第十話 何度でも(1)近づく日
「お! オネーサン、持ってんねえ! ハイ、これ!」
会計をしようと財布を出したところで、レジを打っていた若いニーチャンが声を上げた。このラーメン屋の何周年かの記念でくじ引きをやっているからと言われ、適当に引いたものが大当たりだったらしい。脂ぎった満面の笑顔で渡されたのは、レシートと間違えて捨ててしまいそうな紙切れ一枚——次に来た時にラーメン一杯が何でもタダになるチケットだそうだ。
威勢の良い挨拶で見送られ、財布をしまうのも忘れて足早に店の前を離れる。この気恥ずかしさは何年経っても一向に慣れない。葵はよくこんなところに一人で通っていたものだと感心してしまう。
ふと、もらったタダ券に目を落とす。
——奢ってくれているつもり、なのだろうか。
毎月、自分で決めたとある日に、必ずラーメン屋に行くことにしている。もう何年も続く習慣だ。気分次第で店は適当に変えるが、不思議なことに、先ほどのような特別イベントを開催している店にたまたま入ると、かなりの高確率で何かしらが当たる。それは時にラーメンであったり、餃子であったり、オレンジジュースであったりするのだが、とにかくよく当たる。当たるともう一度同じ店に来なければならないのがさらに恥ずかしいのだが、葵が奢ってくれているつもりなのかもしれないと思うと無下にもできず、有効期限が切れないうちに再度来店するようにしている。今日もらった無料券も来月末までだから、また一ヶ月後に来ることになるだろう。
少し急いで、近くの洋菓子店に駆け込む。閉店間際だからほとんど種類が残っていないが、艶々と光る苺の載ったショートケーキを二つ買った。小さなフォークを二つ付けてほしいと頼んで、受け取った箱を手にモノレールに揺られる。数駅で終点、駅前の寂れたコンビニでコーヒーを二つ買い、ここからは徒歩だ。
基本的には関係者以外立入禁止——たとえ英斗であっても、ヒーロースーツを着ていなければ入ってはいけないエリアとなっているから、少し回り道をする。監視カメラの位置が変わっていないことを信じ、死角を抜けていく。もう長らく通い慣れたルートだ。そうして二十分程度歩けば、目的地である。
海の音が聞こえる。
風がだいぶ生温くなったような気がする。
いつも自分がテーブルセットとして使っている岩はまだ今日もそこにあった。
「今日は報告があるんだよ」
岩に腰掛け、買ってきたコーヒーを置く。ケーキの箱を開け、フォークをビニール袋から出して、ショートケーキの傍に添えたら、話の続きだ。「1号と2号が結婚するよ」
話しながら、もしかしたらそんな報告なんてわざわざする必要はなかったかもしれないと思った。だって彼女は『ヒーローのことなら何でも知っている黒衣』なのだから。
自分のほうはそんなことになっているだなんて露ほども知らず、数日前に本人たちから告げられた時は驚いて、不覚にも固まってしまった。話がある、と二人揃って神妙な面持ちでやって来て、一体何事かと思って身構えていたら、2号の口からそう言われた。
本来であれば、非常に喜ばしいことなわけで、常識的にも第一声として祝福の言葉を掛けてやらねばならなかったのだが、自分の中で疑問の数々のほうが先に膨れ上がってしまった。
「……え? いつから? ていうかアンタ、『七人のカノジョ』はどうしたの?」
そう訊かないほうがおかしいだろう。順番は合っているのか、と訊いてしまいそうになったくらいだ。
二人は顔を見合わせ、どっちが説明するかとしばらく目配せをしていたが、結局2号が負けたらしく、渋々口を割った。「……姐さんのせいっスよ」
「なんでだよ」
「その……3号姐さんが亡くなって、チーフが休んでた時に、キツすぎて、できねぇし、俺このままだと死ぬって思って、全員切ったんス」
——マジか。
「ごめん」
「や、良いんス、それは、で、まぁ落ち着いてきて、もう平気だろって、またカノジョ募集しようと思ったんスけど……なんか、違って」
「なんかって?」
「……よくわかんないんスけど」
「そこ重要じゃない?」
2号は恥ずかしいのか、視線は宙を舞い、両手は落ち着きがなく、反対に口は黙っている。と、その様子を見かねた1号がきっぱりと、それを代弁する。
「私以外で、自分の背中を預けても良いと思う人がいなかったんだそうです」
光留はその隣で真っ赤な顔をして汗をかいている。ヒーローの時はそうでもなかったのに、今は赤羽のほうが強いというこの二人のパワーバランスが何となく垣間見えるような気がした。
「ああ……そう」
「私のことを食べたいと思ったわけじゃないみたいなんですよね」
吹き出してしまった。まさか赤羽の口からそんな台詞が出てくるなんて思わなんだ。
「ばッ、ちょッ……や、あの、そういうわけじゃなくて、いや、食べ……ええ……——」つーんとしている赤羽の横で、光留はひどく狼狽えているから面白くて仕方がない。
「良かったね」
散々笑った後で、そう声を掛けると、彼は一瞬驚いたように目を見開いたが、そのうちやはり恥ずかしそうに顔を赤くしてゆっくりと下を向いた。「……うす」
いつだったか、薄っぺらい人付き合いばかりを好む彼に、自分の背中を預けられる人を作るよう助言したことは覚えている。その意味を理解したのかどうかは知らないが、少なくとも彼女に対しては真面目に、大きな信頼を抱けると感じているのだろう。
彼がそういう相手の存在に気付いてくれたことに安堵している自分がいる。
「本当、良かったわ、おめでとう。なんだ、そんな話だったのか。すごい、構えちゃったじゃん」
「すみません……」1号は苦笑を浮かべている。特にあの2号が、突然クソ真面目な顔をしてやって来たら、構えないほうが無理だと思わないか?
