第32話 VSグリフォン①
「……っ」
喉の奥で、言葉にならない声が潰れた。
――くそ……動けない。
グリフォンが放つ無言の威圧。それは咆哮や羽ばたきといった分かりやすい暴力ではなく、ただ“そこに在る”という事実だけで、空気そのものを縛りつけていた。
金色の双眸が、こちらを射抜くように据えられている。
敵として認識されているのか、それとも獲物として値踏みされているのか。
どちらにせよ、あの眼は告げていた――先に動いたほうから殺す、と。
足裏に根が張り付いたかのように、身体が命令を拒む。心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳の内側で鳴っていた。
視線だけを、そっと横に滑らせる。
ルークは、もう限界に近かった。
額から顎へ、まるで滝のように汗が流れ落ち、革鎧の内側で呼吸が暴れているのがわかる。胸が上下するたび、喉から空気を引き裂くような音が漏れた。
「はぁ……っ、はぁ……っ、はぁ……っ……」
その呼吸は整えようとして整えられるものではない。恐怖に肺を掴まれ、酸素だけを必死に掻き集めている――そんな有様だった。
剣士スキルのおかげで、かろうじて理性を繋ぎ止めている俺とは違う。
ルークは今、己の精神をむき出しのまま、グリフォンの圧に晒されている。
見えない重石が、じわじわと彼の心を押し潰していく。
肩が震え、指先が痙攣する。
剣を握るその手から、今にも力が抜け落ちそうだった。
――まずい。
このままでは、ルークが先に“動いて”しまう。
恐怖に耐えきれず、叫ぶか、逃げるか、あるいは――意味のない一太刀を振るってしまう。
そうなれば、次の瞬間には――終わりだ。
ルークは――物言わぬ肉塊となり、粉々に引き裂かれる。
そんな未来が、唐突に、そしてあまりにも鮮明に脳裏へ浮かび上がった。
想像ではない。予感ですらない。確信だった。
幸いにも、グリフォンはまだ“動いていない”。
だがそれは慈悲ではなく、躊躇でもない。
ただ、獲物が完全に心を折る――その瞬間を、悠然と待っているだけだ。
逃げ場はない。
時間も、猶予も。
――やるしかない。
俺とルーク。
二人が生き延びるためには、ここで覚悟を決めるしかなかった。
正直に言えば、グリフォン相手に剣士スキルがどこまで通じるかなど分からない。
勝算など、砂粒ほどもない。
だが、それでも――いまのルークを戦わせるよりは、まだ可能性がある。
俺が前に出て、注意を引く。
その隙に、ルークを――
「――――ッ!!」
「うぉおおおおおおおおおおおっ!!」
言葉にするより先に、ルークが裂けるような咆哮を放った。
恐怖と絶望を振り払うような叫びを、力任せにグリフォンへと叩きつける。
――しまった!
その瞬間。
「キィィィ――――ッ!!」
グリフォンの翼が、闇を引き裂いた。
爆ぜるような突風。
土と枯葉が巻き上がり、森の輪郭が一瞬、白く掻き消える。
――まずい!
心の叫びと同時に、地面が砕け散った。
巨体が跳躍する。
影そのものが、牙と爪を携えて空から降ってくる。
「グルルルル……ガァァァッ!!」
鋭く突き出される嘴。
振り下ろされる、鎌のような前脚の鉤爪。
――避けられない。
そう判断した刹那、身体が勝手に前へ踏み出していた。
思考より早く、剣が走る。
横薙ぎの一閃。
火花が散った。
金属音が闇に弾け、凄まじい衝撃が腕を砕こうと襲いかかる。
――重い。
骨の芯まで響く反動。
だが、それでも。
止まった。
グリフォンの鉤爪が、わずかに軌道を逸らし、虚空を切り裂く。
致命の一撃は免れた。
その隙間で、ルークが大きく息を吸い込む音が聞こえた。
「冷静になれ、ルーク!」
叫びながら、俺は視線を投げる。
ルークは転がるように地面へ倒れ込み、呆然と目を見開いていた。
自分が何もできなかったことへの驚愕。
そして、なにもできなかった自分自身への――怒り。
その感情が、遅れて顔を歪めていく。
「ちょっ――ルーク!」
叫んだ瞬間、肩に強烈な衝撃が走った。
踏み出そうとした身体が弾かれ、俺はよろめく。
気づいた時には、ルークが俺の前に立っていた。
まるで当然のように。
まるで、それが最初から決められていた役割であるかのように。
ルークは、俺と入れ替わる形でグリフォンと相対している。
その背中は、あまりにも無防備で、あまりにも真っ直ぐだった。
「俺の方が年上なんだからよ……年下のお前が、庇ってんじゃねぇ!」
怒鳴り声は震えていた。
恐怖か、焦りか、それとも――覚悟か。
「こんな時に、何言ってんだよ!」
「――うるさいっ!」
