第十話 何度でも(3)世界が廻る日
それからさらに三年後——。
ヒーローになったばかりの頃の真理子そっくりに成長したひなたは、普通に彼氏を作り、大学を出るのとほぼ同時に結婚した。
婚約の前、律儀なことに、ひなたは二つ年上だという相手の男性のことをきちんと英斗に約束を取り付けて紹介しに来た。今回は真面目な話だから、と電話越しでもわかるくらいの真剣な声で頼まれてしまっては、いつもの調子で来るなと遇らうこともできない。
用件が何となくその手の話なのではないかという予感はして、久方ぶりにクローゼットの前で悩んだ。もはや悩むほどの服も持っていないのだが、最近、水面下ではあるが、漸くヒーローが短命であることに関する研究をしようと重い腰が上がり始め、その協力要請が英斗の元にも来たおかげで出不精が改善されたのだ。さすがに図書館と家を往復するだけの姿と、『検体』として他人に会う時の姿は別でありたいと思ってしまい、もう一度他所行きを揃えたのは記憶に新しい。それがこんなところでも役立つなら、無駄な買い物ではなかったということだろう。
だが、相手がひなたで、そもそも何の話をしに来るのか明確に聞いていない状況では、ジャケットまで着てしまったら堅苦しくなりすぎる——そう判断して少しだけ気を抜いたのが間違いだった。伝えられた時間よりやや遅れて家にやって来たひなたは、淡い水色の可愛らしいワンピースを着て、その後ろで小さく頭を下げた青年はジャケットを羽織っていた。それを見て、やはりもう少し整った格好にしておけば良かったと思った。
「どう思う?」
ひなたお気に入りのカフェオレを作り、珍しく買っておいたケーキを出してやったのに、ひなたの表情は強張ったまま変化がなく、目の前のケーキに飛びつきもしない。可笑しくなってしまった。そんなことを訊かれたって一体何と言えば良いのか。こっちは父親でも何でもない、ただの近所のオッサンなのである。
「今の若い子はわからないからなァ」——それしか言えないではないか。
でも、回答はぼかしたが、内心は大丈夫だろうと思っていた。ひなたから何と説明されているのか知らないが、このような訳のわからないオッサンを前に愛想良く挨拶をして、終始朗らかに会話をしていてくれたし、徐々に緊張がほぐれてきたひなたがマシンガンのように喋り出しても、「うんうん」と頷きながら聞いている。二つ上ということはまだ二十代半ばくらいだろうに、かなり落ち着いた青年で、どこか健一に似た雰囲気があると思った。
「おめでとう。健一さん、泣いてなかった?」
「あ、パパはまだ、これからなの」
「は?」
そういう滅茶苦茶なところも真理子に似てしまって、隣で優しく微笑む青年の将来を想像すると、何となく申し訳ない気持ちになる。
「まァ……——」青年に何か言葉を掛けてやろうと思ったが、浮かばなかった。「頑張ってね。いろいろと」
「ちょっと、チーフ! それどういう意味⁉︎」
ひなたは怒っているし、青年は不思議そうな顔をしているが、これから身をもって経験することだ。敢えて口には出さないことにする。
——「あたしがチーフに全然似てないダメダメな男に捕まらないようにちゃんと見てて」
——「ちゃんと報告してよね。あたしの娘がどれだけ可愛くなったのか」
自分には似ていないが、きっとひなたなら大丈夫だろう。万が一、大丈夫でない状況に陥ることがあったとしても、それを打開できないはずがない。健一もいるし、何と言ったって、ひなたはあの真理子の娘なのだから。
「……あのな、ひなた、——」こういう大事なことは近所のオッサンではなく、まず実の父親に報告して、他の親戚とか世話になった人にも報告して、それから——と言おうと思ったが、やめた。
「何?」
どんぐりのような瞳を瞬かせながらケーキを頬張り、隣に座っている彼の分まで狙っているひなたに、そんな説教は無効だ。
「……いや。今度、健一さんのリアクション、報告して?」
将来的に、体型まで真理子に似ないでほしいというのは、あくまで個人の願望であるから言うのは差し控えることにする。
再三断ったが、なぜか結婚式にも呼ばれた。行かないと言い続けたのに、最終的に消印のない招待状がポストに入っていて、しかもその時既に黒い油性マジックで『出席』のほうに丸が付いている状態だったからもはや笑うしかなかった。
