第33話 VSグリフォン②
――覚悟を決めろ。
そう思った、その刹那だった。
胸の奥で、何かが音もなく切り替わる。
熱でも、冷気でもない。感情が凍るのとも違う。ただ――雑音が消えた。
恐怖も、焦燥も、余計な思考も。
世界から削ぎ落とされ、必要なものだけが残る。
視界が、わずかに狭まる。
だが代わりに、情報が異様なほど鮮明になる。
グリフォンの重心。
翼の開き角。
前脚の鉤爪に溜まる力の流れ。
次の踏み込み――〇・七秒後。
考えてはいない。
分析しているわけでもない。
理解するより先に、身体が「知っている」。
剣士スキルが最適解だけを選別し、俺の意識に直接流し込んでくる。
――この感覚。
冒険者ギルド地下演習場。
ミネルバと刃を交えた、あの瞬間と同じだ。
「……来い」
発したはずの声は、やけに遠く、他人のもののように聞こえた。
「ガァァァァッ!!」
咆哮とともに、グリフォンが突進する。
正面から。一直線に。
逃げ道を断つ、獣として最も合理的な殺しの軌道。
――だが。
正しいのは、向こうだけじゃない。
俺の左足が、意思を待たずに半歩だけ外へ滑る。
踏み込むのではない。
“ずらす”。
次の瞬間、巨大な嘴が、俺のいた空間を貫いた。
「――――っ」
風圧が肌を裂き、視界が白く弾ける。
だが、身体はもう次の工程へ移行していた。
「――ここだ!」
剣が、下から斜めに跳ね上がる。
狙いは首ではない。
胴でもない。
――翼の付け根。
最も硬く、最も分厚く、鱗と筋肉が幾重にも重なった、斬りづらい部位。
だが同時に、飛翔という力を支える、要。
刃が食い込み、火花が散る。
骨には届かない。だが、確かな手応えがあった。
「キィィィッ!?」
悲鳴が、怒りと混じり合い、森を震わせる。
グリフォンの巨体が揺らぐ。
跳躍の勢いを殺しきれず、前脚が地面を抉った。
――今だ。
そう“理解する”よりも早く、俺はすでに踏み込んでいる。
剣士スキルが導くのは、勇敢さでも、無謀でもない。
生き残るための、ただ一つの手順。
斬るな。
深追いするな。
殺そうとするな。
いまの自分に出来ることだけを、確実にやれ。
――削れ。
踵を軸に身体を回し、二の太刀を放つ。
狙いは翼膜。
薄く、広く、再生の遅い部位。
「……っ」
裂ける音がした。
布を引き裂くような、不快な感触。
そして――
グリフォンの動きが、はっきりと鈍った。
「グル……ル……」
喉の奥で鳴る低い唸りが、質を変えた。
そこにあるのは、単なる怒りではない。
――警戒。
空を奪われた猛禽は、もはや絶対者ではなかった。
だが同時に、地に縛られたことで、より濃密な殺意を凝縮させてもいる。
それでも――
強い。
グリフォンは完全に地上戦へと移行していた。
広げた翼を盾のように使い、前脚の鉤爪を主武装として振るう。
「――なっ!?」
一撃が重い。
掠めるだけで、内臓が揺れ、視界が歪む。
俺は下がらない。
だが、前にも出ない。
距離を保ち、角度をずらし、
ただ、時間を稼ぐ。
剣士スキルが、容赦なく告げてくる。
――ルークを見るな。
――焦るな。
――感情を切り離せ。
――力に身を委ねろ。
視界の端で、倒れ伏すルークの姿が揺れた。
それでも、俺の首は動かない。
今、彼を見れば――
俺は剣を誤る。
「……くそ」
歯噛みする。
胸の奥で、何かが悲鳴を上げていた。
だが、身体は冷酷だった。
グリフォンが踏み込む。
前脚。右から。
俺は、斬らない。
剣を引き、身体を沈め、鉤爪が頭上を掠めた、その“内側”へ滑り込む。
至近距離。
獣臭と血の匂いが、鼻腔を焼く。
そして――
喉元へ、突き。
「――――ッ」
深くは入らない。
だが、確実に。
「ギ……ッ!」
声にならない音が漏れる。
頸動脈までは届かない。
