第34話 癒し
俺は流れ落ちていくチャット欄の文字を、まるで溺れる者が藁を掴むように、食い入るように追っていた。
無数の言葉が、無責任に、軽薄に、しかし確かに“生きた声”として流れていく。
:やっぱり異世界といえばコレだよな
:この感じが一番おもろい
:命のやり取りほどおもろいもんはない
:ルークはもう死んだか?
:まだ死んでないw
:はよ死ねw
:鬼畜神いて草
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。
:なにがおもろいねん!
:お前らマジで根性腐ってるな
:大半の奴は人が死ぬとこみたいだけ
:ミネルバのいう通り死神かもなw
その一言が、やけに重く響いた。
――死神。
この戦いを、悲劇ではなく娯楽として眺める存在。
『――見る者を、あまり信用するな』
再び、昨夜の彼女の言葉が頭蓋の奥で再生される。
しかし――
:お前らみたいな奴らばかりじゃねぇよ
:まだポイントあるだろ? 使え!
「……ポイント」
唇から零れた声は、かすれていた。
俺は泣きそうになりながら、それでも目を逸らせず、神々の言葉を縋るように、必死に追い続ける。
そこに答えがある。
そこにルークを生かす道があると、信じるしかなかった。
:【メニュー】開いて【ポイント交換所】で【癒(中)】と交換しろ
:大は30。中なら20で交換可
:残り20ポイントあるだろ?
:ギリ交換できる
:その傷なら【癒(中)】で治るぞ!
:友達を助けたいなら諦めるな!
言葉が、刃のように胸へ突き刺さる。
同時に、灯火のように、闇を照らす。
娯楽として嗤う声もあれば、
本気で、こちら側の生を願う声もある。
そのどちらもが、“神”なのだ。
「……しんじる、からな……」
祈りとも、呟きともつかない声が、震えながら喉を抜けた。
救いを求める相手が、人の生死に一喜一憂する死神のような存在だと、わかっていても――
今は、縋るしかなかった。
俺は震える指で、メニューを開いた。
指先が言うことを利かず、半拍遅れて反応する感覚が、いまの精神状態を雄弁に物語っている。
選択画面。
【ポイント交換所】。
【アイテム交換】。
【術スクロール一覧】。
文字を追うたび、心臓が跳ねる。
――間違えるな。
――選択を誤るな。
残りポイントは20。
これがルークの生死を決めるポイント。
俺は20ポイントと引き換えに、【癒(中)】を選択する。
すると、例のごとく選択画面が表示される。
【交換した【癒(中)】を取り出しますか?
はい/いいえ】
一瞬の逡巡すらなかった。
俺は即座に【はい】を選ぶ。
――ポンッ。
間の抜けた、あまりにも軽い音。
それが、この場の生死を左右する代物の“誕生音”だというのだから、皮肉としか言いようがない。
配信画面の中央から、光の玉が吐き出されるように飛び出した。
淡く脈打つそれは、宙で一度揺らぎ、瞬く間に形を変える。
光が折り畳まれ、伸び、やがて――筒状に丸められた一枚の紙へと収束した。
俺は息を呑む。
「……これが、術スクロール……」
拍子抜けするほど、質素な見た目だった。
豪奢な装飾も、禍々しい紋様もない。
ただの書状。
街の文具店に置かれていても、誰も気に留めないような、ありふれた紙切れ。
――これが、命を救う魔法のアイテム?
