第37話 人影
「ロイくんって、いつも女の子にあんな激しい悪戯してるの? お姉さん、ちょっと感心しないなぁ〜」
軽くからかうような声音だったが、胸の奥には小さくも鋭い棘が刺さった。
誤解だ、と即座に言い返したい。
だが――衣服越しとはいえ、トレランシアの華奢な身体を力任せに突き上げたのは、紛れもない事実である。
言葉は喉の手前で詰まり、俺は黙って視線を伏せた。
ここは、弁明よりも沈黙を選ぶべき場面だ。
そう判断し、甘んじて説教を受け入れることにした。
「――――」
言葉の途切れた空気の中で、治療は静かに始まる。
トレランシアは【癒しの導き】と呼ばれる│権能を有している。
傷口に掌をかざし、深く集中するだけで、大抵の外傷はみるみるうちに癒えていく――奇跡と呼ぶほかない力だ。
もっとも、その万能さには明確な限界がある。
癒せるのは、あくまで外から負った傷のみ。病や内なる異変にまでは及ばない。
さらに言えば、この力は彼女の体力を容赦なく削る。
痩せの大食いと揶揄されるのも、この権能ゆえだ。
俺の右肩にかざされた掌は、微かに震えていた。
額からは大粒の汗が滲み落ち、白い肌を伝って光る。その様子に、先ほどまでの軽口はすっかり影を潜めている。
――無理をさせている。
彼女が一日に治療できる回数には、厳密な限度がある。
それを超えて能力を使い続ければ、意識を失う危険すらあるのだ。
【癒しの導き】とは、それほどまでに重い力である。
だからこそ――
この治療の対価は、高額になる。
金銭だけでなく、彼女の体力と集中、そして命の余白を削る行為なのだと、俺はあらためて噛みしめていた。
◆
「ふぅ〜。治療はこれで完了かな〜」
そう言って、トレランシアは大きく息を吐いた。
その声音には、達成感と同時に、隠しきれない疲労が滲んでいる。
俺はその場で右肩をゆっくりと回し、調子を確かめた。
――違和感がない。
軋みも、痛みも、鈍い熱すら残っていない。
傷跡ひとつ残さず、元の状態へと押し戻す【癒しの導き】。
何度体験しても、その異様な完成度には感嘆を禁じ得なかった。
「治療費だけど〜……今日はちょっと疲れたから、十五万ギルってところかな」
――高い。
思わず内心で叫んだものの、口には出さなかった。
トレランシアの治療師としての腕は、ここ王都でも一、二を争う。
なにより、あの偏屈で名高いギルドマスターが公に認めているほどだ。
そう考えれば、この金額も法外とは言い切れない……のだが。
「衣服越しとはいえ、ロイくん、お姉さんのこと激しく突いたでしょ〜?」
にやり、と悪戯っぽく笑って続ける。
「だから、ほんの少しだけ色、付けさせてもらったよぉ〜」
意味ありげにウインクされ、俺は一瞬言葉を失った。
――ああ、そういうことか。
理由がはっきりしてしまえば、もはや抗弁の余地はない。
むしろ、割増し程度で済んだことを感謝すべきなのかもしれなかった。
「またのご利用、お待ちしてま〜す」
冗談めかした声に見送られ、少しだけ雑談を交わしたのち、俺は宿をあとにした。
◆
「――ん?」
【七色の孔雀亭】を出てすぐ、背中に薄く貼りつくような感覚に気づき、足を止める。
……背中に、じっとりとした視線が刺さった。
ゆっくりと振り返り、周囲を見渡す。
宿場街はすでに夜に沈み、店先に吊るされた魔導灯が、石畳の上に淡い光を落としていた。
人影はまばらで、行き交うのは遅い帰路につく旅人か、仕事終わりの商人くらいだ。
「……見られているな」
独り言のように呟いた声は、夜気に溶ける前に、喉の奥で消えた。
蛇骨の森で過ごした三日間は、決して無駄ではなかった。
あの森では、油断した瞬間が死と直結する。眠るときも、食事を摂るときも、背中を預ける暇など一度もなかった。
常に危険と隣り合わせだった経験が、俺の感覚を根こそぎ書き換えたのだ。
以前の俺なら、この違和感を「気のせい」で片付けていただろう。
だが今は違う。
視線――それも、悪意を孕んだもの。
意識を研ぎ澄ませると、空気の流れのわずかな歪みが浮かび上がる。
気配は一点に集束していく。
――そこか。
振り向いた、その刹那。
建物の影が、ほんのわずかに揺れた。
逃がすか。
