか恨めしそうに俺を見上げてきた。
その視線が――どうしようもなく、色っぽかった。




