第十話 何度でも(2)越える日
またいくつかの春が巡って、ひなたは高校生になった。
制服が好みだという理由だけで第一志望にしていた学校だったが、それなりにレベルは高く、中学で常に成績上位をキープしていたひなたでも決して余裕とは言えなかった。ひなた自身も合格発表へ行って受験番号をこの目で見つけるまでは内心穏やかではなく、自分の受験票と同じ数字が並んでいるのを見つけた時はその場で飛び上がりたい気持ちを抑えるのが大変だったのだが、代わりに隣で車椅子に乗っていた真理子がひなた自身より喜んで大騒ぎをしたため、記念すべきその瞬間のことはもはや羞恥心と闘いながらそれを必死に宥めていた、という記憶しかない。ただでさえ可愛くて目立つのに、真理子のその奇行のおかげで『鈴木ひなた』の名前はほぼすべての教員らに知れ渡ることとなってしまった。さらに入学式の日、初対面であるはずの新入生の中にも問題の瞬間の記憶を持ち合わせた人が何人かいて、ひなたは高校初日から非常に恥ずかしい思いをする羽目になった。
入学式の後、正門の前で両親と記念写真を撮りながら、ひなたは帰ったら今日のことをチーフに愚痴りに行こうと思っていた。話したところで、どうせ「真理子がやりそうなこと。一緒に発表を見に行った時点でアンタの負け」などと言われるに決まっているし、ひなた自身、周囲に自己紹介をして顔を覚えてもらう手間が省けたのはとても良かったと、ポジティブに切り替えることにしたので、特に気に病んでいることもなかったのだが、何でも良いからチーフと話す理由が欲しかったのだ。ついでに、朝から周囲の男子がヒソヒソと話している『可愛いあの子』が、この一年三組鈴木ひなたのことであるとも気付いているから、それだって報告してやりたい。
——だって、あたし、努力してるんだもん。
むかつくことに、チーフは今まで一度もひなたに「可愛い」と言ってくれたことはない。褒めてはくれるが、「可愛い」の一言はないのだ。そのことに気付いてから、いつかそのうち絶対にチーフのその口から可愛いと言わせてみせると心に決め、一生懸命髪を伸ばし、ファッションやメイクの研究をして、好きでもない運動もやって頑張っているつもりだ。中学でも結構モテたし、今日も早速「生意気だ」「調子に乗っている」などという、主に女子を中心としたくだらない陰口も聞こえてくるから、路線は間違っていないはず。
「パパ、今日チーフに連絡して良いよね?」
写真写りが悪いとケチをつけて撮り直しをしてもらい、そのとびきりのキメ顔を崩しながらずいと健一のほうに視線を詰める。チーフを呼び出す時はパパが良いよと言った時——小さい頃に約束した筋道は今もきちんと守るようにしている。もう子どもではないのだし、今となっては『押しかける』のほうが正しいくらいだし、連絡先だって知っているので正直その手順が煩わしいと思うこともあるが、それが約束なのだから仕方がない。
チーフには受験勉強だって教えてもらった。真理子がさっぱりわからないと言ったことでも、チーフはたいてい何でも答えられて、教え方だって先生よりも上手かったし、知らないことはわざわざ調べてまで回答してくれた。そんな恩があるのだから無事に晴れの日を迎えたことくらい報告して然るべきだと思うし、何より今日は早起きをして自分でヘアアレンジをしてきたのだ。見てもらわないわけにはいかない。
ファインダーから視線を外した健一は苦笑いを浮かべている。「パパは良いけど、ご迷惑じゃないのかい? 桜庭さんにだって予定があるだろう」
「ナイナイ!」助け舟を出したのは真理子だ。「この前ヒーローも引退しちゃったんだし、暇してるわよ、きっと」
ハッピー・シャイニーの電撃引退発表があったのは昨年末のことだった。例のG型モンスターの一件から巷でも一目置かれるようになっていたシャイニーにはファンも多く、その突然の引退は世界的にも大きな衝撃が走る出来事であったが、チーフは呆気ないほどすんなりと身を引いてしまい、ハッピー・シャイニーは再び伝説へ還ることとなった。
当然ひなたも、真理子ですら何も聞いておらず、本当に寝耳に水であった。速報を見てすぐに本人に連絡し、真理子と二人で訳を問いただした。
元々昔話に出てくるヒーローじゃないか、などという今さらなことを言い、はじめこそのらりくらりとはぐらかしていたが、そうはいかない。ひなたはしつこく食い下がり、とうとう口を割らせた。五十の誕生日を迎えて「いろいろな意味でいい加減しんどい」とチーフは苦笑いを浮かべた。
もう十分だというのは本心に違いないが、どこか寂しそうにも見えた。チーフが何だかんだと文句を言いながらもシャイニーをとても大切にしていることはわかっていたし、子どもの頃から憧れ続けたヒーローがいなくなってしまうのはひなた自身にとってもショックだった。だから、「チーフのせいでシャイニーロスなの、慰めて!」と真理子と二人でオオノフルーツパーラーに連れて行き、一番高いパフェを奢らせたのであるが、その流れで家に帰って『お疲れ様パーティー』をしようと誘っても、やはりチーフは首を縦に振らなかった。
それからは結局、受験や卒業式などのイベントが相次ぎ、慌ただしく時間だけが過ぎていって、ひなたはしばらくチーフに会うどころか連絡すらもまともに取っていなかった。第一志望の学校に合格したことはきちんと伝え、電話口で喜んではくれたが、本当はチーフの顔を見て直接報告したかったのである。きっと会えば、素っ気なく褒めてくれて、いつものようにひなたの頭を撫でてくれたはずだ。
「わからないだろう。これで少しはのんびりとか……——」
「のんびりしかしてなかったらボケちゃうわよ、あの人話し相手いないんだから!」真理子は時々チーフに対し、結構酷いことをさらりと言ってのける。「それにねェ、ひなたはこれを見てほしいの。ほんッとにパパは、乙女心がわかってないんだから。ねェ⁉︎」
「うん、さッすがママ! ちゃんとわかってるわぁ!」だから、今日こそはきちんと会って、入学してきたと報告したい。そしてこの姿を見せて、あわよくば「可愛い」の一言をゲットしたいのである。
「いや、俺は良いけどさ、俺が留守の間も二人して散々お世話になっていたんだろう?」
「良いのよ。あの人満更でもないんだから。パパだって、この前帰国してちゃんと挨拶できてないって言っていたじゃないの。一緒に顔見せて来たら?」
「それはそうなんだけど……——」
「あたし荷物取ってくる!」
はっきりしない健一を尻目に、ひなたは校舎の中へと駆け戻った。
今日はこれで解散だと言われている。新しいクラスの皆でカラオケに行くなんて話も先ほど出ていたが、正直興味はない。友達と賑やかなことをするのだって、別に嫌いなわけではないけれど、チーフと喋っているほうが面白くて、充足した時間が過ごせるというのは真面目に考えずともわかる。
教室に戻り、今朝充てがわれたばかりのロッカーから鞄を引っ張り出すと、名前も知らない数名のクラスメイトに挨拶をして再び廊下を駆けた。すれ違う同級生に「バイバイ」と微笑み手を振ると、男子は一瞬固まってぎこちない笑顔を返してくる。全然、チーフと違ってスマートじゃない。見ているだけなら面白いから別に良いのだけれど。
ところが、揚々と正門まで戻ってくると、ついさっきまで一緒にいたはずの健一の姿がない。大きなカメラを脚の上に置き、真理子だけがその場で待っている。
まだ何を言われたわけでもないのに、それを見た瞬間、弾んでいた心臓が大きく一度だけ鼓動して、止まりそうになった。