それでも、呼吸を乱し、咆哮を封じるには十分だった。
グリフォンが、後退る。
――勝てる。
このまま削り続ければ、勝機はこちらに傾く。
問題は――時間だ。
ルークの血が、刻一刻と地面を濡らしている。
黒ずんだ土が、それを吸い込んでいく。
長期戦は、許されない。
俺は、剣を構え直した。
息が荒い。
腕は痺れ、脚は鉛のように重い。
剣士スキルが示す“最適解”は、残酷だ。
半ば自動で身体を動かすその代償として、骨は軋み、筋肉が限界を訴えている。
それでも――
退くわけにはいかなかった。
ここで折れれば、二人とも死ぬ。
だから。
――次で、終わらせる。
削るのではない。
勝つために残された道は――ただ一つ。
グリフォンは距離を取り、低く身構えている。
裂けた翼は地を擦り、呼吸は荒い。
それでも、その闘志は死んでいなかった。
この獣は、理解している。
この人間は、逃げない。
削り、耐え、時間を奪い、
――確実に、自分を殺しに来ている、と。
「グルルルル……」
低い唸りは、もはや威嚇ではない。
それは、覚悟の音だった。
次の突進。
それは、互いに引き返せない最後の激突になる。
俺の呼吸が、すっと整う。
視界が、さらに狭まった。
森が消え、風の音が消える。
世界から余計なものが剥ぎ取られていく。
残ったのは――一本の線。
グリフォンの重心から、俺の足元を通り、そのまま、首の付け根へと至る軌跡。
剣士スキルが示す、“勝利への道筋”。
――迎え撃つな。
――避けるな。
――斬り結ぶな。
踏み込め。
「――信じるんだ」
言葉が落ちた、その瞬間。
「ガァァァァァッ!!」
グリフォンが動いた。
最後の力を振り絞った、一直線の突進。
嘴。
鉤爪。
体重。
すべてを叩きつける、命を賭した一撃。
――速い。
だが、俺はもう“見ていない”。
身体が、先に動いた。
一歩。
半歩。
踏み込みながら、内側へ。
嘴が肩を掠める。
皮膚が裂け、熱が走った。
「ぐぅ……ッ」
それでも、止まらない。
俺は――グリフォンの懐に入った。
巨体の影。
最も安全で、最も危険な場所。
剣が、自然に構えを変える。
横でも、上でもない。
下から――斜めに。
狙いは、最初から決まっていた。
喉を覆う鱗の“継ぎ目”。
翼と首を繋ぐ、力の逃げ道。
剣士スキルが、冷酷に告げる。
――迷うな。
――感情を入れるな。
――ただ、振れ。
俺は、振った。
全身の回転を刃に乗せた、ただ一振り。
「いけぇえええええええッ!」
刃が、吸い込まれるように走る。
――ズン。
重い感触。
だが、今までとは違う。
抵抗が、消えた。
「……ッ」
声にならない音が、グリフォンの喉から漏れる。
時間が、わずかに引き伸ばされる。
金色の双眸が、大きく見開かれ、俺を――正確に捉えた。
そこにあったのは、怒りでも威圧でもない。
ただ、理解。
――負けた、という理解。
次の瞬間。
巨体が、前のめりに崩れ落ちた。
地面が揺れ、森が呻く。
土煙が舞い上がり、衝撃が足元から突き上げる。
俺は剣を引き抜き、数歩よろめいてから踏みとどまった。
背後で、何かが鈍く倒れる音。
振り返らなくても、分かる。
グリフォンは――もう動かない。
終わった。
視界が広がり、押し殺されていた世界の音が、一気に戻ってくる。
その瞬間、膝から力が抜けた。
「……ルーク」
ようやく、名前を呼ぶ。
剣を地面に突き立て、身体を引きずるようにして、彼のもとへ向かう。
倒れ伏すルークの胸に、そっと手を当てる。
――鼓動。
弱い。
だが、確かに、そこにある。
「……生きてる……」
息が、震えて零れた。
だが、このままでは――
ルークの命の灯は、確実に消えてしまう。
なすすべなく座り込む俺の視界の端で、
文字が、流れ始める。