「姐さんに言うの一番迷ったんスよ⁉︎」
「え、なんでよ? アタシには言いたくなかった?」
「じゃなくて! その……3号姐さんのこともあったし……」
「ああ……」要するに、彼らなりに気を遣ってくれようとした、というわけだ。「良いのに。アナタたちには関係ないじゃない」
「でも……——」
「アタシもたぶんそんな長くないもの。けど……アタシが言えた義理じゃないけど、子どもを考えているのなら、仕事のペースはちゃんとして?」
余計なお世話とも思ったが、これだけは言える。彼らは『本物のヒーロー』として戦い、今も尚『アイドル』を続けている。十代のうちに両親共に死別だなんてことになったら眼も当てられない。
彼らも既に言葉の意味は理解している。これについては真剣に受け止めてくれたようだ。
「赤羽。たぶんもう大丈夫だと思うけど、よく見張っておきなよ?」
「姐さん……ッ!」
「ふふふ、それは、大丈夫です」たじたじの光留を横目に、赤羽は余裕の笑みを浮かべている。「仮に他所で遊んでいても構わないんです。この人にとって、私を超えられる存在なんて、他に現れないでしょうから」
彼女はそこに、一生、と付け加えた。それはそのとおりだろうとは思うが、随分と強い人になったものだ。彼女が手綱を握っていれば心配は無用だろう。
もし今後、2号が何かをやらかして解決の手立てを必要とすることがあったならば、彼女を会社近くの喫茶店に連れて行って、プリンをご馳走してあげたら良いのだと教えてやっても良いと思った——。
——ショートケーキの上に載っていた苺を残して、隣に置いたケーキの上に載せてやる。綺麗なまま残るようになって、もう何年経つのだろう。
無意識に数えようとして、やめようと思って、答えに辿り着いてしまう。
五年くらい葵に会わなかったことなんて過去にもあったし、幼少期はもう一生会うことはないだろうと覚悟していた。それなのに、ふとそんなことを考えてしまう時がある。
ヒーローは長くは生きられない——そこまで決まっていることは個人的にとてもありがたいのだが、一体いつまで生きていれば良いのだろう? そろそろいい加減、味のあるラーメンやケーキを食べたい。
二年前、一平が亡くなった。たしか、五十五歳か、それくらい。爺に作ってもらった臨時のヒーロースーツをかなり気に入っていたようで、結局あの後も東に残り、それを着て本部の人手不足を二年近くに亘って補ってくれた。その間、「これまでの授業料を払え」と何度も飲み屋に連れて行かれ、奢らされた。もはやカツアゲである。そうしてヘラヘラと西へ帰り、しばらく音沙汰がないと思っていたら、ある日、電話が来た。何の用でもなかったが、何となくこれはその電話だと予感した。ただ、やっと本命を抱ける、と相変わらず下ネタに全振りした彼らしい話をした。その二日後——きっと豪快に笑い、彼らしく旅立っていったと思う。その訃報を羨んでいる自分は、確実に存在した。そんなことを頭の片隅で考えているなんて知られたら怒られてしまうので、誰にも言えなかったが。
彼は蒲公英に会えたのだろうか? 彼の所業を知って、引っ叩かれて、オロオロしていたら面白い。
——葵に会いたい。
このような我儘な感情がせめぎ合ってどうしようもないなんてことは、年齢と共に薄れていくものだと思っていたが、自分の場合はそうではないらしい。
あの日の夢は今もなお、よく見る。そういう時は目が覚めるとまだ夜中で、たいていトイレに駆け込むことになり、そのまま朝を迎えることが多い。現実の世界では持つことさえできないゴツくて重いナイフを平然と振る感覚は非常にリアルで、このまま自分が何もしなければ、彼女はきっと自分を殺してくれるのだろうと思うのに、彼女はそれを嫌だと言う。嫌だと言って、泣くのだ。だから、そうならないように、自分は彼女を殺さなくてはならない。
何度も、何度も、繰り返す。
それが自分に課せられた罰だと理解している。ヒーローなのに、人を殺しておきながら、誰もそれを咎めなかった。でも、自分自身と神様は、決して赦してはくれない。だからこれからもきっと自分はこんな夜を繰り返す。生きている限り、ずっと。
それでも不思議と最悪な気分だと言えないのは、たとえそんな無慈悲な夢であったとしても、そこへ行けば彼女に会えて、誰に邪魔されることもなく、二人して破滅への舞を踊っていられるからに他ならない。むしろ、ありがたいくらいだと思い、夜が来るのを心待ちにしてさえいる。
ただ、彼女がどんな顔をして笑うのだったか、最近はそれを思い出すのも苦労する。本当はケーキを食べながら、三日月のような形の目をして、嬉しそうにしているのが見たいのに、夢の中に出てくる彼女はいつも泣いている。泣いてばかりでなく、ほんの少しでも良いから笑ってくれたならと、そんな贅沢なことを考えながら、自分は彼女を殺す。
今宵も彼女と踊りたい。
ぼやけた空に月が浮かんでいる。細い、上弦の月。
「……そろそろ帰るよ。真理子がカレーを取りに来いって、煩くてさ」
立入禁止区域の中に、一般人の携帯電話に飛んでくる類の電波はない。今、自分個人用のスマートフォンがポケットの中で大人しくしているのは単にここが圏外だからで、おそらく区域外に戻ったら狂気じみた着信履歴が並ぶだろう。
真理子は英斗がこんな『墓参り』をしていることを知らない。もし知ったらどんな顔をされるか容易に想像がつくし、アイツが何を心配しているのかも察しがついている。だから、今後も言うつもりはない。
本当にお人好しが過ぎる。引退して何年経った? 今や何の関係もなくなった他人のことなんて放っておけば良いのに。
案の定、駅へ向かう道中で電話が震えた。以前はほとんど鳴ることがなかったのに、ここ数年本当に忙しく仕事をするようになったものだ。
「——、あんたどこほっつき歩いてんの⁉︎ 早くカレー取りに来なさいよ、冷めちゃうじゃない!」
通話ボタンを押した瞬間、こちらが口を開くより先に吠えられ、思わず耳元から電話を離した。ヒーローは引退しても、口煩いのだけは現役である。カレーなんて、冷めたらレンジにでも入れて温めれば良いのだから怒らなくても良いではないか。
既にラーメンとケーキを食べてしまっただなんて言えるはずもなく、素直に謝る。「ごめん。あと三十分」
「大丈夫なの?」
「うん、ごめん、忘れてないから。ちゃんと行くから」
大丈夫なの、と真理子はよく訊いてくる。そういう意味で訊いているのではないとわかっているのは、時折1号や2号も同じ質問をしてくるからであるが、そのいずれにも、いつも敢えてこう答えるようにしている。
通話を終えて画面を見ると、想像どおり不在着信があったことが赤く表示されている。一歩間違えればストーカーになれるほどの回数に、もはや呆れることを通り越して笑いが出てしまう。
こうして夕飯にカレーを作っては取りに来させたり、または『お助けアイドル』であることを理由に至極どうでも良い用件で呼び出したりするのは、きっと英斗の様子を窺うためのこじ付けだろうと気付いている。他人の心配をしている暇があるのなら、自分の体調を気に掛けたほうが良いというのに。
予想は十分すぎるほどしていたが、やはり真理子は確実に死に近づいていて、それは見る度に痛いほど感じる。ヒーローを辞めてからというもの、明らかに大人しくなってしまったし、急激に小さくなっている気がする。当然、痩せたという意味ではない。
既に引退して、会社も辞めた。もう何の関わりもない赤の他人であるし、彼女がどうあろうと自分には関係ない。それでも唯一、ひなたのことは気掛かりだった。他人である自分にもわかるくらいなのだ、あの子はきっと真理子の変化に気付いているし、再び海外に行ってしまった健一からもそこのフォローをよろしく頼むと内密に頼まれている。完全に真理子と他人になるのは不可能と思うほど、あの一家と親しくなりすぎたのだ。
一体、あの家族は何を考えているのだろう? 特に時折電話で話す健一については懐が大きすぎる。どこをどう考えたら、自分の妻子を他所の男に託そうなんて心意気になるのか。
「いくら仕事だからって異常ですよ」
一度そう言ってみたことがある。だが、健一は電話の向こうで声を上げて笑っただけだった。おそらくよく焼けた小麦色の顔で、大口を開けていたに違いない。
「真理子も娘も貴方を信頼しているし、私も貴方は裏切らない人だと信じているので」