「……、ママ、どうしたの?」
「あッ、ひなた、……——」軽い口調を作って声を掛けると、真理子は小さく肩を震わせた。数分前から一転、不安げな顔つきでスマホの画面を見つめている。昔から思っていることだが、真理子は誤魔化すのが苦手だ。良いことも悪いことも、何でもすぐに顔に出る。
これは、悪いことのほうだ。
「パパは?」
「うん、今、ちょっと……」
「何かあったの?」
何でもないのよ、とせめて取り繕えば良いのに、真理子は素直に口を噤んで下を向いてしまった。その手に握られたスマホの画面に開いているのはなぜかチーフの連絡先だ。
チーフがどうかしたのか、と訊ねようとしたところへ、健一が走って戻ってきた。ここ数年ですっかり広々した額には薄らと汗が滲んでいる。「駄目だな、見失っちゃった。電話は?」
「駄目、繋がらないの」
即座に、二人はチーフのことを話しているのだと悟った。「パパ、どうしたの? 何があったの?」
「……」
「パパ!」
真理子と同じように、健一は話すのを渋った。が、ひなたが少し強く詰め寄ると、すぐに吹っ切ったように顔を上げ、口を開いた。「……桜庭さんがいたと思うんだ。ただ、ちょっと、いつもと違っていて」
「どう違うの? チーフはいつもチーフでしょ?」
自然と早口になってしまう。しかし訊ねても、両親は互いに顔を見合わせるばかり。「ねぇ!」
いつまでもはっきりしない物言いに苛々していると、観念した健一が代わりに答えてくれた。健一が見掛けたというチーフは道路の向こう側に立っているだけでこちらに来る気配はなく、何かを言うでもなく、気付いた健一にただ一礼をして、姿を消してしまったという。
何が一番おかしかったって、髪が短くなって男性の姿——英斗の姿になっていたことだ。健一も一瞬人違いかと思ったと驚きを隠せない。
「幽霊だったわけじゃない、よな?」
「やめてよ、そんな……」真理子はそう言いつつもはっきりと否定はしないし、健一には本当にそう見えたらしい。何がと問われたら答えられないと言うが、それだけ様子が変だったということだろう。
——男性の姿、って……。
チーフが本当は男だということはもちろんひなたも知っている。が、想像がつかない。ひなたにとってのチーフは可愛くて、背が高くて、ふわふわの長い金髪が綺麗で、ひなたがまだ履けないハイヒールで颯爽と歩き回っているのが格好良い、美人のおねえさん——小さい頃からずっと変わらない。ひなたが同じヘアスタイルにしたいと言ったら、大変なのだと脅かして、それでも頑張れと言ってくれた。それを切ってしまったの? なんで?
憧れだったのに……——。
「あたしも探してくる」
「待つんだ、ひなた」健一の冷静な口調が、前へ出ようとする足を止める。普段ではあまり聞くことのない、低い声だった。「たぶん、もう近くにはいないよ。一旦、家に帰って、それから考えよう」
「え?」
「もしかしたら、俺の見間違いかもしれないし、な? そうしよう?」
反射的に真理子のほうを見ると、その意見に首を縦に振っている。「連絡先がわかる子がいるから、一応捜索をお願いしてみるわ」
「それが良いかもしれない。ヒーローなら、すぐに見つけてくれるだろう」
正直、この両親の言動はひなたにとって意外だった。
——なんで?
二人とも心配しているのは感じる。だが、なぜこんなにも温度がないのだろう? 淡々として、まるでロボットが自分に割り当てられた仕事を形式的にこなしているだけのようにも見える。ひなたは先ほどから心臓が聞いたことのないくらいの大きさで鳴っていて、じっとしているとそのまま破裂してしまうのではないかと怖くて仕方がないというのに。
『他人事』——その単語がよく似合う。
——ママ、なんでよ?
なんで探しに行こうって、言ってくれないの? 昔のママなら、きっと迷わない。誰が止めるのも聞かずに、走っていく。間違いない。
だって、ひなたのママは——
「ひな、帰るよ?」
ハッと我に返る。いつしか両親は道の先にいて、立ち止まってこちらを振り返っていた。
「……」
「学校はもう良いんだろう? それともお友達と何か食べてくるかい?」
——……何だろう?
とても気分が悪くて、足がそちらへ動かない。心臓が痛いくらいに鼓動しているせいだろうか? なぜだか自分でもわからないが、体は全力で嫌だと言っている。
そっちへ行くことだけは、嫌だ。
「……あたし、もう一回その辺見てくる」
「ひなた」
「パパたち、先帰ってて良いよ。気が済んだら帰るから」
「ひな、——」
「待ちなさい‼︎」
背を向け、駆け出そうとした瞬間、強い口調が引き留めた。自然と体が強張り、振り返る。
見たことのない、視線。
振り切れない。がっちりと腕を掴まれているみたいに、前にも後ろにも進めない。真理子とはこれまで喧嘩したり、怒られたり、何度もしてきた。けれどこんなに鋭く、真剣な真理子の目も、声も、初めてだった。
「……ママ?」
「こっちに来て。ひなた」
聞いたことのない、真理子の落ち着いた低い声が耳に届くと、ひなたの体は勝手にそちらに呼び寄せられてしまう。気持ちだけが背中側に置いて行かれ、少しずつ剥がれ落ちていく感覚が不快で、怖い。
「……あのね、——」ひなたが近くまでやって来ると、真理子はそっと両手を取り、真っ直ぐにひなたの目を見て話し始めた。「今までちゃんと話したことなかったけど、もう、あなたは子どもじゃないから、ちゃんと話すわね」
「何を?」
ちょっとした、反抗心。
自分を説き伏せようとする意図が見え見えで、腹が立つ。心の中では、今目の前にいるのが本当に自分の母なのか疑ってさえいる。
「チーフのことよ。あなたは賢いし、優しい子だから、もう気付いているかもしれないけど、チーフはね、……——」
特に驚きはしなかった。たしかにこれまで、真理子も健一も、一度だって教えてくれなかったが、そうなんじゃないかとずっと思っていた。
一緒にいれば何となくわかる。チーフはたぶん、どこかが壊れているのだろう。ずっと昔に壊れて、治すこともできずにそのままになっている。だから家にカレーを食べに来なくなったのだ。本人も言わないけれど、時々しんどそうに無理矢理笑っている時はあったし、ひなたの頭を撫でながら寂しそうな顔をしていることに、ひなたはずっと気付いていた。
そこには、触れてはいけないと思った。チーフ自身の口から語られることがない限り、ひなたはその正体を探ってはならないと、自分で決めていた。だってチーフはひなたにとって、特別で、大切な友達だから。
「だから何? あたし、友達が困ってるのに知らん顔するような人になりたくない」
チーフはきっと、ひなたのことを子どもだと思っている。出会った頃と変わらない、ちょっとマセた生意気な子ども——でも、残念。ひなたは可愛くて、とても賢くなったのだ。少なくとも、チーフの言葉の端々を拾い、繋ぎ合わせることができるくらいには。
真理子の言葉を聞きながら、ふと、昔聞いたチーフの言葉を思い出す。
——「可愛くて強くてメソメソしないアタシに変身しているだけ」
シャイニーじゃない。チーフにとっての『チーフ』は既に変身した姿だったのだ。
可愛くて強くてメソメソしないのが『チーフ』、ならば、変身が解けたチーフは何? その人が行くとしたら、どこなのだろう? きっと本当のチーフは可愛くなくて、弱くて、メソメソしてしまう人なのだろう。
今頃どこかで一人、メソメソしているのだろうか?