叩きつけるように吐き捨てられた一言。
それ以上の言葉を、彼自身が拒絶しているのが分かった。
――これだから、ルークは困る。
彼の長所であるはずの責任感が、ここにきて最悪の形で牙を剥いている。
年上である自分が、年下を守らなければならない。
それは彼の中で疑いようのない“真理”であり、子どもの頃から一度も揺らいだことのない信条だった。
理屈でも、状況でもない。
命の危機ですら、それを覆せない。
「キィィィ――――ッ!!」
グリフォンの圧が、再び森を締め上げる。
低く唸る喉音が、警告のように、処刑の予告のように響いた。
このままでは――
ルークは、自分から死地に踏み込む。
俺は歯を食いしばり、剣の柄を強く握り直した。
背中越しに見えるその背丈が、ひどく遠く感じられる。
――年下だからって守られてたまるか。
そう思う一方で、それでも前に立とうとする彼を、突き飛ばせなかった自分が、胸の奥で静かに軋んでいた。
――後に、俺はこの時のことを酷く後悔することになる。
◆
「――来るなっ!」
短く放たれたルークの叫びは、次の瞬間、空を裂く咆哮に呑み込まれた。
「グゥ゙ガァァァァッ!!」
咆哮と同時に、グリフォンの巨体が弾けるように跳躍する。
大地を蹴った衝撃で、落ち葉と土が爆ぜ、空気そのものが叩き潰された。
――速い。
そう思った時には、すでに遅かった。
鋭く湾曲した嘴が一直線にルークを捉える。
彼は反射的に剣を構えた。
金属が悲鳴を上げ、火花が木々に閉ざされた薄暗がりの中で瞬いた。
「くっ……!」
受け止めた――はずだった。
だが、それはほんの一瞬の錯覚にすぎない。
次の刹那、翼が唸りを上げて振るわれた。
――叩き潰す、というより、刈り取る。
鈍く重い衝撃音。
ルークの身体は紙屑のように宙を舞い、背後の木々へと叩きつけられた。
幹が軋み、枝が折れ、乾いた破裂音が森に連なって響く。
「――――ルーク!!」
叫んだ声は、自分でも驚くほど掠れていた。
喉の奥が焼けつくように痛む。
彼は地面を転がり、握っていた剣が指先から零れ落ちる。
立ち上がろうとした膝が、力なく折れ、そのまま崩れ落ちた。
「……まだ、だ……」
掠れた呟き。
その唇から漏れる息は荒く、胸元には深く裂かれた傷が刻まれている。
革鎧は裂け、赤黒い色がじわりと滲み、土に滴った。
グリフォンは一歩、また一歩と近づく。
勝者の余裕か、獲物を値踏みするように首を傾げ、低く喉を鳴らした。
「キィ……」
その威圧は、刃のように鋭く、確実に心臓を貫いてくる。
ルークはそれでも顔を上げようとした。
だが視線は定まらず、焦点の合わない目が、最後にこちらを捉える。
――お前は無事か。
そう言いたげな目だった。
守れなくてすまなかった、申し訳ないと言うような、あまりにもルークらしい眼差し。
――だから、頼むから……こういう時ばっかりいい奴にならないでくれよ。
次の瞬間、その身体から完全に力が抜け、地面に伏した。
「――――っ!?」
俺は恐怖と絶望に言葉を失い、ほんの一瞬、動きを止めてしまう。
――その一瞬を、グリフォンが逃すはずもなかった。
巨大な影が、地を蹴る。
殺意を孕んだ突進が、一直線に――俺へと迫ってきた。
「くそっ……!」
声が零れるより早く、身体が先に動いた。
俺は地を蹴り、転がるように身を投げ出す。次の瞬間、背後を巨大な影が掠め、空気が押し潰された。
――間一髪。
ほんの一拍でも遅れていれば、骨どころか、肉体ごと叩き潰されていただろう。
地面に擦れた腕が焼けるように痛むが、そんなものは後回しだ。
跳ね起きると同時に、剣を正眼に構える。
刃先が、微かに揺れた朝霧を切り裂いた。
視線の先――
グリフォンは、もはやルークを見ていない。
琥珀色の双眸が、確かに俺を捉えていた。
……それでいい。
狙いが俺に移った。
胸の奥で、ひとつ息を整える。
恐怖はある。だが、それは今や足枷ではなく、刃を研ぐための冷水に変わっていた。
問題は、ルークだ。
視界の端に映る彼の身体は、ぴくりとも動かない。
革鎧を濡らす血の量が、嫌でも現実を突きつけてくる。
――まずいな。
あの出血は、放置すれば確実に命を奪う。
すぐにでも、応急処置を施す必要がある。
つまり――
俺が、ここでグリフォンを倒すしかない。
「――ガルルルル」
グリフォンが低く喉を鳴らす。
羽毛がざわりと逆立ち、次の突進を告げる気配が森に満ちた。
剣を握る手に、力を込める。
逃げ道はない。
助けも来ない。
それでも――退くわけにはいかない。
臆している時間もない。
ルークの命の灯は、いまにも消えかかっている。
――覚悟を決めろ。