信じるのは勝手だが、何の根拠もない。それなのに彼は迷いなくそう即答した。そして、今度はとても真剣な声色でこうも続けた。
「貴方に何かあると真理子も娘も悲しみます。女性を殴るのは私のポリシーが許さないので、くれぐれも妻や娘を泣かせるようなことはしないでいただきたい」
意味はわかる。遠い海の向こうにいるとは思えぬほど、大きくて太い楔を打たれた気がした。あれで真理子よりも年下だというのだから本当に恐れ入る。
漸くマンションが見えるところまでやって来て見上げると、鈴木家のベランダの戸が開いていて、そこからひなたが手を振ってきた。軽く右手を振り返し、先を急ぐ。
マンションのエントランスへ行くと、ひなたが大きな風呂敷の包みを持って待っていた。「こんばんは、チーフ」
もうとっくに統括ではないのだが、ひなたは相変わらず英斗のことをそう呼ぶ。
「こんばんは。待っててくれたの?」
「うん」頷きながら、本来は渡さなくてはならないはずの包みを大事そうに抱えている。「ねぇ、やっぱり、うちでは食べない?」
ひなたが遠慮がちに訊いてくるのは、ここ数年、鈴木家で食事をする機会をチーフが避けるようになったからである。元々、かなりの頻度で世話になっていて申し訳ないと思っていたのもあるが、本質は違う。
真理子ははじめのうちこそなぜ、と訊いてきたが、勘だけは鋭い彼女はこちらの顔色を一目見ただけで何かを察した。それ以降、カレーを作ったらタッパーに入れて、家で食べろと言うようになった。
こちらから頼んでいるわけでもないし、ましてや金を払っているわけでもない。そうまでして持たせてくれなくて良いと言っているのに、取りに来ないと怒って鬼のように電話を掛けてくるから、行かざるを得ない。
「ごめんね。やることがあるのよ」
「お仕事?」
「そう」
「そっかぁ……」ひなたはしょんぼりしながらも素直に包みを差し出す。仕事をする、と言うとひなたは家に遊びに来たいと駄々を捏ねない。それをわかっていて、その言い訳を使っているという罪悪感が、ちくちくと針を刺してくる。「がんばってね」
「ありがとう。ママによろしく言って?」
「うん……」空いた両手を背中に隠し、頭をやや傾けながらゆらゆらと体を捻る。もう少しお喋りがしたいことを訴える、昔から変わらない合図である。
物分かりの良い子であることはよく知っている。同時に、頭の良い子であることも、母親に似て勘の鋭さがピカイチであることも。故に、毎回仕事を理由にこうして誘いを断っていれば、何か別の事情があるのではないかと気付いていてもおかしくはない。
嘘をついている心苦しさもある。だからこういう時は少しだけそれに付き合ってしまう。さっさと背を向けて帰るほど冷淡にはなれない、中途半端な人間なのだ。
「学校楽しい?」
「まぁ、ぼちぼちかな」相変わらず大人ぶった生意気な回答である。「今度、修学旅行で西に行くの」
「あらそう。楽しみね。季節もちょうど良いし、旅行で行くには良いところよ」
「うん、……」
歯切れの悪い返事である。とても楽しみにしているとは思えない。
チーフ自身、学生時代に学校行事というものにはほとんど参加しておらず、修学旅行もまた然りである。だが、いつも行事の前になると周囲は不思議とそわそわ落ち着かなくなって、口を開けばその話題で持ちきりになる。中でも修学旅行なんて友達と泊まりがけで出掛けることができる特別な行事だったから、皆揃ってあれをしたいここへ行きたいと、何ヶ月も前から計画を立てていたと思う。
そういうものなのではないのか? 実際、新幹線を降りてきた学生の群れはどれも、己の置かれた非日常に目を輝かせ、眩しいくらいだった。
「どうかしたの?」
「……前に、おとうふ食べたよね」
「そうね、よく覚えてるわね。あの店まだあるのかわからないけど、調べて行ってみたら?」
「……」
「ひなた?」
何かあるのだろうと思い、しばらくじっと様子を窺っていると、やがて黙りとしていたひなたは深々と溜め息を吐いた。「……ママに言わないで」
わかった、と頷いた途端、ひなたはそれまでの大人しさが何だったのかと思うほどに勢いよく喋り出した。
「あのね、めんどくさいの」
「何が?」
「班ごとにね、お寺見て、帰ってきたら、レポート書いて、発表会しなきゃいけないんだって。同じ班の子、みんな真面目にやんないしさ」全然楽しみじゃない、とひなたは不満を漏らす。「めんどくさいし、つまんない。個人発表だったら良かったのにな」
どうやらひなたは勉強するのが嫌いではないらしい。本人は「好きではない」という言い方をするが、学校の成績は比較的良いという。真理子曰く、頭が良いのは健一に似たのだそうだ。そのせいで反抗する時も言いくるめられてしまうことが増えたと真理子は怒っているのだが、学ぶのが好きというのは実に良いことだ。
「お友達は別のグループなの?」
「友達っていうか……——」ひなたは首を傾げる。「別に、仲良いってわけじゃないし」
「あら、そうだったの。いつも話してる子たちは?」
「話すし、きらいじゃないけど、なんか……クラスがいっしょで席近いから話してるだけで、そういうの友達って言うのかよくわかんない」
感覚は理解できてしまうから返答に困る。こういう時、大人としては本当は何と諭してやるのが正解なのだろう?
「まァ仕方ないわね。学校ってそういう面倒臭いことを経験する場所なのよ。中学行っても高校行っても同じ。ずっと面倒臭かった。アタシはね」
それでも我慢してきちんとやっていたのは、たぶん、行きたい場所が決まっていたからだろう。
「えー……」当然ひなたは項垂れている。希望を与えてやれなくて申し訳ないが、自分にとってはこれが真実だ。「ヤダなぁ……」
「アタシがそうだったってだけよ? アンタはアタシとは違うんだし、楽しいこともあるかもしれない」
「ほんとにぃ?」
「保証はできないけどね。こればっかりは行ってみないと何とも言えないから。今でもさァ、嫌な奴と一緒に仕事しなきゃいけないことたッくさんあるの、我慢してる」
「そうなの?」
「仕事だからさ、仕方ないのよ。けどポンコツみたいな奴と何かすんの、ほんと最悪。ひなたと同じ。一人でやりたいわよね、そういう時って」
ひなたはくすくすと笑っている。ひとまず先ほどまでの不貞腐れた表情はどこかへ行ってくれたようだからホッとした。「だからさ、ひなたが面倒臭いって思うの、おかしいことじゃないから安心して。でもどうせ行かなきゃならないんなら、そこに費やす時間の分、満喫しなかったら損するわよ? アンタ自身が満足できるように行動するのが重要なの。他の人はどうでも良い。迷惑掛けるのはいただけないけどね、そうじゃないなら笑われようが馬鹿にされようが、関係ないわ。やりたいようにやんなさい」
「チーフが言うなら仕方ないか」素直でない風を装いたいお年頃、ということにしておこう。「ねぇ、レポート書いたら、発表聞いてくれる?」
「もちろん。楽しみにしてるわ。ほら、もう帰んなさい、また真理子に怒られるわよ」
「チーフがね」
「わかってんじゃない。またね」
笑顔でエレベーターに乗り込み、バイバイ、と手を振るひなたを見送る。いつものとおり、扉が閉まって籠が動き出し、再びきちんと止まるまで。
受け取った包みが温かい。きちんと蓋は閉まっているはずだが、ほんのりと鼻をつくカレーの匂いが、寄り道をせずに帰宅して早く食べろという呪いを掛けてくる。今日は満腹だが、抗わず、そうしよう。これにはそういう不思議な力があることをもうよく知っている。
それからしばらく経った日の夜、いつものように夢の中で、広い砂漠のような荒廃地を歩いていた英斗は、遠くに立っている黒い人影を見つけた。
一瞬、ふわりと内臓が浮き上がりそうな感覚を抑えるため、地面を蹴る。真っ直ぐにその影に向かって走り、徐々に近づいていく。と、やがてくっきりと見えてきたそれはやはり葵なのだが、何かが違う。
何が?
足を止める。汗が背中を伝い落ちていく。
自分も何か、変だ。いつもなら葵に近づくうち、知らぬ間に変身しているはずが、今日はまだ英斗のままだ。
「その左手、どうしたの?」
そこにないはずの彼女の左手が、存在している。初めて出会った頃のままに、肘から先——白くて、細くて、陶器のように美しい指先まで。
「生やしたの」
貼り付けたような笑顔で平然とそう答えるのはたしかに葵なのだが。
——何を言っているんだ?
腕って、一度失くなっても、ああして生えてくるものだったっけ?