ひなたが苦しい時は、いつだって傍にいてくれたのに。
「ねぇママ。チーフって、どういう時にメソメソするの?」
「え?」真理子は少し驚いて、考える。「……あの人本当は泣き虫だからねェ、って、言うと怒るんだけど、そうね……一番酷かったのはやっぱり、葵ちゃんが亡くなった時、かな……——」
そこまで言って、ハッと表情が固まる。「パパ、もしかして、あそこに行ったとか……?」
健一は怖い顔をして黙りしている。
葵ちゃん——ひなたも覚えている。長い髪が目立つ、青色のヒーローだった人。優しくて、ひなたが好きだったアニメキャラの真似をして、よく遊んでもらった。
当時まだ小さかったひなたにはきちんと理解することはできなかったが、チーフにとって彼女がとても大切で、特別な人なのだということは幼心に何となくわかっていた。ある日仕事から帰ってきた真理子が、泣きながら葵が死んだことを話してくれたというのは記憶の片隅に残っている。そしてそれに対してチーフが酷く傷心して、元気が出るようにと、ひなたが手紙を書いたのも覚えている。
真理子の言った『あそこ』も何となく見当がつく。チーフは毎月、決まったとある日になると、ラーメン屋に行き、そして、ケーキを二つ買う。毎回それを持って、どこかに行っていた。
いつだったか、ひなたが真理子と喧嘩をして家に帰りたくないと駄々を捏ねた時、いつもならどこかのカフェやファミレスへ行ってひなたの気の済むまで話に付き合い、必ず家まで送ってくれるのに、一度だけ、それを渋ったことがあった。珍しいことだったからよく覚えている。チーフは少し考えた後、ラーメンをご馳走してくれて、ケーキを買うところまでは同行させてくれた。が、ここから先は連れて行けないと謝られた。
どこへ行くのか訊ねても教えてはくれず、ひなたの好きなケーキを買ってもらい、電車賃まで出してくれて、一人で家に帰された。
その時のチーフの顔は今でも脳裏に焼きついている。一緒に連れて行ってほしいなどという我儘は、とても言えなかった。
チーフはその場所へ行ったのではなかろうか。
あの時はわからなかったが、今なら何となくわかる。たぶん、そこには——
「駄目よ、ひなた」何をするとも一言も言っていないのに、真理子ははっきりと首を横に振った。「立入禁止区域の中なの。ひなたでは行かれないわ」
「じゃあママなら行けるの?」
「ひなた」
健一は嗜めようとしてくる。怒っているのはわかっている。だって自分でも、今とても酷いことを言っている自覚があるもの。
どんなに気持ちがあっても、真理子はもうチーフを探しに行けない。ほんの少し家の中を立って歩くだけで精一杯で、最近では料理だって座ってやる。ヒーローにも変身できない。
ピンキー・マリーはもういない。
チーフをたすけて、というお願いは、もうできない。
わかっている。真理子だって本当は行きたいと思っている。きっと誰よりも思っている。だって真理子の大事な友達だもの。
「なんで? パパもママもわかってるんでしょ? チーフはきっと——」
「わかってる」真理子はその先を言わせてはくれず、泣きそうな顔をして何度も頷いている。「でも、あなたに行って良いなんて言えるわけないじゃない。あなたはヒーローじゃないの。そこにいるって確証もないし、危なすぎる」
「でももしママだったら行くでしょ? ねェママ、あたしを誰だと思ってるの? あたしママの娘なの、ピンキー・マリーの子なの。ママが助けに行かれないならあたしが行く」
「やめなさい! ヒーローごっこじゃ済まないのよ⁉︎」
「わかってるよ。あたしはヒーローじゃない。でも……——」
テレビの向こう、いつだって、瓦礫と、粉塵、駆け巡る銃声と、轟音、恐ろしいモンスター——その世界を、カメラが追い切れないほど自在に飛び回るヒーローは格好良くて、可愛くて、強かった。
「でも、——」
それでも、ひなたはずっと知っていた。
——あれは、あたしのママ。
あたしの、大切な友達。
「人間なのは、同じでしょ」
ヒーローだって——。
真理子はほんの僅かに目を大きくして、瞬きをするよりも短い間、言の葉を止めた。
駆け出したこの背中に、遅れて両親の声が聞こえてくる。
ひなたは振り返らなかった。
——ごめんね、パパ、ママ。
でもあたし、きっと一生後悔する気がするの。
もし普通の子だったら、こんなことしないのかな? そうなんだって、大人しく親に連れられて、家に帰ってご飯でも食べるのかな?
——あたしには、無理だなぁ……。
どんなに考えても、自分にはそれはできない。
そのくせに、飛び乗った電車の中で真理子の顔が終始ちらついていた。これで良いのか考えた。今からでもごめんなさいと謝って、家に帰るべきなのだろうか? たしかに真理子の言うとおり、その場所にチーフが行ったという確証はないし、様子がおかしかったというのだって健一の思い違いかもしれない。
「……」
チーフ、今どこにいるの? あたしの可愛い制服姿見てよ——送ったメッセージはずっと既読にならない。いつもなら、すぐに読んでくれて、返事が返ってくるのに。
人生は積み重ね、何事も、土台が大事——昔、チーフはそう言った。だから一生懸命積み上げてきたつもりだ。
ここで両親と家に帰ってご飯を食べるという選択は、その努力を無にするものだと思う。
「何かになりたいと思うなら、今の自分にでき得る限りの努力をしなさい」——自分は何になりたいのだろう? なりたいものはわからないが、なりたくないものはわかる。だから、幾度となく停車し、目の前で開閉する扉から、降りようとだけは思わなかった。
だが本当に、どうしよう? 途中までの道のりは、ケーキを買ってもらった時の記憶を辿れば何となくわかるが、そこから先が問題だ。立入禁止区域の中は広い。半ば勢いでここまで来てしまったが、どこへ行けば良いのか、どうやって探せば良いのか、何も思い浮かばない。
——見つけられる、だろうか?