式はきちんと式場を借りて行われたが、非常にこぢんまりとしたもので、出席者のほとんどが親族のみであった。ひなたの着たドレスはどうやら祖母である鞠江の作品らしく、一般的なウェディングという概念からすると奇抜にも思えるデザインであったが、とてもよく似合っていた。間違いなく、ひなたのために誂えたのだろう。
「可愛いよ」
本人に直接伝えたのは初めてだったのかもしれない。
ひなたは少しだけ目を見開き、それからみるみるうちに目を赤くして、「ありがとう」と言って泣き出してしまった。焦った。酷いことを言ったつもりはなかったし、「普通は父親への手紙で泣くのに!」と健一には怒られるし、散々である。胸ポケットに挿した簪の青い蝶は、その様子を見て終始ほくそ笑んでいたに違いない。
親しい友人はいないというこれまでのひなたの言葉のとおり、新婦側の友人はおらず、強いて言うなら自分かと思っていたら、用意してあった席は健一の隣で困惑した。ありがたい話だが、不相応な扱いであるし、親しくないにしても親族は親族であって、あくまで他人の自分にとっては終始居心地が悪く、早く終わってくれないだろうかと思っていた。これまでの仕返しのつもりだとしたら、少し意地悪をしすぎたかもしれない。
ただ、鞠恵のドレスに身を包んで笑うひなたはお世辞抜きに綺麗で、そのうち真理子に報告するため、その姿は必死に目に焼き付けた。つい先日まで、小さな女の子——Eightの高い椅子の上で両足をぶらぶらさせながら歪な絵を描き、ウサギのぬいぐるみを抱いて、教えてやったばかりのゆびきりの歌を口ずさみ、ジェットコースターにも乗れなかった、小さな、小さな女の子が、神父の前で立派に永遠の愛を誓い、新郎に『お姫様抱っこ』をされて大理石の階段を下りてくるだなんて、いろいろとチグハグすぎておかしな光景だ。そのせいなのか、眺めているのも何となくしんどいと感じてしまうのだが、これで忘れたなんて言ったら真理子に殴られるどころでは済まない。
式の後、新郎新婦が他の出席者への対応に追われているうちに、足早に会場を出た。新婦側の出席者は何となく顔見知りのメンバーであるし、英斗の素性もわかっているだろうからまだ良いが、新郎側からすればただの不審者である。場違いは承知しているから余計に空気がひりひりと肌に触り、長居するのは辛い。
この式場では他にもいくつか結婚式が行われているようで、白いドレスを着た花嫁が表に出て写真を撮ったり、至る所で招待客が歓談をしたりといった光景が見られる。着慣れない畏まった服装の大人たちが、小さな可愛らしいリングボーイのすばしっこさに振り回されているのを横目に、庭園を抜ける。
「桜庭さん!」
洋風の古城を模したと思われる鉄製の装飾が施された門の前まで歩いて来たところで、後ろから走って追い掛けてきた健一に捕まった。何となく最近、歩くのが遅くなったように感じてはいたが、どうやらそれは気のせいではなかったらしい。
大声で名前を呼ばれてしまっては、立ち止まらぬわけにもいくまい。
「見送りは結構ですよ」
「そう言わないでくださいよ。ひなたが探しています」
「どうして?」思わず笑いが出てしまった。主役には他に大事なことがたくさんあるだろうに。「別にどこへも行きやしませんよ。ああそうだ、もう家の抜き打ちチェックに来るのはやめろと言っておいてください」
真理子といい、ひなたといい、この家の人間はもう少し人を疑ったほうが良いし、自分の身分を考えて行動したほうが良いと思うのだ。もしそのうち旦那と喧嘩でもすることがあったら、避難してくるのは許そうと思うが、あまり頻繁に来られるのは勘弁してもらいたい。人が寝ているのにズカズカと家に上がって、勝手に片付けを始めるなんて論外だ。
何を言ったところで、きっとひなたは「なんで?」と平然と首を傾げるのだろうが。
「今度、やけ酒に付き合ってくださいね。これからはお互い一人暮らしなんですから」
のんびり、仲良くやりましょう、と、健一はみっともないほどぐしゃぐしゃに崩れた赤い顔にハンカチを当てながら、至極悔しそうに、しかしこの上なく嬉しそうに言った。今度から健一が入り浸るようになりそうで怖いが、愛娘を取られた愚痴を聞くくらいなら、健一に恩を返すと思えば安いものかもしれない。
「光栄です。……じゃあ」
お互いに頭を下げて、門を出た、その時。
自分の足元を、男の子がすり抜けていった。