「これで良い。これであんたと戦える。あんたに勝てる」葵はうっとりと両掌を見つめて笑っている。
あ——。
これは、違う、駄目なやつだ。
と、片足を後ろに引いたその瞬間、一瞬で距離を詰められ、左手で腕を掴まれた。
「——ッ⁉︎」
力が強すぎて、振り払うどころか動かすことすらできない。
すぐ近くにある葵の顔は嫌悪に満ちて、その視線がねっとりと首を絞めてくる。
「あんたのせいで、片腕なのに、なんで私が、いつも、殺られなきゃなんないの?」低い声が重石の如くのしかかってくる。体が硬直して動けないでいると、今度は結んだ髪の先を乱暴に掴んで引っ張られる。
「痛ッた——」
「痛い? こんなで痛いとか言わないでよ。私がどれだけ痛くて怖かったかあんたにわかる?」
「あおい……」
「あんたのせいでしょ⁉︎ あんたなんか、本当は弱っちくて、何にもできないくせに」
「葵、やめて——」
「大ッ嫌い‼︎ あんたなんか!」左腕が思い切り体を突いた。弾みで背中から地面に転がると、葵の冷たい視線と声が上から槍のように降ってくる。「大人しく、さっさと、死んでくれれば良いのに」
——駄目だ。
違うと思うのに、抑えられない。だって、葵はもしかしたら、本当はそう思っていた、かもしれない。英斗のせいで片腕になったのは、事実だ。
「……ご、ごめ——」
「死ぬのはお前だ、クソ野郎」
静かで、それ以上に低い声が聞こえ、同時に銃声が轟いた。葵の後ろに誰かが立っている。
「ふざけやがって」火を噴いたばかりの黒い小型銃が、盛大な舌打ちと共に傍に投げ捨てられる。「失せろ、マジで。二度と出てくんな」
それも、葵だった。こっちは本物だとすぐにわかる。
葵はものすごく怒っていて、近くにいるだけでそれが伝わってくる。攻撃された『葵』はその一撃で黒い砂と化し、消えてしまった。
呆然と、尻もちをついたまま、見上げる。
同じようにこちらを見下ろしている葵は、ひどく寂しそうな目をして、泣いてしまうんじゃないかと思った。
「……あんた、私があんなこと言うと思ってんの?」
ぶるぶると顔を左右に振る。反射的に触ろうとしたが、駄目だった。ただ少しだけひんやりとした靄に腕を突っ込んでいる感じがするだけで、触れることはできない。
「あおい……」もしも、と考えると申し訳なくなって、何も言えずに下を向いてしまう。「ごめん……」
「……馬鹿だねェ」ふっと、表情が緩む。「そんなわけないでしょう」
葵はゆっくりと腰を屈め、視線の高さを合わせてくる。夢の中でさえ、葵には左腕がない。消えてしまったアレは偽物だが、せめて夢の中くらい、本物にも左腕があったって良いじゃないかと思う。
今し方銃を握っていた右手が、頬を撫で、親指が涙を拭って、それから頭に触れる。「泣かないで。可愛い顔が台無し」
「だって……」
「あんた疲れてるの。わかる? バランス崩れてるからあんなもの作り出しちゃうんだよ。気を付けな? 体ももう年なんだから、無理しないで」
「どうして一緒に連れて行ってくれないの?」
葵は質問には答えてくれず、ただ三日月のように細めた目で笑い、頭を撫でてくれる。「あおいは、英斗のことが好きだよ」
「……」
「可愛いねェ。英斗」
その瞬間、ぷつん、と目の前が真っ暗になる。部屋の天井が視界を覆っていた。葵の声の余韻がまだ頭の中に木霊している。
徐々に感覚が現実に戻ってくる。目の周りが重く、呼吸がしづらい。寝ている間に泣いていたせいだ。
ふと、電子音が鳴り響いていることに気付くと、一気に覚醒した。床に転がり落ちているスマホに飛びつくと、まだ日を越えて間もない真夜中だというのに、画面はひなたからの着信を告げていた。
心臓を鷲掴みにされているようだ。或いは、まだ自分は夢の続きにいるのだろうか?
途端に震え出す手を何とか抑えて応答する。
「……ひなた?」
「……出てくれないのかと思った」声が潤んでいる。心臓の鼓動はますます速まり、電話を持つ手がじんわりと汗ばむ。
「ごめん、どうしたの、何かあった?」
「助けて、チーフ、ママが……ママの、具合が悪くて——」
ひなたはしゃくり上げながらもきちんと状況を説明した。
気が付いたら夜道に飛び出していた。変身していたら一瞬の距離なのに、もどかしいほどに遠いと思った。既に電車もバスも終わっているこの時間、大通りに出ても車通りは少なく、走ったほうが早いと判断した。
履き慣れたランニングシューズなのに、すぐに息が切れてしまう。年のせいか、それとも、焦っているのだろうか? だとしたら、何に焦っているのだろう?
ひなたが電話の向こうで泣いていたこと?
真理子の体調が急激に悪化して、夜間救急で運ばれたこと?
——「落ち着け、馬鹿タレ。あんたが焦ってどうすんの」
そうだよ、何を自分は焦っているのだろう? 真理子がいつ急変して、突然逝ってもおかしくないだなんてこと、今さら驚くことでもなかろうに、病院の裏口で受付にいた守衛に何と声を掛けたのかもよく覚えていない。まともな言葉を話していたら良いのだが。
ひなたはこちらの姿を認めるや否や駆け寄ってきて胴体に顔を埋めた。「おそいよぉ……」
「ごめんごめん。アンタこんな格好で寒くないの?」慌てて家を出てきたのだろう。パジャマの上に薄いジャージを羽織っていて、足はカラフルなゴムサンダルに裸足が突っ込んであるだけだ。「ほら、これ着てなさい。風邪ひくわ」
「チーフは?」
「暑いから良いのよ、走って来たんだもの」ひなたに上着を着せながら、乱れた呼吸を整える。「真理子は?」
「あっちの部屋」
「話できるの? ちょっと見てきて良い?」
「うん……」
「そこ座ってて良いから。何か飲む?」
ひなたは下を向いて首を左右に振ると、貸してやった上着を掴んで小さく縮こまっている。「大丈夫、すぐ戻ってくるから」
表向きはわかったと頷いているが、何となく自販機で温かいコーンポタージュの缶を買って、ひなたに渡した。たしか、2号がよくこんなことをしている気がしたのだ。
教えられた処置室へ行き、カーテンをそっと開けると、真理子はまだそこで寝ていた。掛けられた薄いバスタオルのようなブランケットには丸い体のラインが浮いている。
「真理子」
小声で呼び掛けると、すぐに反応し、こちらを見た。
「あれェ、来てくれたの?」真理子は少し驚きながら、へらへらとした笑顔をこちらに向ける。が、腕からは点滴チューブが伸びているし、顔色もまだどこか蒼白い。「ひなたが連絡した?」
「そうよ、何してんのよ、大丈夫なの?」
「ごめェん」まったく反省の色が見えない。「ただの胃腸炎だってさ」
「はァ?」
「たしかにここんとこ食べ過ぎだったからなァ」
「アンタねェ……——」
「ああ、でも一応検査はするって。今夜は消化器系の先生がいないし、ちょっと入院しましょうって言われちゃった」
「それが良いと思うわ。ついでに隅々まで診てもらったら? アンタ、会社辞めてからちゃんと健診行ってないでしょ」
「う、バレてるゥ……」
「馬鹿なの? 年考えなさいよ、長生きするんじゃなかったわけ? ひなたに余計な心配掛けんじゃないわよ」
「そうよねェ。可哀想なことしちゃった……」
短く息を吐く。この状況でなければこんなものではまだまだ言い足りないが、やめた。喋ると普段どおりのふざけた調子で元気そうではあるが、実際のところは相当にしんどいと思う。「まァ良いわ、大したことないんなら。アンタが静かだと調子狂うのよね」
「心配してくれたの?」
「……そりゃあ、ねェ」
「ごめんねェ、ありがとう。ねェついでにさ、ちょっと助けてくれない? あたし困ってるのよね」
「……何?」何となく嫌な予感がするが、気のせいだということにしたい。「着替えくらいなら持ってきてやっても良いわよ?」