見つけた時にはもう遅くて、あったのはチーフの死体だったなんてことになったら——?
立ち込めてくる不安と闘いながら電車に揺られていたら、手に握っていたスマホが震えた。真理子からのメッセージだった。
恐る恐る開いてみると、位置情報が送られてきていた。隣県にある、立入禁止区域の中に、ピンが立っている。
言葉は何も付いていない。だが、これだけで十分伝わった。
許可のない者が立入禁止区域の中に入ると罰則がある。ただ、そういう規則を作っている割に侵入するのは比較的簡単で、中学の時も肝試しをしに行ったというクラスメイトが何人もいたし、SNSや有名な動画サイトでも立入禁止区域内で撮影してきたという投稿がいくつも見受けられる。チーフだって、既にヒーローを引退して一般人となっているにもかかわらず中に入っていけるのだから。
ただ、エリア内には至る所に防犯カメラが設置されていて、侵入者はすぐに発見されてしまうというのは聞いたことがある。元々はモンスターの出現をいち早く察知する目的で設置していたものらしいが、今は侵入者を発見するために活躍していて、ひなたも中に入れば捕獲対象だ。捜索隊に摘み出される前にチーフを見つけ出し、連れ帰らなくてはならない。
だが、真理子が送ってきた地図を頼りに区域内を歩いていたところ、次第に電波が弱まり、早々に繋がらなくなって現在地がわからなくなってしまった。考えてみれば、こんなところに一般の電波を飛ばしていても何にもならないのだから、圏外になるのは当然だ。
勘だけを頼りに、先へ進む。もっと遺跡みたいなものがたくさんある場所なのかと思っていたのに、巨大な岩のようなコンクリートの塊が転がっていたり、中身をくり抜いた建物の骨組みだけが砂に埋れていたり、瓦礫の山に草が生えて蔦が巻きついていたり——あとは、何もない。ここに広がる世界には、生きている感触がない。
こんな場所で、見つけられるのだろうか?
真っ直ぐに進めば海のほうに出るはずだが、景色を見ていると自信がなくなってしまう。世界の中で、自分だけが、たった一人取り残されてしまったかのような寂しさが押し寄せてくる。
ずっとこんな場所で戦ってきたのだろうか。
マリーも、シャイニーも。
名前も知らない誰かの幸せのために。
——馬鹿だなぁ、チーフは。こんなところに一人でいたら、もっと気持ちが沈んじゃうじゃない。
毎月、毎月、何年もの間、きっとチーフはここに来ていた。この何もない荒野を抜けて、一人で、あのケーキを届けに。
そんなことを、彼女はきっと——
ひらり。ふわり——。
目の前を一頭の蝶が横切っていった。透き通るような青い羽をゆっくりと動かしながら辺りを旋回している。あまり見掛けたことのない、珍しい種類だと思う。
反射的に体が強張り、固まってしまう。しばらくはひらひらと、予測できない動きで飛び回っていたが、ひなたがじっと目だけで様子を追っていると、やがて右の肩に止まった。
「……どうしたの? 一人なの?」
辺りを見渡しても、草木もなければ生き物の姿は何もない。もちろん、似たような蝶が飛んでいる風もない。
近くで見ても何の種類だかわからない。あまり大きくはないが、青くて、向こう側が見えるのではないかと思えるほど透き通った羽には薄らと模様が浮かんでいる。虫はあまり得意ではないが、この子は何となく怖くない。
少しすると、ふわりと再び舞い上がった蝶は、どこかに向かってひらひらと飛び始めた。
足が自然とついて行ってしまう。蝶を驚かさないよう適度な距離を保ちつつ、後を追う。不思議なことに、途中で見失いそうになっても、蝶はどこかに止まってひなたが来るのを待っていてくれるのだ。
気付けば、寂しいとも感じない。何の根拠もないのに、絶対に大丈夫だという自信があって、足取りは徐々に軽くなり、速くなり。
やがて、微かに海の音が聞こえた。
蝶は金色の頭髪の上にふわりと舞い降り、静かに羽を休めている。その髪はひなたのよく知るチーフの、長くて、柔らかなものではなく、肩にもつかぬほどに短く、雑に切断された英斗のものだった。
* * *
規則正しい漣の音の隙間で、何かが小さく砂利を踏む。
地べたに座り、膝の間に腕を渡して、頭を凭れていたものが顔を上げる。表情こそないが、その視線は、またひどく厄介なものが来たという厭忌の情に塗れている。
「オジサンオジサンって言うから、もっとオジサンなのかと思ってた。けど、背中は本当にガラ空きなのね」
ママの言うとおり、と少女は笑った。それを見た男の視線は、さらに嫌悪感が色濃くなる。
「言っただろ?」
それはひとえに、少女のその顔が、男のよく知る誰かに瓜二つであったからに他ならない。
「何事も土台が大切なんだよ。土台がしっかりしていないと何を上塗りしても、どれだけ積み重ねても、結局はいつか崩れてしまう」
男は淡々と話す。
そこに立つ少女は立ち去る風もなく、ただ真っ直ぐに男を見つめている。どんなに冷徹な視線を浴びようとも、臆することも、動じることもなく、確とその両足を地について。
「いい加減死なせてくれないか」
男の口からその願望を聞いても、少女は表情を変えなかった。誰に言われたわけもないが、心のどこかで、いつか、そんな言葉を聞く日が訪れるやもしれぬと、覚悟をしていたようにも思える。
やがて男はすっくと立ち上がり、少女に背を向けて歩き出したが、少女は静かに後を追っていった。その傍らを、青い蝶も優雅に飛びながらついて来る。
「嘘つき」
前を行く背中に向かい、少女は言葉を浴びせる。「有り金全部使って、超高級老人ホームに入って優雅に死ぬって言ってたくせに」
「僕は嘘つきだよ」