思考よりも先に、身体が動いていた。
石畳を蹴り、俺は細い路地へと躍り込む。湿った空気と、長年蓄積されたゴミの腐臭が鼻を刺した。
足音が反響し、夜の静寂が破れる。
路地の奥――行き止まりに近い場所に、人影がひとつ、静かに立っていた。
「……お前は」
闇に慣れた目が、その輪郭を、そして顔を捉える。
月明かりに照らし出されたのは、見覚えのある男だった。
――思い出す。
ルークが冒険者登録をした、あの日。
受付前で彼に忠告を与えていた、あのベテラン冒険者。
俺と同じ、紅等級。
赤い鼻と、場慣れした佇まいが印象に残っている。
「……ドンパン、だったな」
名を口にした瞬間、男の口元が、わずかに歪んだ。
「おや、俺なんかのことを覚えてくれていたとは――光栄だな」
嘲るような声音ではあったが、その身から剥き出しの敵意は感じられない。
むしろ、余裕めいた軽さが鼻につく。
「どうして俺を見ていた」
問いを投げると、男は肩をすくめ、わざとらしく首を振った。
「俺が、お前を……? そりゃあ、自意識過剰ってやつじゃないのか?」
乾いた笑いが、夜の路地に散る。
「なら、どうして逃げた」
「逃げた……?」
ドンパンは一瞬きょとんとした顔を見せ、すぐに手を叩いた。
「そりゃ、いきなり殺気を放って突っ込んで来られりゃ、誰だって驚くさ。俺じゃなくても、そうしてたと思うけどな」
……やはり、やり過ぎたか。
蛇骨の森で生き延びるために染みついた感覚――それを、王都の夜でも無意識に使ってしまった。その自覚はある。
だが、それでもなお、先ほど感じた視線は気のせいとは思えなかった。
あれは確かに、俺を“見る”目だった。
「俺はもう行くぜ」
ドンパンは興味を失ったように言い、ゆっくりと歩き出す。
「ダチと飲む約束してるんでな」
何事もなかったかのように、俺の横をすり抜けていく。
背中越しに、ひらりと軽く手を振る。その指先が魔導灯の光を一瞬だけ掠め、次の瞬間には夜の喧騒に溶けて消えた。
――掴みどころのない男だ。
だが、妙な胸騒ぎだけが、消えずに残っていた。
◆
「あっぶねぇー……」
夜の宿場街を早足で進みながら、ドンパンは何度も背後を振り返っていた。
人波に紛れながらも、その足取りには焦りが滲んでいる。
「あのクソガキ……」
舌打ち混じりに吐き捨てる。
「ついこの間まで、剣の腕“以外”はからっきしだったってのによぉ……。どうなってやがんだ」
脳裏に浮かぶのは、王都レルシェイドで知らぬ者のいない、あの女の顔。
――ミネルバ。
「余計なことしやがって」
低く唸るように呟く。
「おかげで、これからの仕事が面倒になっちまったじゃねぇか……」
ふと時計代わりの鐘の音を思い出し、ドンパンは眉をひそめた。
「――って、やべぇ。早く行かねぇと」
歩調が、走りへと変わる。
小太りな体躯からは想像もできないほど、彼の動きは俊敏だった。人の隙間を縫い、荷馬車の影を抜け、夜の街を器用に駆け抜けていく。
やがて辿り着いたのは、大聖堂の前。
石造りの巨躯が夜空に沈み、冷たい威圧感を放っている。
ドンパンは一度立ち止まり、衣服についた埃を払った。
ここまで走ってきたというのに、呼吸は乱れていない。
伊達に紅等級冒険者を名乗っているわけではなかった。
「……よし」
両手で自分の頬を叩き、気合を入れる。
「行くか」
そう呟き、ドンパンは静かに――しかし一片の迷いもなく、大聖堂の扉に手をかけた。
軋む音を立て、重厚な扉が内側へと開き、やがて――
「――――」
低く鈍い音を残して、扉は閉じた。
その瞬間、外界の喧騒は嘘のように断ち切られる。
酒場の笑い声も、馬車の轍も、夜風に混じる人の気配さえも、この石の箱庭には届かない。
聖堂内を満たすのは、張り詰めた静寂。
そして、かすかに鼻を刺す香の匂い――焚かれた聖香と、長い年月を経た冷たい石の匂いが、重なり合って漂っていた。
高い天井。
見上げるほどの高さを誇るアーチ状の梁が幾重にも連なり、壁面には聖典の一節を描いたステンドグラスがはめ込まれている。
月明かりと魔導灯の光が色硝子を透かし、床の石畳に淡い青や赤の影を落としていた。
一歩、足を進める。
靴底が石に触れ、乾いた音が静寂を裂く。