「それもそうなんだけどさァ、あたしが入院してる間、ひなたが一人になっちゃうじゃない? あんた少し預かってくれない?」
「……は?」
「たぶん二、三日で出られると思うのよ。その間だけで良いからさァ、あんたのとこに置いてやってよ」
「え、ちょっと待って? アタシ理解力足りてないわ。それはどういうこと? まさかアタシんとこで一緒に暮らしてろって意味じゃないわよね?」
「そうよ」
「……あり得ない‼︎」咄嗟に叫びそうになったのを既のところで堪えたら、声が勝手に裏返ってしまった。「アンタ何言っちゃってんの? ダメに決まってるでしょ、そんなの、アタシ男なのよ、忘れちゃった?」
「ちゃんと覚えてるわよ」
「ならわかれよ、なんでそうなるんだよ⁉︎ ダメだろ、いろいろとそんな……」神に誓って間違いが起こることはないが、親戚でも何でもない中年のオッサンの家に年頃の女の子を一人で泊まらせるだなんて、どう考えても世間的にまずいと思うのだ。
しかし真理子は一体何がいけないのかとでも言いたげな顔でこちらを見ており、自分の価値観がおかしいのだろうかと考えざるを得ない。「アンタの娘にパンツなんか洗われた日にはもう生きてらんないよ……」
「片付けなさいよ。洗われないように」
「馬鹿! そういうことじゃない‼︎」
「そういうことなのよ。ひなたはしっかりしてるし、身の回りのことだってできるけど、まだ小学生よ? 何かあったらどうするのよ」
言いたいことは十分すぎるほどわかるが、相手が悪すぎる。「いや、家に様子を見に行くくらいなら良いけど、預かるって……」
「だって一人でいて変な奴が押し入って来たらどうすんのよ?」
まさかそんなと思う反面、ふと脳裏に、何年か前にEightであった『変態不法侵入者』の騒動が蘇ってきて、軽く遇らうこともできない。
「一日くらいならまだしも、何日も家に一人にはしておけないわ。でしょう?」
「……」あれを経験してしまった自分としては同意する他なく、それでも何とか別の理由を探すべく、頭は必死に回ろうとする。「ひ……ひなたは? 嫌だって言うかも」
「言わないわよ。あんたの家に行きたいっていつも言ってるじゃない。忘れちゃったの?」
「いや……うちは、ほら、アンタも知ってのとおり、とても、とても、汚い、し……」
「ひなたに掃除してもらいなさい。それくらい宿泊代としてやらせたって平気よ」
「……」
「あんたのことを信用して頼んでるの。お願いね?」
選択の余地がないことはもうわかっている。だが、本当にそれで良いのかという最後の問い掛けが、素直に承諾しようとする自分を妨げている。
「……後悔することになっても知らないからな?」
「大丈夫よ。チーフはそういう人じゃないもの」
その自信が一体どこから来るのか、いつも訊いてみたいと思っている。
散々反対したものの、結局どうすることもできないという状況は変わらない。真理子の心配も理解はできるが、だったらそれこそ二、三日クラスメイトの誰かの家に厄介になったほうがずっとマシだと思うのだ。
しかしひなた曰く「そんな友達はいない」らしく、真理子にしても、ママとしてここ数年で周囲との良好な関係を築き始めてはいるものの、やはり長年のヒーロー勤めの影響は大きく、人間関係は何となく希薄であるとのことだった。その上、あの『軟禁期間』があったことを皆が知っているため、一見仲良くしているように見えたとしても、自身に向けられる視線が未だにどこか懐疑的な差別の色を纏っていることをひしひしと感じているらしい。ママ友と言っても常に一線を引かれた付き合いしかできない——娘を預かってくれなどという重責を託せるような知人はいないのだという。
軟禁期間のことを言われてしまうと、真理子を巻き込んだ側である英斗としてはぐうの音も出ない。真理子が好き好んで続けていたヒーローだが、結局それを止め切れなかったのも自分だ。真理子の交友関係が非常に乏しい原因を作ってしまった責任は大いにある。
だから、わかったと言うしかなかったのだ。一応と思い、健一に連絡して状況を説明したが、「あなたがいるなら安心です。よろしく頼みます」と決まりきったように言われて通話を切られた。この家の人間は一体どういう頭の構造をしているのか見てみたいくらいだ。例えば、英斗にも同じくらいの年の子どもがいるというならまだ話はわかるが、そんなことは夢でもあり得ない。今さらこんなガキに欲情しないが、あくまで自分はオッサンであるということを理解しているのだろうか。
そんなことを悶々と考えながら鈴木家へ行き、真理子に押し付けられた自宅の鍵で侵入、ひなたに必要なものをまとめてくるよう言って玄関で待った。傍の下駄箱の上に、三色のぬいぐるみが置いてある——『マリー』『シャイニー』、そして『スカイ・ハーク』が行儀良く並んでこっちをじいっと見てくる。
大事にされているのは感じる。自分の代わりに可愛がってくれと葵に託されて、何年が経ったろう? 色もあまり褪せていないし、埃も被っていない。だが、人が困っているというのに、阿呆みたいな顔で笑いかけてくるのをやめてほしい。間違いなくこちらを指差して、嗤っていると思うのだ。
三人はずっとここで、出掛けていくひなたのことを見送り、帰って来るのを迎えているのだろう。『マリー』も『スカイ・ハーク』も今ではもう廃盤になった貴重品であり、特に『スカイ・ハーク』のほうはプレミアが付いている。そんなことを知ったら、また彼女は激怒するに違いない。
ものの数分で足音が再び近づいてきて我に返る。ひなたはだいぶ年季の入った牡丹色のランドセルの他に、水色の旅行鞄を持っているが、旅行鞄のほうはほとんど中身が入っていないのではないかと思うほど形が潰れている。
「大丈夫なの? アタシ、中身見ないわよ?」
念のために訊いたが、ひなたは頷くだけだ。実際女の子に何が必要なのかなんて知らないが、足りないならまた取りに来れば済む話かと思いつつ靴を履かせている時、ひなたは何か迷っているような素振りを見せた。意識が部屋の奥に向いていることを何となく感じる。
「どうしたの?」
訊ねながら、やはり連れていくのはやめたほうが良いのではと考えた。いくら普段から家に遊びに行きたいとせがんでいたとしても、状況が違いすぎる。「ひなた、無理しなくて良いのよ? ママはああ言ったけどさ、ひなたの好きにして良いの。ちゃんと考えるから」
すると暫し首を傾げていたひなたは、少し待っていてほしいと告げて履きかけた靴を脱ぎ、部屋に戻ったかと思うと今度はモジモジしながら出てきた。その腕には草臥れたウサギのぬいぐるみが抱えられている。
「やっぱり、この子も良い……?」
小さな声で遠慮がちに訊いてくる。きっと、サクラは外に連れて行かないという自分のルールがあったのだろう。汚れるからなのか、お姉さんになったプライドなのかはわからない。
「もちろん。その子アンタの友達でしょ?」
駄目だと言われると思っていたのか、ひなたは心底ホッとしたように相好を崩し、こちらに駆け寄ってきてすぐに靴を履き直した。
再び外に出ると、空の遠いほうが薄らと明るくなっていた。もうすぐ夜が明けてしまうようだ。
ひなたにランドセルを背負わせて旅行鞄は自分が——と思ったが、ランドセルがあまりに重かったのでやめた。見た目のとおり本当に何も入っていないのかと思うほどに軽い旅行鞄をひなたの肩に提げさせ、ランドセルは自分が持った。こんな重量物を毎日背負って学校に行っているなんて信じられない。凶器にもなりうる重さである。
エレベーターの中で、上着の裾が攣っているのに気付いた。左腕にサクラを抱いたひなたが、下を向いて右手で引っ張っているのだ。何も言わないが、眠いのと不安なのとで頭の中がとっ散らかっているのが顔に出ている。