蝶は歩みを止めない男の周りを飛び回り、時折ゆらりと払いに来る男の手を器用に避けて、その指先や肩に留まろうとしている。
男の体は蝶を避け、右に、左にと傾き、やがて、足が止まった。その儚い翅の、予想のつかない行先を観察している。「そもそも、チーフなんて存在自体、丸ごと全部嘘。これでやっとお役目から解放されて嬉しい限りだ」
高く飛び上がった蝶は、男の金色の頭に留まった。居心地が良いのか、ゆっくりと羽を動かすその姿はまるでヘアアクセサリーにも見え、はじめから彼のために誂えたものであるかのようによく似合う。
「あたしにとってはチーフもシャイニーも、いつだって強くて優しくてカッコ良くて可愛い最高のヒーローだった。それが全部嘘だったって言うんなら、あたしがメソメソしてた時一緒にいてくれたのは一体誰だったの? 一緒に遊園地に行ってくれて、一緒にカレーを食べてくれたのは? ママが入院して不安だった時、ずっと一緒にいてくれたのは誰だったの?」
「そっくりだな、母親に‼︎」
苛ついた男は突然振り返り、声を荒げた。
驚いた蝶は飛び上がり、今度は少女のほうへと飛来する。体の周りを一周した後、左の肩に留まった。
「お人好しで、他人をすぐに信用する、人を見る目がないところも、全部そっくりだ。僕は、人を殺したことがある人間だぞ?」
蝶は肩の上で、息をするようにゆっくりと羽を動かしている。少女が見つめても、飛び立つ気配はない。
何となく、そこが、温かいと少女は思った。
再び、男のほうに視線を戻す。
「それがチーフの好きだった人でしょ?」
批判にも、脅し文句にも、気後れする様子はない。
湖のように深く、透き通った少女の瞳は、真っ直ぐに目の前の男を貫く。静かで、息をする音さえも鮮明に届く。
「……それ以上だったよ」
先に視線を外したのは、男のほうだった。
「葵ちゃんも、きっとチーフのことが好きだったんだね」
「……」
「幸せな人だね」
「どこが? お前みたいなガキに何がわかるって言うんだ、笑わせるなよ」
「わからないよ。でも、自分のために一生傷つくってわかってて、それでも願いを叶えてくれて、何年経ってもずっと覚えててもらえて。あたしなら、幸せ」
「どうかしてるよ」
「うん、どうかしてるかも。でも自分の人生の一番最後に見るのが好きな人の顔って、羨ましくなっちゃう」
男は嘲笑する。「夢を見るのは結構だけどね、彼女はそんなこと思ってなんかいないよ。僕はいつだって彼女のすべてを壊してきたんだ。あの時僕が最後まで嫌だと言って逃げなかったのはただの……贖罪だよ」
「言わないって信じていたんだよ。きっと葵ちゃんは、世界中の誰よりもチーフのことをよく知ってる」
「僕は何にも知らない」
「ううん、そんなことないはずだよ、思い出して? チーフが死んだら、誰が覚えていてくれるの? チーフしか知らない、葵ちゃんのこと」
「やめろ」
そこで、男は鋭く言葉を遮った。「……お前、僕のことが好きだ好きだと追いかけ回しているけど、ならここで僕に殺されても幸せだとか言えるのか?」
「言えるよ」
少女が即答すると、男は長く息を吐きながら下を向いた。この少女が、話の通じない母親の子であることを思い出したのかもしれない。
その母親はいつだって、夢を見る少女だった。あり得ない奇跡を信じ、誰かの笑顔が己の幸せと唱えて、世界に真の悪人などおらず、皆で手と手を取り合えばどんな困難も乗り越えていける——いつだって、そんな御伽噺の世界の住人だった。
「お花畑も母親譲りなんだな。呆れたよ、将来が思いやられる。そのうち本当に碌でもない男に捕まって泣きを見るぞ?」
「そこまで言うなら責任とって全部見てて。あたしが全然チーフに似てないダメダメな男に捕まらないようにちゃんと見てて」
「知るか! そんなのお前の父さんと母さんに頼めよ。僕はお前の家族じゃない」
「家族じゃないから何⁉︎」
少女は初めて強く、声を上げた。
一つ、二つと、呼吸をする。それが震えてしまうから、必死に飲み込む。まだ、自分には言わなければならないことがあるのだと、言い聞かせて。
青い蝶は、まだ共にある。
「小さい頃から……あたしのことちゃんと見てくれて、あたしが、いつだって寂しくないように考えてくれて、あたしがいけないことをした時は怒って、心配してくれて、パパにもママにも言えないあたしの気持ちも知ってるくせに」
「それはね、全部他人だからできることなの。無責任でズルくて、一番都合の良い立場にいるからできることなの」男は無情に返す。「そもそも、最初の真理子の説明がおかしいんだよ。アイツが卒園式だの入学式だのに出られたのは、僕がアイツを解雇したくて休みをやったからだ。僕はお前が思っているような『良い人』なんかじゃない」
「ママが死なないようにやってくれようとしたんでしょ? ママはずっとヒーローだったから、あたしが大人になるまで、ママがそばにいられるように」
そこで男の表情が明らかに変わった。少女の口から語られた言葉に、生気のなかった目が丸くなる。
「……わかるよ。ずうっと前から、わかってたよ。誰も教えてくれなくっても、ママとは、もう、長く一緒にはいられないんだなって。何となく、わかるの。ママはきっと、あたしが大人になったら、死んじゃうんだよね」
「……」
「あたしを、誰だと思ってるの?」
少女は笑っている。
男にとってそれは、見るに堪えない景色だったのかもしれない。懸命に、一つ、大きく呼吸をして、言葉を繋ぐ。自身を責めるための、少女を突き放すための、言葉を。
「……お前のママをそういう風にしたのも、僕だよ」
でも、わからない。
「そう思うんならあたしをひとりにしないで」
どうして?