疑念が、胸を掠める。
だが、使い方はすでに知っている。
神々が、チャット欄に書き残してくれていたからだ。
紐を解き、スクロールを広げるだけ。
詠唱も、集中もいらない。
あとは、スクロールに刻まれた術式が、自動的に発動する。
あまりにも簡単だ。
簡単すぎて、逆に怖いくらいだ。
俺は紙筒を握りしめ、思わず呟いた。
「……本当に、こんなので大丈夫なのか……」
疑念は消えない。
だが、立ち止まっている猶予など、最初から与えられていなかった。
一分一秒が、ルークの命を削っていく。
血は止まらず、呼吸は浅く、胸の上下も弱々しい。
――やるしかない。
俺は歯を食いしばり、勢いに任せて紐を解いた。
「な、なんだぁ!?」
次の瞬間だった。
スクロールが開かれた刹那、そこから溢れ出したのは、文字でも、魔法陣でもなかった。
太陽を砕いて押し込めたかのような、圧倒的な光。
まるで巨大な鏡が正面で砕け散ったかのように、白金の輝きが一気に噴き出す。
「――――っ!」
反射的に顔を背ける。
瞼の裏が焼けつくように明るく、視界が完全に奪われた。
空気が震え、森の静寂が一瞬で消し飛ぶ。
音も、距離感も、すべてが歪む。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
数秒か、それともほんの刹那か。
やがて、光がゆっくりと収束していくのを感じ、俺は恐る恐る目を開けた。
「……は?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
そこには――
予想していた“何かが起きた痕跡”ではなく、明確すぎるほどの“存在”があった。
宙に、女が浮かんでいたのだ。
白いワンピースに身を包んだ、金色の髪の女性。
足先は地面に触れておらず、重力という概念を忘れたかのように、ふわりと空中に留まっている。
その姿は実体を持ちながらも、どこか現実離れしていた。
光の残滓を纏い、輪郭がわずかに揺らいでいる。
まるで――
この世界に“召喚された概念”そのもの。
彼女は幽霊のように、しかし確かな意思を宿した瞳で、俺を見下ろしていた。
森のざわめきが、遠くに退く。
心臓の音だけが、やけに大きく響いた。
『――うふふ。私を呼んだのは、あなたね。
あなたの怪我を癒せばいいのかしら?』
柔らかく、どこか愉しげな声だった。
場違いなほど穏やかで、残酷なまでに軽い。
俺は、その言葉を理解するより先に、完全に思考が止まっていた。
宙に浮かぶ女――術によって呼び出された“ナニカ”は、ゆっくりと視線を落とし、俺の肩口を見つめている。
まるで当然のように、最初からそう決まっていたかのように。
「……へ?」
間の抜けた声が、喉から零れた。
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。
言葉としては聞こえているのに、意味が脳に届かない。
だが、次の瞬間。
俺は自分の肩へと視線を落とした。
布が、赤く染まっている。
裂けた服の下から、乾きかけた血が滲み、じわじわと広がっていた。
――さっきの戦闘で負った傷だ。
気づいた瞬間、背筋が凍る。
「――違う!」
俺は反射的に、声を張り上げていた。
焦りが、喉を焼く。
もし、ここで。
もし、この女が俺に【癒(中)】を発動してしまったら――。
術は消費され、彼女は消える。
そして、ルークは――助からない。
その結末が、ありありと脳裏に浮かぶ。
もう一度【癒(中)】を交換するには、再び20ポイントが必要だ。
だが、俺に残されたポイントは、すでにゼロ。
取り返しはつかない。
やり直しも、失敗も、許されない。
冷たい汗が、背中を伝う。
指先が震え、心臓が嫌な音を立てる。
ミスは許されない。
間違えれば、ルークは死ぬ。
俺は一度、深く息を吸い込み、胸の奥で暴れていた不安を押し沈めた。
言葉を誤れば、すべてが終わる。
そう思うほど、逆に声は落ち着いていった。
「……癒してほしいのは、俺じゃない。ルークだ。――こっちの男を」
そう言って、蒼白な顔で横たわるルークを指さす。
女は一瞬だけ俺の顔を見つめ、それから小さく、柔らかに微笑んだ。
『そっちの彼を、癒せばいいのね』
まるで最初から答えを知っていたかのような口調だった。
次の瞬間、空気がふわりと揺らぎ、ルークの身体が静かに宙へと持ち上がる。
糸に吊られた人形のように、力なく、しかし不安定さは微塵もない。
女は空中でルークを抱き寄せた。
その腕は細く、頼りなく見えたが、そこには確かな力が宿っていた。
そして――
再び、光。
それは先ほどよりも柔らかく、温かい。
太陽の直射ではなく、春の陽だまりのような光が、森の薄闇を押し退け、ルークの身体を包み込んでいく。
傷口から滲んでいた血は、光の中で溶けるように消えていった。
裂けた肉が塞がり、浅く乱れていた呼吸が、次第に穏やかになっていく。
「……」
俺は、ただ立ち尽くして見守ることしかできなかった。
祈ることすら、もう必要ないと理解していた。
やがて光が収まり、ふわりと風が抜ける。
気がつけば、女の姿は消えていた。
そこには、地面に横たわるルークだけがいる。
さきほどまで死人のようだった顔色は嘘のように戻り、血は完全に止まり、傷跡すらほとんど残っていない。
そして――
「……すぅ……すぅ……」
何事もなかったかのように、呑気な寝息を立てていた。
あまりにも平和なその寝顔を見た瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。
膝から力が抜け、俺はその場に座り込む。
「……生きてる……」
掠れた声が、ようやく零れた。
全身から力が抜け落ち、遅れてやってきた安堵が、重く、深く、胸を満たしていった。
――助かった。
その事実だけが、世界に確かな重みを取り戻させていた。