「ひなた、お腹空いてる?」その右手を捕まえながら、普段のとおりになるように努めた。「何か食べてく?」
訊いてはみたものの、こんな時間ではどの店もシャッターが下りていて、やっているとして駅近くの二十四時間営業のチェーン店だろうが、まだモーニングメニューにも切り替わっていないだろう。
「……ううん」
「そう。じゃあコンビニ寄って、あとで食べようか」
「うん」
「眠い? もうちょっと我慢してね?」
「うん」ウトウトしているともとれる頷き方である。「……チーフ、ランドセル似合わないね」
不意打ちを喰らって吹き出してしまった。似合ったらそれはそれで問題である。同時に、今の自分が化粧をほとんどしていないことを思い出す。身分証は持っているが、この状況で警察官にだけは出会したくない。
途中でコンビニに立ち寄り、間に合わせに食料を調達する。だが、食べたいものを訊いてもひなたは頭を振るばかりで、何も手をつけようとしなかった。パンが良いのかご飯が良いのか、はたまた甘いもしょっぱいもわからず、結果的に随分と大量に購入してしまった。
大きなコンビニ袋を揺らして坂道を上がりながら溜め息を堪える。あの汚い部屋を晒すのが現実味を帯びてきて、布団くらい整えて来れば良かったとか、玄関にまとめたゴミ袋を捨てて来れば良かったとか、そんなことばかり考えてしまう。しかし言い訳をするなら、そもそもまさかこんなことになるとは思わなかったのである。夜中にいきなり起こされて慌てて出てきたから、いつも以上に散らかり具合が酷いというのは自覚がある。
「チーフの部屋、きったな……」
開口一番、痛烈な批判を浴びる羽目になったのは言うまでもなく、反論のしようもない。
「……そりゃあアンタのママのお墨付きだからね。文句があるなら無理に泊まらなくても良いのよ」
「ないよ。今のは『感想』」
「よく言うわ」真理子に似て口が達者になったものである。「入ってて良いわよ、アタシ、ゴミ捨ててくるから」
「あたしも行く」
「え、下に行くだけよ?」
そう言ってもひなたは一緒に行くと聞かず、玄関先に鞄を置いて、サクラと共に一階のゴミ置き場までついてきた。袋を放り込んでくるだけだからものの二、三分の話である。
部屋に戻ってきて、ひなたが手を洗ったりトイレに行ったりしている間に慌てて洗濯籠に入っていたパンツやら何やらを洗濯機の中に隠蔽し、ベランダの戸を半分ほど開け、未だ自分の形が残っている布団を整えた。寝床についてはあとで考えるとして、とりあえず干しっぱなしの洗濯物も隠した。
「チーフ」
「はい、はいはい、なぁに?」いろいろと必死すぎて気が回っていない自覚はあった。「どうしたの? 座っていて良いのよ? 買ってきたやつ食べる?」
ひなたは何か言いたそうにしてはいるが、すぐに視線を下げて頭を振り、その言葉を飲み込んでしまう。
「……ううん。何でもない」
その様子を見て、気付く。
落ち着かないのは自分じゃない。ひなたのほうだ。
「……ごめんね。牛乳でも飲もうか」
ひなたをリビングの椅子に座らせ、買ってきた牛乳を電子レンジで温める。やはりサクラは腕の中にすっぽり収まっていて、ひなたは大人しい。いつもならもっと自分からいろいろなことを話し掛けてくるはずなのに、やはり普通の状態ではないのだろう。
窓の外はもうだいぶ明るく、マグカップの中の牛乳みたいな色をしている。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「熱いかもしれないから気を付けて飲んで」
「うん」ひなたの向かいに自分のカップを置くと、中を覗き込んだひなたが訊いてくる。「チーフのそれは何?」
「これはカフェオレ」
「ずるい。あたしもそれが良い」
「アンタは駄目よ、珈琲だもの。寝られなくなっちゃうじゃない」
そうは言ったものの、あからさまにしょんぼりされると作ってあげたくなってしまう。つくづく駄目な大人である。「……わかった。今は駄目だけど、あとで、おやつの時間に作ってあげる」
「やったぁ」
やっと少し嬉しそうに笑ってくれてホッとする。油断して飲んだカフェオレはまだ熱かった。
カップの中に息を吹き掛けながら、ひなたはじいっとこちらを上目に見ている。
「どうかした?」
「……かみの毛ふわふわで良いなぁ」
「セットしてないからあんまり見ないで?」ふわふわと言うよりボサボサなのではないかと怖くなる。「ひなただってふわふわじゃない。柔らかくて」
いつもは何かしら結っているが、今日は下ろしているからよくわかる。背中の肩甲骨が隠れるくらいの長さがあり、まだパーマも染色も経験していない綺麗な髪である。本人によるとまだ長くしたいのだそうで、綺麗に伸ばすにはどうしたら良いかとよく訊かれる。
「チーフ、本当にオジサンなの?」
「そうよ。可愛くてそうは見えないと思うけど」
「それ自分で言っちゃうのどうかと思うよ」
「事実でしょ。まったく、こんなオジサンに娘を預けるなんて、アンタんちのパパとママは何を考えているのかしらね?」
「最近ね、パパとテレビ電話すると、なんかおでこがどんどん大きくなってる気がするの。チーフもオジサンなのに全然ちがう」
「それは人によるのよ。きっとパパすごく気にしてると思うから直接言っちゃ駄目よ」
「倒れちゃうかもしれないもんね」ひなたは楽しそうに笑う。その一撃がパパの致命傷となり得ることをよく理解しているようだ。
漸くいつもの調子を取り戻してきたひなたは、その後もニコニコと楽しそうにいろいろな話を聞かせてくれた。昔からなぜか「チーフ、あのね」と自分に向かって一生懸命に話をする子だったが、そこは変わらずに成長しているらしい。もちろん呼び方も変わらぬまま。
さすがに六年生ともなれば語彙力が桁違いに上がり、スラスラと何でも不自由なく話す。飽きもせずずっと喋り続けていられる才能は真理子譲りだろう。流行りの若者言葉が混じっていたりすると特に大きくなったことを実感するし、自分にはついていけなくて、その言葉の意味や使い方をひなたから教わる時、同時に自らの老いを感じる。
だが、いつも気になってしまうのは、ひなたが学校の話をする時に友達の固有名詞——例えば『クラスのAちゃん』『友達のBちゃん』という存在が一切登場せず、『友達』『クラスの子』という包括的な表現しかしないことだ。担任の先生の名前ははっきりと言うからチーフですら覚えているというのに、友達に関してはそれがない。
真理子の遣いで学校まで弁当やら忘れ物やらを届けに行くと、クラスメイトたちと喋っているひなたに遭遇することも多いから、友人関係が悪いわけではないと思う。ただ、特別な存在としてひなたの中に位置付けられている友達というのはいないのかもしれない。しかも、もしかしたら本人もそれに気付いていないのかもしれない。
ひなた自身がそれで思い悩んでいないのならば何も問題はない。自分だってそういう子どもだったし、悪いことでもない。ただひなたは、自分の気持ちを隠しがちだ。特に、真理子や健一に言わないでほしいと頼んでくる話が多く、実際これまでにチーフとの間で生まれた『二人だけの秘密』は数知れない。
あまりにあまりと思う話はあとでこっそりと真理子か健一に伝えることもあるが、基本的にはチーフの中だけで留めることにしている。言わないでほしいという心理そのものは、理解できるからだ。しかしそういうことはそもそも、自分が聴くべき話ではないのでは、とも思う。
不安になるのだ。親に言えない秘密の話というのは本来、同年代の近しい友人と共有し、同調するものではないのだろうか? 自分という存在が、ひなたのそれを妨げてはいないだろうか?