その微かな反響すら、この場所では不敬に思えるほど大きかった。
「……相変わらず、居心地の悪ぃ場所だぜ」
ドンパンは小さく呟き、肩をすくめる。
信仰の気配は、彼のような人間にとって、いつだって肌に合わない。
正面奥には祭壇。
白い布で覆われた石の台座の背後には、女神エリスの像が鎮座している。
慈悲深い微笑を浮かべたその姿は、闇の中にあってなお、静かな威圧を放っていた。
だが――ドンパンの視線は、そこに留まらない。
――いた。
長椅子の一角に、人影がひとつ。
法衣ではない。
かといって冒険者とも違う。
妙に洗練された黒の外套を頭まで深く被り、月光を受けても、その輪郭だけが曖昧に掠れて見える。
ドンパンは、ほんの一瞬だけ周囲を確認した。
祈りを捧げる者の姿はなく、警備の気配もない。
今宵の聖堂は、静かすぎるほど静かだった。
「……待たせた」
低く、短く声をかける。
人影はゆっくりと顔を上げた。
フードの奥から覗く顔は、やはり靄がかかったようにぼやけている。
――認識阻害魔法、か。
内心で舌打ちする。
相変わらず素性を明かす気はねぇってか。
胡散臭いにも程がある依頼人だ。
「時間通りだな」
返ってきたのは、落ち着き払った声。
感情の起伏を一切感じさせない、冷えた――まるで石像のような声音だった。
「早速だが――ロイドが蛇骨の森から帰還したというのは事実か?」
低く、抑揚のない声が聖堂に落ちた。
「……答えろ、ドンパン」
名を呼ばれ、ドンパンは口の端をわずかに歪める。
乾いた笑みは、皮肉と警戒がない交ぜになったものだった。
「信用されてんのか、それとも監視されてんのか……どっちだ?」
問い返しても、相手は肩を竦めるだけだ。
否定も肯定もせず、ただ沈黙で応える。その態度が、かえって答えだった。
「どちらでもいい」
淡々とした声が続く。
「――知りたいのは、ロイドの生死だけだ」
その言葉に、ドンパンの表情が僅かに強張った。
わずかな沈黙ののち、彼は小さく息を吐く。
「……どうせもう、知ってやがるんだろ?」
「僕は、お前の口から聞きたいんだ。ドンパン」
声音は穏やかだが、そこには逃げ道がなかった。
「……残念ながら、ピンピンしてたぜ」
「そうか」
それだけだった。
安堵も失望もない。まるで最初からロイドの生死など、結果のひとつに過ぎないと言わんばかりの反応だ。
ドンパンは、得体の知れない不快感を覚えながら、眉をひそめる。
「……なあ。なんであんなガキを監視するんだ? いい加減、教えてくれてもいいだろ」
黒衣の男は答えず、ゆっくりと立ち上がった。
厳かな足取りで歩き出し、祭壇へと向かう。その背に向かって、ドンパンはなおも問いを投げる。
「……好きなんだ」
唐突な言葉に、ドンパンは思わず鼻を鳴らした。
「は? お前、ホモか? あのガキに惚れてんのか?」
「恋慕を抱くのは、僕じゃない」
静かな否定。
「じゃあ、何がしたいんだよ……!」
苛立ちを抑えきれず、声が荒れる。
黒衣の男は足を止め、振り返らずに答えた。
「――人が壊れるところが、見たい……かな」
その一言で、ドンパンの背筋を冷たいものが走った。
直感ではない。
感覚でもない。
長年、死線をくぐり抜けてきた冒険者としての経験が、この男は“危険だ”と告げている。
刃を向けてくる敵よりも、はるかに厄介な種類の――理解不能な危険だ。
「報酬は、いつも通りだ。後で受け取っておいてくれ。
引き続き、監視は任せたよ」
「そのことなんだけ――」
言い終えるより早く、冷たい声が遮った。
「――断れば、君の身に不幸が訪れる」
「……っ」
ドンパンは拳を強く握りしめ、歯を食いしばる。
反論の言葉は、喉の奥で潰れた。
「――エリス女神の加護が、あらんことを」
祈りの言葉は、祝福ではなく――呪詛のように響いた。
黒衣の男が聖堂を去ったあと、静寂だけが残る。
ドンパンは、重く長いため息を吐き出した。
「……金払いがいいからって、厄介なのに首突っ込んじまったな」
後悔しても、もはや遅い。
ここは神の名を掲げる場所だが、交わされたのは祈りではない。
――陰謀と取引。
女神エリスの像は、何も語らない。
ただ黙して、信仰も背徳も、等しく見下ろしているだけだった。