「お前にはちゃんといるだろ。父さんも、友だちも、何だって、わざわざ……」
「いるよ。でも、違うの。チーフなら、意味わかるでしょ?」
男は否定しなかった。
「……贅沢な奴」
ただ雫の落つるが如く、短く言葉を零しただけで。
「ねぇ、チーフ。あたし、ママがヒーローじゃなきゃ良かったなんて思ったこと、ないよ?」
「……」
「ありがとう」
この言葉に偽りがないということは、彼には十分伝わっていると少女は確信していた。
蝶はいつの間にかいなくなっている。
——大丈夫。
少女はゆっくりと右手を前に伸ばす。
「一緒に帰ろう?」
その小さな掌を見ても男は身動きしない。
「……一人で帰りな」
「無理」少女は即座に頭を振った。「一人じゃ帰れない」
「ひなた」
「帰れない!」
彼女の甲高い声が大地を駆ける間、さらに勢いよく首が振られる。頭が取れてしまうんじゃないかと思うくらいに。「道わかんないし、迷子になっちゃう。お腹が空いて、動けなくなって、誰にも見つけてもらえなくて死んじゃう!」
「お前なあ、——」
「一人じゃ無理! 帰れない! ねぇ、ママもパパも迎えに来られないよ、チーフ。あたしのために一緒に帰ってよ!」
お願い、お願い、と少女はとうとう泣き出した。それまでの気丈な振る舞いはどこへやら、まるで子どものように駄々を捏ね、それでも出した右手はそのままに、わんわんと声を上げている。
「……——ッ、ああもォ‼︎」
しばらくその様子を冷めた目で眺めていた英斗であったが、やがて観念し、ひなたへの敗北を認めた。「やめろやめろ! もういい、わかった!」
地団駄を踏んで大泣きするひなたにずかずかと大股で歩み寄り、差し出された手を引っ張って抱き寄せると小さな頭を撫でる。「本当にあざとすぎる! 僕が子どもが泣いてるの無理ってわかっててやってるだろ!」
「あたし子どもじゃないし、チーフのせいじゃん!」英斗に抱かれながらもひなたは力任せにを体を殴ってくる。「死なないでって言ったのになんで覚えてないの、クソジジイ! ボケてるの? ここ立入禁止区域だよ? 見つかったらあたし前科つくんだよ? それでも迎えに来たのにどうしてくれるの⁉︎」
「わかったわかった、帰るよ、帰れば良いんだろ、帰れば」
「一緒に帰って! 死んじゃダメ! やだ‼︎」
「わかったって! その代わり早く泣きやめよ、お前を泣かすとお前の父さんに殺される」
「殺されちゃえば良いのよ、チーフなんか! うちのパパ、全然怒らないけど、怒るとすごく怖いんだから、一回死ぬほど怒られたら良いんだよ、馬鹿!」
言っていることも滅茶苦茶になってしまい、まるで別人と会話しているようだと英斗は思う。せっかく高校の制服を着るようになったのに、中身はまるで変わっていない。
「馬鹿馬鹿馬鹿! チーフの馬鹿! ママは優しいから言わないかもしれないけどあたしは言うよ!」
「真理子も言うよ……」
「もういい年の大人のくせに! パパとママより年食ってるくせに! なんでそんなに馬鹿なの⁉︎ 女の子を泣かすなんてサイテーなんだから! ていうかさっきっからこんな可愛い女の子に向かって『お前』って何⁉︎ 信じらんないんだけど! うざすぎ! オッサンになっても顔は良いのもほんとうざい!」
わあわあと泣きながら、大声でマシンガンのように悪態をつき続け、しまいには上手く喋ることができずに咳き込んでしまった。しゃくり上げるひなたの背中を摩りながら、英斗は溜息を吐く。
「……ひなた」
鳩尾の辺りに顔を埋め、何も喋らなくなってしまったひなただが、背中に回した腕には強く力が入り、しがみついたまま離れる気配がない。
背は小さいが、髪はとても長く、柔らかな猫のような毛が腰くらいまで波打っている。手入れが大変であることも英斗はよく知っている。だってほんの少し前までの自分と——チーフと同じ頭なのだから。
こんな馬鹿でサイテーで顔だけ良いうざいオッサンのことなんか放っておいたら良いのに、親子揃って本当に、お人好し。
「入学おめでとう、ひなた。制服、よく似合っているよ」
「……卒業式もちゃんと見て」
「卒業できんのか? こんなことして、初日で退学は笑えないぞ?」
「誰のせい——」
泣き腫らした顔をパッと上げ、怒って肩を引っ叩くひなたの頭を咄嗟に抱え、体で隠した。
「チーフ?」
「黙って」間違いない。人の気配がする。「こっちにおいで」
英斗はひなたを連れ、一番近くにある廃ビルの中に姿を隠した。立入禁止区域の中には様々なカメラや生体感知センサーがある。英斗自身は避けて来たつもりだったが、おそらくひなたが歩いてきた時に反応して侵入者がいることを知られているのだろう。
おそらくカメラにも映っている。制服を着ているのもよろしくない。立入禁止区域への無断侵入は見つかると最悪の場合は刑罰を食らう。どうにか見つからずに区域外へ脱出させることができたとして、記録されてしまったそれらをどう処分するかが問題だ。
物陰から様子を伺う。ちらりと見えた人影は赤かった。
「……」よく知っている立ち姿——現状確認に来たのが優秀な彼女だったことは、天の助けと取るべきか?
「1号」
声に反応して振り返った彼女は、英斗の姿を認めても一瞬誰だかわからなかったようだ。
「え……嘘、まぁじですか……」目をまん丸にして、思わず溢すその口ぶりはすっかり旦那のものに染まっている。
「マジです。ごめん」
「何してんですか、こんなとこで。立入禁止ですよ?」1号は周囲を警戒しながら歩み寄って来る。かなり声を落としているが、怒ってはいる。「その髪どうしたんです?」
「いや、ちょっと……」
「男性っぽくて似合ってますけど、——」話しながら、ふと1号の視線は、英斗にしがみついて後ろに隠れている高校生のほうに行く。「こんなところで女子高生と逢引き?」
「違う」
「見損ないましたよ」
「違う、違います!」
いくら否定しても1号は小さな体の前で腕を組み、怖気付く英斗にじっとりと白い目を向けて来る。さすがに旦那である2号を先に引退させ、自身はヒーローを続けながら三人の男児のママもやっているというだけのことはあり、とても怖い。
「断じて、違います。この子は……真理子の、娘」
「え、それはマズいですって。真理子さんに殺されません?」
「だから違うんだってば!」先ほどからくすくすと笑っている1号は内心わかってはいるのだろうが、本当に誰に似たのだろう? あの謙虚で奥ゆかしかった彼女はどこへ行ってしまったのか。
何にせよ、誤魔化すとさらに誤解が深くなると判断し、英斗は正直に経緯を話した。1号のことだから信じてはくれるだろうが、内容が内容だけに、その表情はみるみるうちに怖くなっていく。「えっと……だから、僕、が、悪いんです……」
「当たり前です‼︎」1号はますます怒ってしまった。「何考えてるんですか、そんなこと……馬鹿なんですか⁉︎」
「すみません」
「信じられない! 呆れてものも言えませんよ、ほんッとに……ねェ‼︎」
「ごめん、ごめんなさい。すみませんでした」