ひなたと話すのが嫌なのではない。が、自分も元・ヒーローだ。長くは生きられない。それを考える度に、早く親しい友人や恋人を作って「オジサンは用済み」と言ってくれやしないかと願ってしまう自分が喧嘩をする。
「ひなた。今日、学校どうしたい?」
カフェオレのカップがそろそろ空になるという頃、ひなたの顔色を見ながら念のために訊ねた。徹夜をしている状態のため少し寝たほうが良いと思うし、仮に行くとなっても遅刻して午後からだろうと思ってはいたが、ひなたはそれまでのお喋りが嘘のように押し黙り、答えに困っているのか下を向いてしまった。
「良いのよ? 行きたくなかったら、無理して行かなくても」
「……本当?」
こんなことを勧めるのもどうかと思うが、パッと上がったひなたの顔には行きたくないと書いてあるのだ。「うん。今日は特別」
「行きたくない、けど……——」途中で口籠り、また俯いてしまう。「……ママには学校休んだこと、言わないでほしい」
「わかった。学校にはアタシが連絡しておくから、気にしなくて良いわ」
「……」
「どうしたの?」
「……チーフ、お仕事じゃないの?」
そこまで気を使うのかと驚いてしまった。たしかに指摘のとおり今日は仕事があるが、一人残して出掛けるわけにも行くまい。ただでさえ不安そうな顔をして、部屋の中でさえも自分にくっついて回っているような状態なのに。
「正直なことを言うと、アタシ働くの嫌いなのよね。今日眠いし」
モンスターが来るわけでもない。今は優秀な統括もいることだし、老体が二、三日いないくらい何の問題もないだろう。「みんなが学校や仕事に行っている間、自分は家で寝ていられるってすごくワクワクしない?」
思い当たる節があるのか、ひなたはニヤッと笑って頷いた。それにもやはり安堵の色が見える。
そろそろ寝床のことを真剣に考えなくてはと思いながらベッドのほうまで移動しつつ、ひなたの学校へ電話を入れる。少し早いかと思ったが、ひなたのクラスの担任はもう来ていて、事情を話したらすぐに了承してくれた。この担任は比較的若いのに機転が利いて、昨今の学校教員にしては珍しいくらい何でも柔軟に対応してくれる。運が良いのか何なのか、元々シャイニーのファン——正確に言うとシャイニーとスカイ・ハークの『カップリング』のファンだった、というのはかなりの加点になっていると思うが、このような謎の人物のことをひなたの親戚のおばさんくらいの立ち位置にしておいてくれるから、自分としては非常に助かっているしありがたい。
真理子のことも相当に心配してくれたが、ただの食べ過ぎだと言ったら笑っていた。「ひなちゃん、びっくりしたよね。いつでも待ってますから、落ち着いたらまた学校で会いましょうね」
担任と電話をしている間も、ひなたはぴったりと横にくっついていた。サクラを抱いたまま重そうな瞼を懸命に押し上げているように見える。
——さて、どうしてくれようか……?
会社に連絡をするのはこの状態を何とかした後で良い。メッセージだけは先ほど飛ばしておいたから、優秀な彼女なら何となく察してくれるだろう。
「ひなた、アンタ眠いんでしょう。一回寝なさいよ」
だが、ひなたは嫌だと言わんばかりに首を横に振り、懸命に起きていようとする。
「どうして? ああ、さすがにオッサンの布団では寝たくないわよね、ごめん」
「……そんなんじゃない」
「やっぱひなたン家にアタシが行ったほうが良かったかしらねェ? ちょっと待ってよー……?」
だいたい、人様が泊まりに来るような設備が整っているわけがないじゃないか。
満を持してしばらく開けていなかったクローゼットを開ける。想像していたより汚くはないと思う。
「……チーフ」
「んん?」背後から聞こえてくる声に返事をしつつ、奥を漁る。そろそろ除湿剤を交換しなくてはならないことを忘れていたと気付く。「なぁに、ひなた?」
「ひとりにしないで」
「どこも行かないわよ、ここアタシの家だもの」
答えながら、手元が辿り着いた収納袋に、心臓をキュッと摘まれる。
自分の趣味ではない、青い毛布——毛布というより、寝袋に近いかもしれない。十年くらい前、散々やめろと言ったのに、通販で買ったものをそのまま送りつけてきた奴がいたのだ。エレベーターを使えばすぐ自分の家に帰り着けるはずなのに、何を考えていたのか、本当にここで役立てていた。
まだ捨てていなかったとは。
もう、持ち主はとっくにこの世にいないのに。
「……」
袋は開けられなかった。最終的に彼女は英斗の布団で寝たがったからこれをメインで使っていたのは自分だ。だが、もしこれに持ち主の匂いが残っていたらと思うと、少なくともひなたがいる前では絶対に開けられない。当然、これをひなたに使わせるわけにもいかない。
探すのはやめよう。高いものでもなし、あとで即日配送の通販で用意すれば済む話だ。
「ねェごめん、ひなた。あとで布団注文しておくから、今はちょっと我慢してくれない?」
「ちがう」
「明日には届くと思うから——」
「そんなんじゃない!」
驚いて手を止め、振り向いた。声を上げたひなたは、目に涙をいっぱいに溜めてこちらを見つめていたが、ハッとした拍子にとうとう堪え切れなくなり、泣き出してしまった。
「そんなのいらない。ごめんなさい。ワガママ言わないから追い出さないで」
ぐすぐすと泣きながら、今度はごめんなさいを繰り返す。両膝の間に顔を埋めて小さく丸まっている。
ふと、葵が自分にしてくれたことを思い出す。
自分の感情をコントロールするのが下手で母に自分の気持ちをぶつけ、それでもまとわりつく不快な感情と恐怖心をどうしたら良いのかわからずにいたら、葵が何も言わずに自分を抱き締めて、一晩中ずっと一緒にいてくれたことがあったっけ。
遠い、遠い、昔の話だ。
「アンタがいつ我儘言ったの?」
「……ワガママばっかり。学校も休んじゃったし、チーフ困ってる。お仕事も行けないし」
「良いじゃない。働くの嫌いって言ったでしょ。それにアタシ学校サボりまくってたし、仕事だって行かなかったことあるわよ?」
「うそだ」
「本当よ。そしたら真理子が家まで呼びに来たわ」
「ママが?」
「そう。お節介もいいところよね」
おいで、と手を差し出して呼ぶと、ひなたは躊躇いながらも顔を上げ、じりじりとこちらに近寄ってきた。手の届くところまでやって来るのを待って立ち上がり、小さい頃のように抱き上げてみる。
「うわァ、重ッ……」
「ねぇ失礼!」
「冗談よ。大きくなったのねェ」
「……もう大きくなりたくない」抱っこされたまましがみついている大きなひなたが肩の上で呟く。こうしていると、いつの間にか遠くへ行ってしまった黄昏時の遊園地を思い出す。
あの頃よりは随分と重くなった。それでも、まだまだ軽い。
しばらく抱っこをしたままその場でゆらりゆらりと黙っていると、背中に回ったひなたの手に少しだけ力がこもったように感じた。
「……ねぇ、チーフ」
「なぁに?」
「チーフも死ぬの?」
思いがけない唐突な質問に一瞬驚いた。が、この質問には冷静に、真剣に、そしてはっきりと答える。
「そうよ」
答えなくてはならない。
いつか誰もが辿り着くその場所に、今、最も近い者として。