奇妙なことに、一瞬が、とてもゆっくりと流れていた。
あれは、さっき、庭園で遊んでいた子。
薄いグレーのベストに、紺色のチェックのパンツ。
短い白の靴下は、どこで汚したのか、土が付いている。まあ、あれほどはしゃぎ回っていれば当然と言えば当然かもしれない。
脇をすり抜け、歩道に飛び出したその子は、はじめ、走ってきた自転車とぶつかる、と思った。
自転車に乗っていたのは、制服を着た女の子で。
甲高い、ブレーキの音が辺りに響く。
男の子は、ぶつかる寸前に、自転車を躱した。
ギリギリで、女の子のほうがハンドルを切ったからだった。
代わりに、自転車の子は派手に転倒して、その弾みで、体が車道に飛び出してしまった。
——そのままだと、轢かれるなァ。
そんなことを、冷静に、考えている自分がいる。
なのに、それを無視して、体は勝手に反応する。
こういう時、どうしなきゃいけないって。
ああ、やっぱり自分は、——。
本当に、不思議なことだが、今度こそ、これで終わって良いのだと、わかった。
何となく、すべてが——自分のこれまでの道すべてが整って、自分の中に、しっくりと、落ち着いた。
周囲の人間からすれば、ほんの一瞬の出来事だったに違いない。だが、頭の中には、随分と前に棺の中で見た母の死に顔と、そして葵や真理子の死ぬ間際の顔が浮かんでいた。
なぜか、皆、満足げに笑っていた。
——そういうことだったのか。
「桜庭さん‼︎」
健一の声がする。
——騒がしいな。早く娘のところに戻れよ。
「なんでだよ、あんた、避けられただろう、あんたなら……!」
そうかもしれない。
でも、そんなのわからないよ。だって、人間だもの。
ただの。
「……あの子どうした?」
「無事だよ、……——」
なら良い。
なんだか途轍もなく眠いのだが、健一はずっと騒がしくて寝かせてくれない。せっかくの一張羅を血塗れにして、式場に戻れないではないか。
「おい待て、寝るな! こんなのってないだろ、ひなたに……ッ何て言えば良いんだよ……⁉︎」
花嫁姿はまだ見たばかりだが、頭を打った衝撃で忘れていないか心配だ。真理子へ報告するのはまた少し後のことになりそうだから、それまで覚えていられると良いのだけれど。
空の上では白い月が笑っている。
「迎えに行った、って、言えば良いさ」
それだけ言えば、ひなたにはきっとわかるだろう。
——正直、行きたかなかったよ。地獄なんて。
でも、ずっと前に、好きな女を突き落としちゃったんだ。それなのに、自分はいつまで経ってもこっちにいて。
もういい加減、迎えに行ってやりたい。
ずっと、ずっと、迎えに行ってやりたかったんだ。
来なくて良いと言われそうだけど、閻魔大王なんかにくれてやるわけにはいかないからさ。
行って、果てまでも探して、どれだけ時間がかかっても良い、もし会えたら、抱き締めて、頭を撫でて、ごめんとか、ありがとうとかって言いたい。
どうせまた面と向かったら言えなくなるのかもしれないし、彼女はきっとすぐに僕の心を読んで、あの三日月みたいな瞳で僕を揶揄うんだろう。怒って会ってくれなかったらどうしようかって、それだけは少し不安なんだけれども、それでもちゃんと言いたいんだ。もう一度、この簪を渡して、今度こそ。
僕は君のことを世界中の誰よりも愛しているんだって。
やっと、これで、言いに行ける。
「……この死に方なら、誰も文句ないだろ」
葵は許してくれるだろうか。
奪って、壊すばかりで、何も与えてやれなかったけれど、こんな死に方なら、許してくれるだろうか。
可笑しいよ。本当に、可笑しな物語だ。
ねえ、人生って何なの?
ヒーローって、何なの?
世界が廻るそのほんの片隅に、ほんの一瞬存在するだけで、それが一つ消えたところできっと何も変わらない。世界にとってそれが一体どんな意味を持つというのだろう?
ヒーローは、人間だよ。
塵よりも小さな、ちっぽけな人間だよ。
そんなものに、一体どんな価値があったというのだろう?
「本当は、俺も、ヒーローになりたかった」
冷たいものが頬に当たり、目を開けたら健一が泣いていた。「でも、諦めたんです。怖くて。俺には世界に命を賭ける勇気がなかった。だから、羨ましかった。尊敬していました。ずっと、真理子も……貴方も」
——わからないなァ。
でも、なぜなんだろう?
なんだかとても眠い。
久しぶりに、とてもよく眠れそうな気がするんだ——。