昔はもっと可愛げがあった。遠慮がちにプリンが食べたいなどと強請っていた子がまさかこうなる? こんなにズケズケと、ママになってさらに拍車が掛かっている。
「ごめんなさい」居た堪れなくなったのか、後ろに隠れていたひなたが声を出した。「あたしがいけないんです。すみません……」
「あなたもねェ! こんな馬鹿な人追いかけて、こんなとこ来ちゃダメ! 危ないし、ここは入っちゃダメって決まりなの、高校生なら知らないわけじゃないでしょう⁉︎ お父さんお母さんも心配するし!」
「はい……」
「ま、待って、1号! 彼女は違う、僕が巻き込んだだけだから、ごめん、できるなら、その……いなかったことに、してほしいんだけど……」
「ねェ、ほんッとに馬鹿ですよね? ジブンに規律違反をやれと?」
「……無理、ですかねェ……?」
生体反応の調査にやって来ている1号には、本部に帰還してから調査結果を報告する義務がある。反応の正体が人間であった場合は当然、それがどこの誰で、どのような措置を講じたかも事細かに報告書に記載しなければならない。
ひなたはおそらく来る途中でどこかの監視カメラに姿が映っている。それがあるから1号に敢えて声を掛けた。いなかったことにするというのは、暗にそれも何とかしておいてくれという意味だ。
「……ッ、姐さん!」
この呼び方も旦那である元・2号から染ったものだ。隔離施設を出た後、統括ではなくなった英斗のことをいつまでも『チーフ』と呼んでいるのがおかしいから何とかしてくれと言い続けていたら、いつの間にかそれに落ち着いてしまった。
つい先日、シャイニーを引退して退社するまでそう呼ばれ続けていたのに、とても懐かしい響きだ。
バツが悪そうに視線を泳がせる英斗の両手を1号は力強く握った。
「私、怒ってるんです。言いましたよね? 姐さんが退職される時、ちゃんと、しんどい時は連絡してくださいって、私言ったじゃないですか」
怒っていると言う割に、潤んだ瞳が光を反射している。それを見た瞬間、英斗は喉の奥に詰まるような感覚がした。
「もう二度としないって、約束してください。そうでなかったら今ここで保護します。その子も」
「……はい。わかりました。約束します」
「報酬は? わかってますよね?」
「はい」
「一個じゃ足りないですからね? 黒衣の千里統括に頼むんで」
「マジか……」それはそれでとても怖い。
「当たり前です‼︎ 今回だけですからね⁉︎」ぴしゃんと雷を飛ばし、1号は短く息をつく。「『墓参り中の老人が道に迷って、意図せず侵入していたようなので、区域外に案内し、帰宅させました』……今から処理に向かいますので、あとは映らないように自力で出てってください」
今すぐに、と強く釘を刺して、1号は去っていった。彼女は今年でいくつになったのだったろうか? 本当に逞しくなったものだ。
傍らでシャツを掴むひなたが上目で顔を覗き、ぽつんと溢す。
「……老人だって」
「黙んな」
「チーフ、道わかるの?」
「わかるよ」英斗は頷きながら、人目につかず、カメラやセンサーを避けて戻るための地図を頭に描く。一般人は地上しか歩かないから、監視の目は自然と下へ行く。あまり歩きたくはない。英斗一人であればさっさと帰ることも容易なのだが、今の自分には姫をお連れするという重要な任務がある。
見上げると、抜け落ちて鉄筋が剥き出しの天井の穴から空が覗いている。
「……ひなた。アンタ、ジェットコースター好き?」
「へ?」突然の質問に意図が掴めず、当然の如く戸惑うひなたであったが、ブリキの玩具のように首を縦に振った。
それを見た英斗は微かに相好を崩す。「じゃあ叫ばないように我慢できるね?」
「え、え?」
「安心して。傷物にはしないから」未だ話について行けないひなたに構わず、英斗は問答無用でその小さな体を片腕で担ぎ上げた。「お姫様抱っこじゃないけど勘弁してね」
「待って、何——」
英斗は駆け出し、三回ほど跳び上がっただけで天井を抜けた。
一瞬の無重力、着いた足先は即座にコンクリートを蹴って、傾いた建物の上を渡る。
「ケーブルがないからなァ」
平然とそんなことをぼやきながら、朽ちた建物の合間を右に、左に、飛んでいるかのように潜り抜け、立入禁止区域外を目指す。
「もうヒーローじゃないのに、どうして……?」
幼い頃、こうして学校まで送ってもらったことを思い出し、ひなたは肩の上で戸惑っている。英斗はもう英斗であって、ヒーロースーツは着ていない。
「自分は腐ってもヒーローなんだって思うと、本当嫌になる」
うんざりと鼻息を漏らす英斗は、まるで悪戯をする子どものように楽しそうに笑っていた。
区域外へ出ると、近くの廃止された駐車場に車が一台止まっているのを見つけた。その周りに人間の頭が二つあり、それが健一と真理子のものだということはすぐに判別がついた。
英斗が傍らに降り立つと、真理子は半分泣いているような顔をしていて、いつも朗らかな顔をしている健一は無表情だった。
「親なら娘くらいちゃんと見張ってろ」
迷惑だ、と担いできたひなたを返そうと下ろしたが、相変わらずひなたは英斗にまとわりついたまま離れてくれない。胴体に顔を埋め、背中に回った両腕には力が入っていて、絶対に離さないという強い意思が感じ取れる。
それを見た健一がふっと相好を崩した。
「父親としては、とても複雑です」健一は苦笑している。当然の反応だろう。「未だに信じ難いですが、本当に男性なんですね」
「まァ……」何と反応すべきか迷って首を傾げてしまう。「すみませんでした。傷物にはしてないので」
「していたら、この場で処してしまうので、やめてください」
笑えない話だ。
真理子は赤くした目を丸くしてこちらを見ている。理由はおそらく、ひなたと同じだろう。
「……長い間シャイニーだったせいか、こういう時どうしなきゃいけないって、体が勝手に反応するんだ。ヒーロースーツなんかなくたって」
「……まさか……」
きっかけはほんの些細なことだったと思う。もしかしたらと思って、パジャマのまま自宅のベランダから飛び降りてみた。自分の思い違いだったら間違いなく死んでいただろうが、そうはならなかった——そうはならないという確証があったのかもしれない。
最初は驚いた。あのモンスターのガスによる後遺症かとも考えた。だが、違う。この力はきちんとコントロールが利く。
「たぶん、真理子もそうだよ」
真理子はひどく驚きながらも、何か思い当たる節があるのか、妙に納得した様子で、それ以上は訊ねてこなかった。
「使うなよ? 真理子は」
これだけはきちんと伝えた。
「とりあえず、——」再び口を開いた健一は笑顔だったが、目が笑っていない。「娘を泣かした罰として、一緒に来てもらって良いですよね?」
「……はい」
なぜ娘の顔もまだまともに見ていないのにそれがバレたのか。
おかしな話だ。『娘を危険な目に遭わせた罰』なら理解できるが、やっぱりこの家族は何かがズレている。問答無用で車の後部座席に乗せられ、行き先も告げられぬまま連行されることとなった。
市街地を抜け、景色の大部分が緑色になる頃にはひなたはすっかり寝ていたが、それでも英斗の服の裾だけは絶対に離そうとしなかった。