「遅かれ早かれ、生き物は皆、いつか必ず死ぬわ」
ひなたは肩に顔を埋め、声を押し殺して泣いている。だが、死んだりしないから大丈夫などという言葉はどうしたって言えない。
人外な力を駆使して事を成すヒーローが未来で支払わなくてはならない代償について、これまでひなたに話した記憶はない。だが、もしかしたらひなたはもう、どことなく感じているのかもしれないと思った。幼き日の自分が、そうであったように。
ゆらりゆらりと揺れながら背中を撫で、ベッドに腰を下ろす。ひなたの両手は相変わらず自分の背中を掴んだまま離してくれそうにない。
「……だから大きくなりたくないのか」
いつだったろうか。
自分も、それと同じようなことを言ったことがある。
——……ああ、そうだったのか。
葵も、母も、きっと——。
今になってそんなことを知る羽目になるとは思ってもみなかった。
「……アンタのママは、アンタに大きくなってほしいと思ってるよ。たとえそこに自分がいられなかったとしても」
「……うん。知ってるよ」ひなたが潤んだ声で答える。「ママ、あたしが何かできるようになったり、背がのびたり、どうでも良いことですごく喜ぶの」
その姿は容易に目に浮かぶ。「真理子らしいわね」
「ママが喜んでくれるのは、好きだけど、その度に、ちょっとずつ、ママがいなくなっちゃうのに近づいちゃう。どうしたら良いか、わかんない。だから、ママが喜ぶの、うれしいはずなのに怒っちゃう。本当はもっと、他のこと言いたいのに、いつもちがうこと言っちゃって、それがすごく、いやなの」
「本当は何て言いたいの?」
「……わかんない。『ありがとう』とか、『ごめんなさい』とか……でも、いつも言えない。そんなあたしが、いつもいやなの」
「……ひなたは偉いねえ」
「えらくないよ」
いや、十分だろう。少なくとも自分よりはずっと良い。
チーフに向かって話すのと同じようにすれば良いのだと言うのは簡単だが、そうもいかないのはよく知っている。自分の場合はもっと酷くて、言いたいことが何なのかもよくわからず、結局最後まで何も言えなかった。だからもうそれを見つけているひなたは、尊敬する。
「母親ってさ、不思議よねェ」母の気持ちなんて、一生理解できない。「アタシなったことないからわからないけど、どうでも良いことはすぐバレちゃうのに、一番肝心なことは何一つ伝わらないのよ。あれ、何なのかしらね? でも伝わらないからって、伝えないまま自分で持ち続けていると、いつか伝える先がなくなった時、どこにもやり場がなくなっちゃって、一生のお荷物になるの。それってすごく……不快。正直、言ってしまったほうがずっと楽だったんじゃないかって思う。わからないけどね。アタシは言えなかったから。ひなたがもう自分が言うべきことを知っているのなら、メソメソしてないでさっさと言っちゃったほうが、もしかしたら楽になれるかもしれないわね」
「……そうかなぁ?」
「大丈夫。これはアタシの話だから。そんな簡単なことじゃないっていうのもわかってるわよ。言うか、言わないか、最後に決めるのもアンタ自身。どっちに決めてもアタシはひなたの味方するけどね」
「本当?」
「ただし、自分が後悔しない道を行って? それはアタシからのお願いかな」
「……チーフ大好き」
「ありがとう」
「大きくなったらお嫁さんにしてよ」
「それはダメ」
「それなら大きくなっても良いのに」
「ちゃんと自分の世界一の王子様を見つけて。アンタは良い子だから、心配ないわ」
「チーフは良いね。可愛くて、強くて、あたしみたいにメソメソしない」
「そりゃあね。アタシ努力してるんだもの。当然でしょ。でも、アタシだってメソメソすることあるわよ」
「うそだ」
「本当よ。ただ普段は可愛くて強くてメソメソしないアタシに変身しているだけ」
話をしながら、ひなたをダイニングの椅子まで運搬して座らせると、部屋からメイクボックスを持ってくる。小学校に上がった頃から化粧に興味があったひなたに、よく呼び出されては可愛くしてくれとせがまれたのがつい昨日のことのようだ。部分的には施してやったことがあるが、全部を飾るのは初めてだと思う。まだ艶やかで綺麗な肌だし、パーツがはっきりしているから薄くて十分だが、派手に泣いてしまったばかりだから目元を誤魔化すのが一苦労である。やはり興味津々な様子で、真理子に似たくりくりの目をすぐに開いてしまうから、やりづらくて仕方がない。大きくなったのだから少しくらい我慢していてほしいものだ。
一生懸命に伸ばし続けるその髪を今日は少しだけお姉さんな雰囲気に巻いてやる。アクセサリーなんていらない。
「どう?」
鏡の前に連れて行くと、ひなたはポッと頬を赤くして目を輝かせた。調子に乗ってチークを塗りすぎたかと思ったほどだ。
「……これあたしなの?」
「他に誰がいるのよ」
「……」
ひなたは言葉もなく鏡に顔を近づけて、そこに映る『知らない誰か』の顔をまじまじと眺めている。
「良い? ひなた」鏡越しに話し掛ける。「アンタが何かになりたいと思うなら、今の自分にでき得る限りの努力をしなさい。自分が納得するまで、勉強するでも運動するでも、化粧を練習するでも、何でも良いわ。それがゆっくり少しずつ積み重なっていくの。変身するって時間がかかることなのよ。でも忘れないで。比べるのは、昨日までの、自分とだけよ」
あげる、とチーフはひなたに施した化粧に使った頬紅を差し出した。キラキラの、まるで魔法使いが使う変身コンパクトのような装丁で、化粧品メーカーが新作だと送って寄越したが、自分にこれはもう若すぎる。
ひなたはチーフの顔と、鏡に映った自分の顔、そして再び差し出された頬紅と順繰りに視線を移すと、やがて両手で大事そうにそれを受け取った。
「……ありがとう」
「アンタの人生は長いんだから休み休みやったら良いわ」
「あたしにできるかな?」
「それを決めるのは自分自身よ。でも、もしアンタが昨日までのアンタよりほんの少しでも前に進めてるって思ったんなら、他の誰が何と言おうと、アンタはその努力を誇って良い」
「誰かに何か言われたら? あたしチーフみたいに強くないからメソメソするよ」
「すれば良いじゃない。けど一つ良いことを教えてあげるわ。僻みや嫉妬は一〇〇%褒め言葉だから。自分よりアンタのほうが優れてるって、認めてくれてる奴しか使わないからね」
「本当?」
「アタシ、アンタにそういうの言ったことある?」首を振るひなたに得意げに笑ってやると、その瞬間、何かが腑に落ちたのか、顔つきが変わった。「僻まれたら「ありがとう、嬉しいわ」って言ってやりなさい」
「わかった」
「ああ、でもね……何頑張ったって良いけど、ご飯を食べないことだけはやめなさい」
「なんで?」
「食べすぎた時より後悔するわよ。足しすぎたんなら引けば良いけど、足さなかったものはマイナスにしかならないからね。何事も大事なのは土台よ。わかった?」
ひなたは素直に頷き、この時チーフに貰った可愛い頬紅は自分の『変身道具』として大切に所持するようになる。
チーフの言葉の本当の意味をひなたが知ることになるのは、それから何年かあとの話である——。