「……なんでひなたを寄越した?」
「だァって聞かないんだもの。散々止めたのよ?」誰に似たのかしら、と真理子は助手席で憤慨しているが、英斗からすれば納得だ。
迂闊だった。様子なんか見に行かなければ良かった。ひなたが真理子と上手くやって行けるか、という個人的な心配の種だけを摘んでおきたくて覗きに行ったが、まさかこの姿で健一に気付かれるなんて思わなかった。
すると、前方から重苦しい溜め息が聞こえてきた。一瞬、唸っているのかと思ったほどだ。
「……正直、引っ叩いてもやりたいくらいよ。あんたのこと。けど……——」真理子はいつになく低い声で話す。「あたし、これでも怒ってんのよ? あんた自分が何したかわかってる? 本当にさ、……」
「……」
「本当にさァ……」
そこまで言って、真理子は口を噤んでしまった。健一は黙ってハンドルを握ったまま、どんな表情をしているかは見えない。
「……」
「……ひなたがいなかったら探し出せなかったわね」ぽつんと、真理子が呟いた。先ほどとは打って変わって、囁くような、穏やかな声だった。「チーフがメソメソしているのはどういう時かって、ひなたが訊いてきたのよ」
溜め息しか出てこない。
参った。幼い頃から頭の良い子だとは思っていた。きちんと自分で考えるし、計画性もある。だから真理子のように、まるで猪の如く所構わず突っ込んでいくことはなさそうだと安心していたのに、異様に勘が鋭いところは母親から譲られたのだろう。
もしかすると真理子よりも厄介かもしれない。真理子は深く考えずにどこでも彼処でも猪突猛進だが、ひなたの場合、自分で考えてゴーを出してから突っ込むタイプだ。誰が止めても聞かない頑固さも備わった超ハイブリッド型——絶対に敵には回したくない。
「……クソジジイって言われたの」
「ひなたに?」
「ボケてんのかって。ほんと酷い。躾がなってない」
「それはあんたがそれなりのことをしたからでしょう」
「頼んでないじゃん。放っておいてほしいんだよ、こっちはさ。散々、馬鹿とも言われたけど、クソジジイって……さすがにやめてほしい。刺さる」
「ハハハ……ざまあ」
「……アンタがもう長くないこともわかっていたよ。だから僕に……僕に似ていないダメ男に捕まらないように、見張っていてほしいんだって」
「見ていてやってよ。あたしの代わりに」
「なんでだよ。そんなの僕の役目じゃない。親父一人いれば十分だろう」
「パパじゃ来るのが遅いもの。オバサンはせっかちだから待ちきれないわ」
ハンドルを握る健一は沸々と笑っている。
「いつからかしら……ひなたがねえ、『昨日のあたしより強くて可愛いあたしになるの』って毎日そう言うの。……誰に似たのかしらね?」
「……さァ?」
「もう十分可愛いのにねェ」
「……そうだな。十分強くて、可愛い」
「だからあたしとしては心配なわけよ。あんただって、そんなに長くないでしょう? 先にあの世で待ってるから、来るならちゃんと報告してよね。あたしの娘がどれほど可愛くなったのか」
やがて車は田舎の一軒家の前で止まった。車を降りるよう促され、ひなたを起こさないようにそうっと手を外して外に出ると、真理子が慣れた手つきで玄関のドアを開けていた。
健一は降りてくる気配がない。真理子に連れられて家の中に入ると、電気は消えていて薄暗かった。「こんにちは」もなければ「お邪魔します」もなく、遠慮なしにさっさと靴を脱ぐと、迷いのない足取りで廊下を進んでいく。
英斗もゆっくりとその後に続く。板張りの廊下は踏む度にギシギシと音を立てる。長く誰も住んでいなかったのではないかと思われるが、不思議とさほど傷んだ様子はない。
「あたしの家なの」
奥の和室で雨戸を開けながら真理子が話す。何となくそうだろうと思っていた。造りも何もかも違うのに、室内に滞留している空気が何となく柔らかく、あのマンションの鈴木家とよく似た匂いがするのだ。「正確にはおじいちゃんおばあちゃんの家だったんだけどさ」
「へえ」
「ずっと人に貸してたんだけど、去年から空き家になっちゃっててさ、売るか、壊すかって考えてたんだけど、踏ん切りがつかなくってね」
それは純粋に、感覚の問題だ。その昔、店主がいなくなったEightを売らないという選択をした英斗には、理解できない話ではない。
「管理人がほしかったのよ。ちょうど良いから、あんたに任せるわ」
「……はァ?」
開いた口が塞がらないとはこのことである。そういう提案や相談ならまだしも、既に決定事項として通告されているのだ。
碌なリアクションも取れず呆然としていると、真理子は構わず話を続ける。
「昔の名残りで、ヒーローとして従事した人へは政府からの補償が手厚いままだから十分すぎるほどやっていけるでしょうけど、住むところがなくちゃねェ? 知ってる? 今時あんたみたいな身寄りのない老人が部屋を借りるって大変なのよ? 家賃は管理人の仕事と相殺ね。良い条件でしょ?」
人のことを老人呼ばわりした挙句、相変わらず平然ととんでもないことを言う真理子には文句の一つも言いたいところではある、が——
「あたしももうなかなかここに来るの大変でさァ……」
そんなことを寂しそうに言われてしまうと怒るに怒れない。
実際、会社を辞め、あのマンションの部屋は引き払ってしまったため、これからもしばらく生きていくのであれば現状住むところがないのも事実であり、真理子の言うとおり身寄りのない自分がまったくの一人で部屋を借りようとすると、様々な理由から断られるケースが多いのもわかっている。
「いや、あの……このこと、健一さんは? ちゃんと了承してんの?」
「もちろん。ていうか、あたしの家だもの。好きにしたら良いじゃないって」
あっけらかんと肩を竦めて言い放つ真理子を見て、訊ねた自分の愚かさを心の中で嗤った。
「よろしく頼むわ。ね?」真理子はそう言って、家の鍵を差し出した。安っぽいキーホルダーがたくさん付いていて、じゃらじゃらと楽器のように音が鳴る。しかもピンク色のものばかり。
「……わかったよ」
深々と息を吐き、それを受け取ると、真理子は満足げに笑った。「あ、言っとくけど、あんたの部屋みたいに汚くしたら承知しないからね? ひなたが抜き打ちチェックに来るからそのつもりで」
「やめてくれ。少なくとも一人で来るのはやめろ」
「気が向いたらあたしも来るわよ。でも気ぃ遣わなくて良いわ。ケーキなんて用意してくれなくても全然構わないから」
それはつまり用意しておけということだろうに。
ただそう言いながらも何となく、真理子はもうここへは来ないのではないかという、何の根拠もない予感がした。
じゃあね、と真理子は再び健一の運転する車に乗り込み帰って行った。本当に家族揃ってお人好しで、どうしようもない馬鹿者だ。
真理子が英斗より先にこの世を去るのは、それから約三年後の話——。
「じゃあ、またあの世で」
近いうちに会うことになるだろう。それまでの、暫しの別れだ。
例年より少し早く咲いた桜が舞い散る、美しい春のはじまり。




